145話 武辺者、ついに結婚へ・3
昼下がりのキュリクス領主館。外では夏の陽光が石畳を白く照らしているが、館内の廊下はいつも以上に慌ただしさとざわめきで満ち溢れていたていた。
館内のあちこちで囁きと妙に真剣な議論が飛び交い、廊下の隅では立ち話の輪がいくつも出来ていた。私語厳禁な筈の兵たちが浮足立っているのだ、館内の「トマファ結婚」騒動はもはや臨界点に達している。飛び交う噂はあちこちで尾ひれがつき、人の耳目を集め過ぎたのだ。中には「プリスカの両親との挨拶は済ませてある」とか「披露宴は領主館を貸し切る」など、誰が考えたのか分からない話まで飛び交っていたのだ。このままでは統制や士気の崩壊、連携の欠如などが生まれてしまう――そう危惧したオリゴとメリーナは眉間に深い皺を寄せ、互いの目をじっと見据えた。そして短い沈黙の後、二人は小さく頷き合うとすぐさま決断した。
「練兵所の食堂に集合よ。メイド隊も斥候隊も、工兵も通信隊も……関係者全員」
ただ、メイド隊副長であるマイリスは「ちょっと離せられない業務があるから私はパスね」と、ほんのり笑みを浮かべつつそう告げるとメイド長執務室から静かに出て行った。背筋を伸ばしたその後ろ姿には、場の熱気から距離を取ろうとする冷静さが漂っていた。
数十分後。
練兵所の食堂は人でぎゅうぎゅう詰めになってしまった。メイド隊や斥候隊、工兵や通信隊の面々が制服や作業服のまま入り乱れ、ざわざわと落ち着かない様子であったのだ。他にも噂好きな男性兵も数人混ざり、ニヤニヤと耳をそばだてている。さらにミニヨは友人のエルゼリア、ラヴィーナと連れ立って現れ、侍女たちは困った顔で後に続く。場のあちこちでひそひそ声やため息、好奇心に輝く目が飛び交い、まさに「館内の噂関係者総出演」といった様相であった。
そして――よりにもよって、ルツェル公国の大使であるハルセリア・ルコックが、深い紺色のドレスに身を包み、涼しげな笑みを浮かべながら居並ぶ面々の中に堂々と立っていた。突然の登場に周囲は一瞬ざわめき、数人は驚きで口を半開きにした。
「ちょっと! ルツェルの大使が他国の練兵所にのこのこ入ってくるなんて、完全に主権侵害行為じゃないの!」
怒気を含んだ鋭い声でクラーレが言い放った。彼女の眉間は怒りでしわが寄り、腕は腰に当てられている。「そうよ!」とプリスカも即座に同調し、勢いよくハルセリアの手を掴もうと伸ばした。だがハルセリアは微動だにせず、冷ややかな視線をプリスカに返すと静かにその手を払いのけた。顎をわずかに上げて周囲を見渡し、わざと間を取る。その仕草の後、左手でゆっくりと髪をかき上げたのだ。左耳から下がる三日月のピアスがきらりと光る。張り詰めた沈黙が一瞬場を支配し互いの視線が交錯する。そして彼女はさらりと言ってのけた。
「私にとってこれは非常事態よ、国際条約に勝るわ!」
あまりの開き直りに誰も突っ込めなかった。ハルセリアのような外交官が練兵所に入る行為は、場合によっては敵対的な諜報活動と見なされかねず、本来なら国外追放や国交断絶の口実にもなり得る危険なものだ。そのことはメリーナもオリゴも軍属勤めが長いので知ってはいるだろうが、メリーナは「はぁ」と大きくため息をつくと、
「むしろ警備ガッチガチの練兵所に入ってこれた勇気と根性は認めるわよ」
と肩をすくめたのだった。
場の熱気が高まりきったところでオリゴが拳を固く握りしめ、鋭い視線を周囲に走らせた。そしてテーブルをゴスンと叩く音が騒がしかった食堂に響く。その一瞬で静まり返ったのだ。息を呑む音さえ聞こえ、吐き出されたオリゴの気迫に食堂中の皆がどきりと肩を震わせたのだ。
「……この噂、そんなに気になるなら、本人に聞きに行きましょう」
すると全員が一斉に椅子を引く音を立て、ざわめきとともに雪崩のように隣の領主館へと押し寄せていった。誰かが小声で「行こう行こう!」と囁き、足早に廊下を駆けていく者もいる。興味本位でついてきたミニヨの友達らも、バレたら大変な事になるはずなのに、そんなことはお構いなしといった顔でひそひそ笑いながら列の中に紛れ込んでいた。
なお、集合場所はお昼時の練兵所食堂だったため、普段は立ち入らないメイド隊や斥候隊、工兵隊らで埋め尽くされ、食事にありつけず外へ食べに行った隊員が続出した。結果、関係各所から武官長スルホン宛てに苦情が殺到し、オリゴとメリーナは反省文の提出を命じられる羽目になったという。さらに、オリゴが気迫を込めて叩いたテーブルは天板に穴が開き、その修理に関する始末書まで増えたというが――それはまた別の話。
その日のトマファはヴァルトアと二人、貴賓室で昼食を共にしていた。香ばしいパンの香りと温かなスープの湯気が漂い、静かで落ち着いた空気が部屋を包んでいる。マイリスが一歩下がって控え、銀のポットを静かに置く音だけが響く。——その穏やかさを破るように、オリゴとメリーナが勢いよく扉を押し開けたのだ。直後、女性陣と数人の兵士がなだれ込む。先頭のオリゴとメリーナ、女兵たちの視線が一斉に食事中のトマファとヴァルトアに注がれた。
なお、ほとんどの兵たちは『領主と文官長の二人が貴賓室で食事なんて、きっと相当豪華なものを食べているに違いない』と思っていたそうだ。だが実際に目にしたのは、自分たちの昼食より質素なパンとスープだけ。後になって兵士の一人が「……え、あれだけなの?」と首を傾げ、隣の仲間が「私らの方が豪勢じゃない?」と笑ってしまったと語っている。
「み、みんなどうしたの!?」
突然の闖入にマイリスが素早く一歩前へ出て、視線を鋭く走らせながら間に入った。こういう時、護衛業務に当たるのもメイドの務めである。顔ぶれは見知った者ばかりではあったが、油断はしない。ナイフこそ抜かなかったものの、足を半歩開き、両手はいつでも動けるように腰の位置で軽く握り、構えていた。
だけどそこでクラーレは眉根を寄せたまま潤んだ瞳でトマファを見つめ、声を震わせながら訊いた。視線は一瞬だけ床に落ち、また彼へと戻る。
「ねぇ、トマファ君って本当に誰かと結婚するの?」
あまりにもクラーレの悲痛な叫びであった。トマファはパンをちぎって口に放り込もうとしてたのだがその手を止め、眉をひそめながら一瞬だけ視線を泳がせた後、きょとんと首を傾げた。
「え、はぁ……?」
興奮と好奇心で前のめりになる面々。後方からは「ほら言え!」と心無いヤジまで飛び、それをたしなむ者もいた。しかし当のトマファは、何のことかまるで分からないというように視線を泳がせ、短く息を吐いた。しばし眉間に皺を寄せて逡巡した後、ふと何かを思い出したかのように目がわずかに見開かれる。そして手にしていた黒パンをそっとテーブルの皿の上に戻し、口を開いた。
「実は縁談じゃなくて、王国北西部のドンバス侯爵家から正式な依頼があったんです。クラーレ殿の農薬実験、あちらではうまくいきませんでね、その『根因』を調べてほしいと頼まれたんですよ」
「……根因?」
思わずメリーナが訊く。トマファは車椅子の背もたれについているポケットに手を伸ばし、ゆっくりと二本尾の獅子と剣を組み合わせた紋が入った封蝋付きの封書を取り出した。深紅の蝋には細やかな彫りが施され、光を受けて重厚な輝きを放っている。それはトマファの執務机の隅に今朝から置きっぱなしになっていたあの封書だ。取り出すその手元に場の視線が集まり、トマファは軽く息を整えると「これですよ」と静かに告げた。
沈黙が場を支配して重苦しい空気がゆっくりと広がっていく。数人が互いに視線を交わし、誰もが次の言葉を待っている状態であった。やがて後方で誰かがぽつりと呟いた。
「……ひょっとして、誰かが”根因"と"婚姻"を聞き間違えたってこと?」
その瞬間、食堂に集まった面々が一斉にため息を吐くと肩が一様に落ちた。空気がふっと抜けたような感覚が広がり、中には天を仰いだり額に手を当てる者もいた。
「これねぇ、市場の魚屋の女将がぺらぺら余計な事を話しちゃったのがそもそもの発端なのよ」
オリゴは片眉を上げ、呆れたように肩をすくめた。
「あの女将、錬金術ギルドの誰かから聞いた話を、プリスカや他の兵たちにまであちこちで言い回ってたの」
そこでオリゴは視線をプリスカに移す。
「そして尾ひれが付いた原因は……あんたよ。日ごろからトマファへの好意を公言してたことが、噂の信憑性を高めたのよ」
オリゴが冷静に指摘した。その声に場の熱がわずかに引く。噂が広まるにつれ、「プリスカの両親との挨拶は済ませてある」などという具体的な尾ひれまで付いたのも説明する事は出来る。そもそもトマファは時々酔虎亭で一杯飲むことがあり、その際に顔を合わせる機会はいくらでもあっただろうし、ロバスティア王国へヴィシニャクを売り捌く作戦だってプリスカの父ダンマルクとの綿密な作戦のすり合わせの結果であるのだ。さらに文官長ともなれば、領主館で披露宴を開いても誰も異議は唱えない——そう想像すれば、全員は「ああ……」と同時に脱力するしかない。直後、先ほどよりも深いため息が廊下の空気を重く満たしたのだった。
プリスカはしょんぼりと肩を落とす。胸の中では「なんで私ばっかり……」という思いがぐるぐると渦を巻き、視線も定まらない。そこへ容赦なく周りからの叱責の嵐が降り注ぎ、ついに彼女は顔を上げて叫んだ。
「でも私、何もしてないよね!?」
まさにとばっちりである。
「……下らんことで館内の士気を下げんでくれ」
ヴァルトアは低く押し殺した声で吐き捨てると眉間に深い皺を刻んだ。語尾には苛立ちが滲み、重たい声色が部屋の空気を冷やす。そして彼は額に手を当てて眉をひそめたまま肩を大きく落とすと深々とため息をついた。その吐息が静かに広がり、彼の視線が机の上を彷徨わせると場の空気はぴたりと止まる——はずであった。
「愛の勝利!」「やっぱり運命!」
感情組──プリスカ、セーニャ、クラーレは顔を真っ赤にし、手を取り合ってきゃあきゃあと盛り上がっていた。目はきらきらと輝き、声もやたら弾んで高くなる。セーニャは身を乗り出し、クラーレは小刻みに頷きながら笑っていた。しかし忘れてはいけない──セーニャとクラーレのこの二人、トマファの結婚相手をどうやって排除しようかと真顔で思案していたことを。もし方向が誤っていたらプリスカは今頃どうなっていたか……。あな恐ろしや、である。
対する分析組。オリゴとマイリスは腕を組み、ため息を付いた。「……いや違うだろ」「根因だって何度も言ったよね」とかなり冷ややかである。
そもそも二人、オリゴとマイリスがこの話を耳にした直後、メリーナとの三人でまず魚屋の女将を訪ねて詳しい話の経緯を問いただしたのだ。その後は噂の発信源とされた錬金術ギルドや周辺での聞き取り調査を行い、すぐに沈静化を図って走り回ったのである。
だが三人は肝心な一点を見落としていた──女将への口止めである。領主館の人間がわざわざ尋ねてきたことで女将は「これは本当の話だ」と思い込み、顔を合わせた兵たちに「実はねえ」と得意げに吹聴して回ったのだ。それどころか街中で触れまわった結果、火消しよりも火付けが勝り、噂はあっという間に領内を駆け抜けたのだった。ハルセリアが耳にしたのは街中を駆け回ってきた情報だったので、結婚相手については「どこかの侯爵家」と聞いたようである。
そして延焼に一役買ったのはクラーレだ。たまたま裏口の搬入口で耳にした話で頭一杯にしてしまった彼女はあちこちに相談して回ったのだ。恋のライバルであるセーニャにもわざわざ伝え、さらには軍属時代の上官だったウタリにも「どう思う?」と相談すれば、噂はあっという間に真実味を帯びてしまう。
──そしてもう一人、セーニャも負けてはいない。彼女はクラーレから聞いた話をミニヨに相談し、そのミニヨは何と父ヴァルトアの耳に入れてしまったのだ。事情を知らぬヴァルトアは腕を組み顎を引きつつトマファを外交の切り札に使おうと密かに動き始める。それを見たセーニャは『やっぱり噂は本当だ』と勘違いを深める結果となったのだ。もちろんヴァルトアは本気でどうしようかと思案してたため、彼女らを責めることは出来ない。ちなみにその“切り札”の使い道をどうするかを話し合うため、こうして二人貴賓室で昼食を共にしていたのだ。──だが質問を切り出す前にオリゴたちが乗り込んできたため、その目論見は彼の心の中で静かに葬り去るのだが。
そこへ知ったかぶり組、ハルセリアが胸を張って割り込んできた。
「わ、私はそれぐらい知ってましたもーん!」
「アンタは駐在大使、関係ないでしょ!」——領主軍からの総ツッコミが飛び、眉を吊り上げたハルセリアはむっとした声色で言い返す間もなく、ぷいとそっぽを向いた。そしてちらっとトマファを見やり「カリエル君」と呟いて顔を赤らめていた。
「お前らなぁ、俺たちは静かに昼飯を食ってたんだ! 話が片付いたなら午後からの課業に備えて休んでろ!」
ヴァルトアの一喝で全員は「はーい」と言って集まった全員がぞろぞろと貴賓室を出て行ったのである。
「はぁ、昼めし食ってるのに胃が痛いわ」
「ですね。道理で今日は領主館内がそわそわしてたんですね」
トマファはそう言うと、ふと小首をかしげて軽く笑みを浮かべつつこう切り出した。
「ところで、一緒に食事なんて一体どうしたんです?」
トマファからの質問にヴァルトアは思わず飲んでいたスープを盛大に吹き出した。そして咳き込みながら手元のテーブルを軽く叩く。トマファは驚いて身を引き、マイリスが慌てて布巾を差し出すと、彼は息を整えつつも顔を赤くしてはぁはぁと息を切らせていたのだった。
*
昼食後、ヴァルトアの机にずしりとした重みのある一通の封書が届けられた。厚手で手に心地よい重みを持つ上質な紙に包まれていた。宛名はポルフォ・ポルフィリ──アニリィの父親である。深い緑色の封蝋には三本杉と交わる二本の両手剣が精緻に浮かび上がっている。その表面には微細な金箔が散りばめられているのか、まるで金を溶かし込んだようにきらきらと光を返していた。ヴァルトアはしばし封を見つめ、静かに封切り用の短刀を差し入れた。す、と紙が割れる感覚が響く。中の便箋からはポルフィリ領独特の香ばしい紙の香りと厚紙に残った筆圧の凹みが鼻と指先に伝わり、かすかな温もりとざらついた便箋が掌のひらにも心地よく広がった。その便箋をめくると、力強くも少し急いたような筆致でこう書かれていた。
『我が“じゃじゃ馬娘”アニリィを、そちらの文官長トマファ殿との婚姻をそろそろ真面目に考えてくれんかのぉ──』
その線の張り具合や僅かなかすれから、ポルフォの本気度と焦りがにじむ。
そして一行、間を置くようにぽつりと──
『……やっぱ持参金は出せんけど』
ヴァルトアは思わず手紙を二度読みした。いや、息を呑んで、さらにもう一度読み返してしまった。そして顔をしかめ、背もたれに深く身を預けた。
「またかよ! 持参金出せんって……実の娘だろ? いやぁ、ドン引きだわ」
なお、ポルフォからの婚姻の催促はこれで三回目である。なおトマファには二度ほどポルフォの意思を伝えたのだが、「あ、アニリィ様はちょっと……」とガチ目に拒絶されたので今回は彼に伝えないでおくことにしたのだった。