147話 武辺者、大使館設立へ奔る・2
領主館から五分ほど歩くとキュリクスを南北に分ける中央通りに差しかかる。そこには小さいながらも趣味の良いガラス張りの建物があり、『ノーカ不動産』と達筆な木製看板が掲げられていた。この不動産屋はキュリクスでも屈指の物件取扱数を誇る名店である。トマファに促されて扉を引き開けると軽やかなドアベルが響き、丸眼鏡をかけた白髪の男が机から顔を上げた。
「やぁノーカさん、ご無沙汰です」
「おお、これはこれはトマファ殿! それにクラーレ嬢にプリスカちゃんもようこそ。──今日はどんな物件をお探しで?」
トマファやクラーレとは文官業務で顔を合わせたことがあるらしく、店主のノーカ・マメは嬉しそうに声を掛けた。プリスカについてはノーカ不動産から歩いてすぐのところに彼女の実家と酔虎亭があるから知っているのだろう。ハルセリアは穏やかな笑みを浮かべるその老人に颯爽と歩み寄ると、ぐいっと右手を突き出した。
「ルツェル公国大使ハルセリア・ルコックです。本日は“栄光ある”ルツェル大使館にふさわしい物件を、是非とも見繕っていただけるかしら」
「えぇ、構いませんよ」
ここでハルセリアのすぐ隣に立っていたクラーレがわずかに肩を寄せるようにして白髪の男を紹介した。
「あ、ハルセリアさん。この方は『オーシマ・テル』さんです」
それが聞こえたノーカの眉がピクリと動き、口元がわずかに引き締まる。
「ノーカ・マメです!」
すぐ後ろでプリスカがからかうようにニヤリと笑う。
「あー、この間も誰か同じ間違いをして怒られてましたよね」
トマファは一つ咳払いすると車椅子の位置を直しながらもう一人も紹介する。
「今日は五人で見て回らせていただきます。こちらは大使館参事アンドラさんです」
「あ、どーもです」
ノーカは朗らかな笑みと共にアンドラとも握手をすると、両手を大きく広げると声も一段明るくしていった。
「ではまず、予算や広さなどの希望があったら是非とも教えてください」
待ってましたとばかりにハルセリアが『南向き、角部屋、デザイナー建築』に加えて『浴室は源泉かけ流し』『バリアフリー完備』『防音完璧』『ベッドは円形で回るやつ』など、場の空気お構いなしに無茶な注文を次々と口にしたのだ。クラーレは呆れ顔、プリスカは肩をすくめ、トマファは表情消して聞き流していた。アンドラに至ってはツッコミすら放棄した。円形回転ベッドってそれもう絶滅危惧種だよ。しまいにはノーカの表情は凍り付いてた。
そして極めつけだったのが「ルツェル公国は決して裕福な国家じゃないわ、とにかく安い物件よ!」である。
あれこれ無茶苦茶な注文を並べ立てておきながら最後に「安くしろ」だ、どこの金髪ワガママ国家元首様だよと思ってしまう。しかもキメ顔で「ディールよ!」と言ってるからタチが悪い。ノーカの表情は完全に引きつっていた。しかしハルセリアは唇の端を上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべてこういったのだ。
「ええ、頼んだわよ! オーシマさん」
「ノーカだよ!」
そして一行の物件探しが始まった。
一件目の物件はキュリクス南にあるボンボル河岸にある木造建築だという。ノーカは「安い! 川から近い! 敷金礼金ゼロ! 全部屋水洗トイレ付き!」と自信満々に売り文句を並べるが、紹介された物件はどう見積もっても『川にせり建った掘っ立て小屋』である。風雨にさらされ続けたせいか壁板は反り返り、まるで強風一つで吹き飛びそうな代物である。
「川から近いっていうより、ほぼ川の上に建ってるじゃないですか!」
アンドラが眉をひそめる。土地の有効活用か、なんとか床面積を稼ごうとした結果なのか、基礎は川に浸かり、せり出ていた。京都の川床みたいとか伊根の舟屋みたいと言えば風流でエモいだろう。だが実際、こんなとこで暮らせば大雨一発で建屋が流されそうである。しかも安普請だ、プリスカが壁や柱をガンガン蹴ると建物全体がぐらぐらと揺れた。「台風来たら飛びますね」と冷静だ。
それを聞いてクラーレがからかうようにニヤリと笑い、「飛んだ大使館…ハルセリアさんにぴったりじゃない?」と煽れば、「どういう意味よ!」と怒鳴り返していた。
だがハルセリアもルツェルでは有能文官として知られ、煩雑な貿易交渉や役所の不正摘発に鋭く切り込んでいった女である。切り替えは早かった。「でもここだとカリエル君、来られないかもね♡」とすかさずトマファに向けて、片目をすっと閉じて口角を上げる、含み笑いを帯びたウインクを送るハルセリアであった。しかしトマファは「段差がひどくてごめんなさい」と申し訳なさそうに声を上げた。そうトマファは鈍感だ。
皆んなの反応は沈黙や小さなため息、そして呆れた視線をノーカに投げかけてくる。そんな空気にもめげずノーカはなおも食い下がる。
「いや、この物件、全部屋水洗トイレ付きですよ!?」
確かに水洗だが、どの部屋の隅には直径二十センチほどの丸い穴がぽっかりと口を開けられている。しかも覆いや囲いもない、穴がそこにあるのだ。これを水洗トイレと言って良いのだろうか、ただ川の真上で用を足す構造なだけなのでは。それを見てプリスカは顔を引きつらせ、「私、ここでお手洗いを使う勇気がありません」と呟いた直後、ついにアンドラが床を踏み抜き、川に落ちかけた。
「次、お願いします!」ハルセリアは即座に切り替えた。
次にノーカに紹介されて訪れたのは、東区の一等地から少し離れた住宅街にそびえる白亜の豪邸だった。重厚な門構えに広い前庭、磨き込まれた石畳のアプローチが続く。だが玄関扉には大小さまざまな靴跡が乱雑に残り、窓枠には鋭利な刃物で無理やり切り裂こうとした新しい傷が今も生々しく残っている。そして無駄にカラスが飛び回っているのが気になった。
「ここはお値段以上の価値がありますから!」
ノーカは胸を張って靴跡だらけの玄関を開けながら言うが、屋敷の奥からはかすかに湿った土と煙草の匂いが漂ってくる。空気は重く澱んでいて、長くいると疲れてきそうな雰囲気が漂っている。
「見た目は綺麗よね……、でも窓口業務をするには」
ハルセリアが首をかしげる。大使館業務と言えば外交や情報収集だけでなく、在留するルツェル公国民の生活相談への対応や査証窓口での申請・発給といった実務が主である。例えば旅券を紛失した市民が窓口で慌てている光景や移住相談で家族連れが詰めかける様子が日常だ。しかしこんな邸宅でどう仕事をしろというのだろうかとハルセリアは玄関を見上げながら眉をひそめた。しかし疲れ切っているアンドラは「もうここで決めましょうよ!」と半ば投げやりに言うのだ。
トマファは車椅子で前庭部分を軽快に進みながら、玄関前の段差や通路幅、スロープの有無などを一つひとつ確かめるようにあちこち眺めている。
「意外とバリアフリーなんですね。……だけど確かここって──」
と言いかけると、プリスカがピナフォアからメモ帳を引っ張り出し、カレンダーのページを指差して言った。
「ここって先週、アニリィ様たちが家宅捜索した『ワルファリ興業』の事務所跡じゃないですか?」
プリスカが言う。前にアニリィとメリーナ率いる家宅捜索班が突入のために囲み、扉をガンガン蹴って「はよ開けんかコラ!」「ドアぶち破るぞ!」と叫んで突入しようとしてた時、中から出てきたのは事件とは全く関係のない飲み屋勤務の男性二人。『寝起きドッキリ』と評されたこの事故は、捜査対象者の家を間違えるといった単純ミスだったのだ。慌てて正しい住所を確認し、改めて突入した場所がこの物件である。いま、領主館内ではワルファリ興業の事案について取調べの真っ最中である。
「つまり、事務所は事務所だけど……“ヤ"の付く稼業の事務所と」
クラーレが苦笑いを浮かべつつも目だけは鋭くノーカに問いかけると、ノーカは口元を引きつらせ、冷や汗を浮かべながら「え、えぇ…ソノトオリデス」と応えていた。「ちょっとオーシマ・テルさん!」とハルセリアが呼びかけると、「まだ事故物件じゃないよ!」と叫んでいた。
その瞬間、空からバサバサッという羽音と同時に何かが落下した。アンドラは一瞬硬直し、ゆっくりと天を仰いで深くため息をつく。彼女の担いだリュックには白い跡、その光景に周囲は気まずさ半分笑い半分で視線をそらすことにした。
「もぉ、カリエル君ぅ~、碌な物件ないじゃない♪」
ハルセリアは頬をふくらませるとわざとらしく肩をすくめて見せた。その声色には甘さが目立ち、語尾にかけて少し高く跳ねる。そしてハルセリアは腰をひねるように身体をくねくね動かしながら、時おり前傾して勢いよく、また時にはわざとゆっくりと押すなどしてトマファの車椅子を押していた。二人の距離は近く、会話の合間に軽く肩が触れるほどだった。
「お力になれず申し訳ない」
真面目なトマファは苦笑いを浮かべて彼女に詫びるが、そもそもハルセリアの条件が厳しすぎるのだ。ノーカが机に地図を広げ、物件候補の場所を指でなぞりながら「この路地は狭いから侵入しにくい」と先ほどから呟いている。彼女が伝えた予算内で事務所に使えそうな物件を必死に見繕っているのだろうというのも判る。例えば大使保護のため『攻め込まれにくい、防衛しやすい』場所も地図の上で一つひとつ確かめた上で提案しているのだろう。ただ、ちょっとズレてるのだ。
「つ、次はお値段も手ごろですし、キュリクス領主館からもお近いですから気に入っていただけるかと」
そこは領主館から十分ほど離れた西区の住宅街の中心に位置する石造りの集合住宅だった。周囲には落ち着いた雰囲気のオシャレな建物が建ち並び、一階には香ばしい匂いが漂うパン屋や湯気を立てる食堂、色とりどりの服が並ぶブティックが軒を連ねている。二階から五階は居住スペースになっており、通りには買い物袋を提げたオシャレな住人や子供たちの笑い声が行き交っていた。
「ここの一階部ならオシャレなルツェル公国大使館が開けますよね――もうここにしましょう」
アンドラは少し疲れた笑顔を浮かべつつも、「もうここにしましょう」と言い切る。しかし、まだ内見もしていないのに即決するのは危険だ。対するクラーレは落ち着いた声で「中だけは確認した方が良いよ」と諭すように言った。
「では、裏に回りましょうか」
ノーカが言うのでみんなで石畳の小道に足を踏み入れると、そこには昼間でも薄暗い狭い階段が現れた。しかも階段状なのは最初の三段だけ、あとは金属製の心許ない梯子が掛けられていただけである。これでは家具を新調しても搬入はおろか、雨の日に安全に登ることさえ難しいだろう。てかどうしてこんなデザインにしたんだ。
「ここの五階の奥、角部屋です、値段も予算内ですよ! ──風呂トイレは共同ですが」
そう言ってノーカは梯子に手を掛けるが、ハルセリアが手を軽く前に突き出し、やや鋭い声色で「ストップ」と制した。
「もうここでいいです、スカートじゃ登りたくありませんから」
あまりにも急というより、梯子を登るのだ、ハルセリアやアンドラのような膝丈スカートでは下から“絶景”が拝めてしまうという嬉しくも迷惑な物件だったのだ。しかも車椅子のトマファに登頂チャレンジどころではない。仮に登れても下りるのが一苦労である。結果内見は潔く断念となった。
「じゃあ次!」とハルセリアがきっぱり言って元来た道へ戻るとき、アンドラは濡れた石畳で足を滑らせ「ぐえっ」と短く呻いていた。
「あのぉノーカさん、……もうちょっとマシな物件ないんですか」
ついにハルセリアにも疲れが見えてきたのか弱気な発言が飛び出した。ノーカもハンカチで額から流れる汗を拭ってはいたがこの暑さだ、ハンカチでは多少心許ない。
「そうですねぇ、予算内で納めるとってなるとあと一軒だけですよ」
「じゃあそこにしましょうよ、ハルセリア様ぁ」
きっとアンドラはハルセリアよりも疲れているんだろう。床を踏み抜いて川に落ちそうになったり、カラスにフンを掛けられたり、仕舞いには石畳で転んで足まで痛めたのだ。そう言いたくなる気持ちは判る。
「ちなみにノーカさん、次の物件はどちらでしょうか?」
クラーレが訊くとノーカは北の方を無言で指差した。見えるのはコーラル村やテイデ山、クリル村へと続く北街道がすっと走る丘だけだ。特別な景色ではないが、山の向こうが少しだけ涼そうに感じられ、乾いた風が皆の頬を撫でる。プリスカは額に手をかざし目を細めてじっと凝視し、「ひょっとして」と口の端を上げて漏らした。
「ねぇノーカのおっちゃん、ひょっとして丘の向こうの物見やぐら?」
「えぇ、そうです! 高さは11ヒロ(約20m)、階段もなだらかな螺旋階段で遠くまで見渡せますし、夜光らせれば目立ちますよ! ──ただ、キュリクスから歩いて2時間……」
「却下です!」
ノーカは汗を拭きながら物件の説明をしたがアンドラが先に遮った。そもそもプリスカの強視力でしか見えない距離にあり、やや目が悪いハルセリアや眼鏡越しのアンドラには確認できるはずがない。しかもノーカが紹介してたのは、文官になりたてのクラーレが初めて手掛けた領主軍の軍事施設、物見やぐらである。今は殆ど使われていない物品庫が中央階にあり、ノーカにテナント探しを依頼していたが──さすがに軍事施設に他国の大使館を置くのは問題だろう。
ハルセリアが提示した家賃では大使館開設は無理だと彼女本人がついに悟ったのだろう。彼女は一つ咳払いすると、彼に向かって妥協案を提示した。
「じゃあ少し高くても良いからもう少しマシな物件、案内してくれるかしら。オーシマ・テルさ──」
「ウチは事故物件は取り扱ってねぇって言ってんだろ!」
ついにノーカがキレた。
結局ノーカ不動産のあるキュリクス中央通りまで戻ってきた。そして中央通りと中央市場通りが交差する四つ辻へ差しかかると、その角地には古ぼけた商家が建っていた。かつては薬種商として営業していたが、店主が高齢を理由に半年前に廃業、それ以来空き家となっている。立地は良くさらにスロープ付きで車椅子でも安心して出入りできる造りであった。
「なぁんだ、多少奮発すればこんな物件もあるんじゃない」
ハルセリアはそう言って足を止めた。アンドラは額の汗をぬぐい、肩を落としながら「いい加減ここにしましょうよ!」と半ば食い気味に賛同する。その声にはよほどの疲労がにじんでいたし、一緒に付いて回ってたクラーレやプリスカも同じことを思っていただろう。
「ですが申し訳ありません。この物件、大家の意向で賃貸じゃなく売買物件なんですよよ」
ノーカは申し訳なさそうに言う。そう、ハルセリアの譲れない条件は「安い賃貸物件」だった。その条件で今までノーカに提案して貰ってたのだ。
「そっかぁ、そうなるとルツェル公会議で売買契約について諮る必要があるからめんどくさいんだよねぇ」
ハルセリアはノーカにルツェル公国の政治事情を話した上で何とか賃貸にならないかと交渉を続けていたがそればかりは売主の希望だし、他にも物件について内覧に来る人は多いとノーカは言う。売主に交渉してみないと僕には判断は出来ないと言うばかりであった。
「そっかぁ、残念! ここならカリエル君も毎日寄れるんじゃない? お茶にも来られるし……♡」
「はい、ストップ。妄想はそこまで!」
「ちぇー……せっかく良い物件だと思ったのになぁ」
クラーレからぴしゃりと言われハルセリアは唇を尖らせ、未練がましく視線を建物に向けたのだった。結局その後も条件を緩めて何軒か物件を紹介して貰ったものの、ハルセリアの希望に合う物件は最後まで見つからなかった。