146話 武辺者、大使館設立へ奔る
晩夏の午後、キュリクス領主館の扉が勢いよく開くとハルセリアが外へ姿を現した。淡いグレーの上着に濃紺のスカート──ルツェル式の外交官服だ。その胸元には銀色の徽章、左耳には三日月のピアスが陽を受けきらりと光る。領主ヴァルトアへのルツェル公国大使の赴任挨拶を終えた彼女の後ろには、眉間に皺を寄せて腕を組みぷりぷりと肩を揺らすクラーレと、その様子を口元に小さな笑みを浮かべて面白そうに眺めるプリスカの姿があった。そのプリスカは地元で人気急上昇中の甘く香ばしい菓子「キュリクス・クッキー」がぎっしり詰まった丸いブリキ缶を抱えて、だ。
ハルセリアがヴァルトアに手渡した任命書には続きがあり、ルツェル大公フランツ・ヨーゼフ10世の書状には──
『大使館の物件探し──手伝ってあげてください。 そちらに送った大使は性格が“やや難あり”ですので、御せる方と一緒に探していただけると助かります』
と、まるで世間話の延長のような文面が続いていたという。
発端はこうだ。ルツェル公国がエラール王宮との諍いで新都エラール駐在大使を引き上げたのだが、関係断絶はまずいと判断したのだろう、間を置かず辺境キュリクスへの大使館設立を打診してきたのである。キュリクス側はというと、
「問題ないと思いますが、まずはエラール王宮に確認を取りたいです」
と返答したものの、大使館の用地選定すら終わらぬうちに大使を送りつけてきたのだからいささか性急である。この話は大使であるハルセリアも初耳だったらしく頭を抱えていたが、それはヴァルトアも同じである。ルツェル公国民は普段からせっかちで有名だが、大使館設立までこの調子だとはさすがに多くの者が予想していなかっただろう。
書状にはさらに追伸があり──
『P.S. 大使ハルセリアちゃんの性格はちょっとアレですが、素直で良い子です。キュリクスで可愛がってあげてください』
この部分だけはルツェル后妃ゲオルギーナの連名だった。彼女は大国ビルビディア王レヴァンヌ13世の妹であり、『センヴェリアの貴婦人』とも呼ばれる有名な人物だ。そんな方々からの追伸文が、まるで“爆弾娘”を押し付けるような内容だったため、ヴァルトアは「なんか面倒事、押し付けられてねぇか?」と思わずぼやいたという。もっともルツェル公国太守からの書状を無碍にすれば国際問題になりかねない。そこで彼は物件探しの同行にクラーレを、付き添いにプリスカを指名した。そして「くれぐれも揉めるなよ」と一言付け加えて送り出したのだ。いわばヴァルトアお得意の面倒事を人に押し付ける“丸投げ”であった。
「ヴァルトア様の命令だから一緒に探しますけど……なんかムカつくわ」
クラーレは唇を尖らせ、ぶつぶつ文句をこぼしながら視線をそらす。初顔合わせの席でハルセリアが平然と上から目線であれこれ言い放ったときの光景が今も頭をよぎるのだ。しかもその場で自分の想い人について悪びれもせず話しただけでなく、極めつけは──トマファの通名呼びをしたことだ。以来ハルセリアの名を耳にするだけで眉間に皺が寄るし、やけ酒の一つも飲みたくなる。命令とあれば従うが仲良くする気はさらさらない。一方のハルセリアはそんなクラーレの冷たい視線をものともせず、余裕の笑みを浮かべたまま玄関の先へと歩みを進めていた。
「ところで、“カリエル君”は?」
ハルセリアの口にしたその名は、彼女が十年来抱き続けてきた想い人──そしてクラーレにとっても大事な人──トマファの通名だ。その呼び方を耳にした瞬間、クラーレのこめかみがぴくりと震える。唇が固く結ばれ心の中で小さな火花が散った──『イラッ!』としていた。
領主館正門前には背筋をぴんと伸ばしつつも額にはうっすら汗を浮かべ、やや引きつった笑みを見せる小柄な少女──ハルセリアの随行員として共にキュリクスへ赴任した参事アンドラが待っていた。大きなリュックサックを背負い、書類の束を抱えて額から首からと汗をにじませて、上司の帰りを今か今かと待っていたのだ。
「いやぁ待ちくたびれました。では今から栄光あるルツェルの大使館へ向かいましょう!」
そしてアンドラは額と胸と肩を右手で触れる。ルツェル公国民は自身の国に強い誇りを持っているため『栄光あるルツェル』と表現するが、その時、額と胸と肩を右手で触れながら言うようにしつけられる。だから彼女も癖でやったのだろう。
「そうね。それじゃあ、まずは大使館の場所を確保しないとね!」
にこやかに笑い、目を輝かせながら両手をポンと叩いたハルセリアだった。濃紺のスカートがひらりと揺れ、彼女の弾むような声には抑えきれないほどのワクワク感が滲んんでいる。人によっては物件探しが大好きで顔がほころぶ気持ちも判らなくはない。しかしこの人は何を言ってるのだろうというのがアンドラの率直な感想だった。周囲の通行人も一瞬視線を向けるほどのハルセリアのゴキゲンさに、アンドラはようやく上司の言葉の意味を理解した。額の汗をぬぐいながら目を丸くすると、「はぁ!?」と思わず声を上げていたのだ。
このアンドラ、才女ではあるが“妙に厄を呼び寄せる”ことで知られていた。センヴェリア大陸最年少で大学政経学部を修了した俊才少女だが、配属先では決まって上司の不祥事に巻き込まれ、転属と引っ越しを繰り返す日々であった。つい最近も上司がハルセリアという巡り合わせに加えてエラール王宮での騒動である。その結果、上司とセットでキュリクス行きが決定したのだ。
彼女の運の悪さはあまりの災厄ぶりから「特急呪物」と陰であだ名されるほどだった、ここまでくると彼女の引受先はどこにも無いのも無理はない。だがハルセリアは「それでも自分を慕ってくれるなら、地獄の果てまで付き合ったげる」と胸を張っていた。その眼差しには冗談めかしながらも揺るがぬ覚悟が宿っていたのだ。
──それにしても、大使館の場所がまだ決まっていないとは、一体どういう事態なのか。
それどころか今夜の寝床すら確保できていないとなれば、いっそ陽のあるうちに橋の下──例えば水音と涼しい風が吹き抜けるような場所──でも探すべきかと本気で考えてしまう。特に今日は真夏の陽射しがじりじりと肌を焼き、背中に流れる汗が服に張りついてべたついている。しかも冷涼なルツェルと違ってキュリクスは暑い。荷を解いてゆっくり温泉に浸かるはずだった計画は霧散した。これから始まるのは物件探し──しかも自分の家ではなく、大使館。
「……惨事だ、参事が惨事──帰りたい」
アンドラはぼそりとつぶやき、目尻にじわりと涙が滲む。肩を落として深くため息をつく。疲れて前進鉛のように重いのにこれから待つのは物件探し。汗で背中が張りつき、温泉の湯気を想像するたびに遠ざかる。そんなとき「お姉ちゃん、クッキー食べる?」とプリスカがクッキー缶を差し出してくれた。ふわりと漂うバターと砂糖の香りが鼻先をくすぐり、表面のほろりとした質感に思わず指先が伸びる。プリスカの屈託ない笑顔とサクッとしたひと口目の甘みがアンドラの重苦しい空気をふっと和らげた。
そんな時、ランバー接骨院からのリハビリ帰りのトマファが車椅子を小さくきしませながら姿を現した。柔らかな笑みを浮かべながら車椅子を漕ぐ彼を見つけた瞬間、ハルセリアはスカートを揺らし、瞳を輝かせて駆け出した。
「カリエルくぅ〜ん♡」
突然の通名呼びに目を瞬かせ眉をわずかに上げたが、駆け寄る女性の顔が旧友だとわかると息を抜くように口元をほころばせ右手を軽く振った。
「あぁ、お久しぶりですね、ハルセリア嬢」
「うん、来ちゃった!」
ハルセリアは駆け寄る勢いのままトマファの顔をたわわな胸元へと押し付けた。ふいを突かれたトマファは再び目を瞬かせ、わずかに身を引こうとする。しかし時すでに遅く視界の端が暗くなるほどの圧迫と胸元の柔らかさに息が詰まる。くぐもった息音を漏らしながら肩を震わせてじたばたともがくのだった。
「ちょ、ちょっと何考えてるのよ、離れなさいってば!」
クラーレが眉を吊り上げ力任せに引き離そうとするが、ハルセリアも意地になって強く抱きしめる。
「離れなさいよ、このどすけべルツェル女!」
プリスカも叫びながら引き離しに参戦するがハルセリアはさらに必死になる。なおの事ぎゅーっと抱きしめる腕に熱とたわわがこもり、押しつぶされるような圧迫にトマファの呼吸が荒くなる。頬に伝わる彼女の体温と甘い香りの中で徐々に力が抜けてぐったりとしてゆく。ついにトマファの息が詰まり脳みそがログアウトする寸前、アンドラが素早く身を差し入れてハルセリアを強引に引きはがしたのだ。
「ハルセリア様、他国で官憲のお世話になるような真似はおやめください」
アンドラは静かに上司をたしなめるがハルセリアは一片の悪びれも見せず、唇の端をゆるく持ち上げて小悪魔のように微笑んだ。そして肩を軽くすくめると首を傾けながら「カリエル君、ごめんね」と艶のある甘い声で言い添えた。その瞳は茶目っ気と揺るぎない自信にきらめき、視線は真っすぐトマファに注がれていた。
クラーレは眉間に深い皺を刻み「この非常識女!」と鋭く叫び、プリスカは腰に手を当てて一歩踏み出しながら「嫁入り前の女性がおっぱい押し付けるなんてあんた正気なの!?」と早口でまくしたてる。それでもハルセリアは二人の抗議を羽根で払うかのように肩をすくめ、目の端にかすかな笑みを浮かべるだけで、まるで存在しないかのように振る舞っていた。
「それよりもさぁ、カリエル君──」
ハルセリアは身体をぐっと乗り出して、指先で空中に小さく家型を描きながら「大使館に使えそうな物件を探したいんだ」と切り出した。キュリクス領主館の外交はトマファの担当でルツェル公国との大使館設置交渉はエラール王宮の許可待ちで止まっている状態だ。もちろん王宮からの返答はなく、このまま棚ざらしだろう──とトマファは内心考えていた。
にもかかわらずハルセリア本人が大使として派遣され、しかも今から物件探しだと言う。その大胆さと性急さにトマファは眉間をきゅっと寄せてしまう。ルツェル公国民のせっかちさは知っていたが、まさかここまでとは。視線を動かすとハルセリアの後ろで疲れ切った表情のアンドラがじっとこちらを見ている、きっと疲れているのだろう。
「それなら、さっさと探しましょう」
優しく答えることにした。これがトマファが出来る最大限の優しさであった。
「頼りにしてるわ、カリエル君」と応えたハルセリアは、唇に茶目っ気を浮かべながら身を乗り出してスカートの裾を揺らしながら再び車椅子のトマファへと抱きつこうと腕を広げた。その瞬間、クラーレが素早く彼女を羽交い絞めにして止めに入る。
「ヴァルトア様からの命令ですから、物件探しは私も立ち会いますわよ!」
「わたしもー!」とプリスカが笑顔で手を挙げ、つま先で小さく跳ねるような仕草を見せた。
「不動産屋巡りって面白そうよね!」
プリスカはうんざりとした顔のアンドラに肩をすくめて声をかけた。アンドラは一瞬だけ目を細め、力のない愛想笑いを浮かべる。そんな疲れ切った表情のアンドラにプリスカはクッキーを一枚、彼女の口元へと差し出した。ハルセリアは笑顔を保ちながらも視線は鋭く二人を射抜き、声色をわずかに低くして呟いた。
「……体のいい監視よね、ふふ」
アンドラはというと小さく肩を落とし、クッキーを咀嚼しながらため息まじりに「もう帰りたい」とつぶやいたのだった。