144話 武辺者、ついに結婚へ・2
厨房の糧食隊へ向けて歩くステアリンとパルミチンが、イモの入ったバケツを両手に抱えたまま小声で交わしていた。二人は互いに目を見合わせず、肩をすくめるようにして歩く。それは業務中の私語厳禁なのを必死に守っているのだ。だが今回の件はそうも言ってられない、二人の表情には好奇心と悪戯心が混ざり、時折バケツを持つ腕で軽く相手の肩を小突く仕草も交じる。足音は軽く、しかし声色は妙に弾んでいる。
「ねえ、聞いた? トマファ様が結婚するんですって」
「本当? 相手は誰?」「えっとねぇ……」「――うそぉ!」
その囁きは水面に落ちた小石の波紋のように広がり、廊下を抜けて衛兵隊の詰所にも届く。
「はぁ、今なんつった?」
槍の穂先をボロ布で磨く衛兵が顔を上げると、話を仕入れてきたであろう男がひそひそ耳打ちをする。そして話は人から人へ伝わるうちに、尾ひれがつき、笑い話と下世話な冗談が入り混じっていく。
「ほぉ、あの文官長トマファ様が結婚だと!?」
「あのとっぽい兄ちゃんにもようやく色っぽい話が出てきたんだなぁ」
それを聞いた、ダンベルで大胸筋を鍛えていた衛兵がにやりと口を曲げると、掴んでいたそれをドスリと音を立てて床に置くと、さらに重いものを掴んで身体をいじめぬく。
「ってあの兄ちゃん、車椅子生活が長いって話じゃなかったか? ──大丈夫なんか、アッチのほうは」
「んなもん惚れた女が必死に勃たせてくれるもんさ!」
「そりゃそうか!」
お調子者の衛兵は筋トレ中の同僚の股間を突つき、わざとらしく眉を上げる。周囲の者も肩を揺らし、膝を叩きながら吹き出した。笑い声は次第に大きくなり、詰所の天井に反響して別の部屋にまで届くほどであった。あっという間にその噂話は完全なスケベ話に転がり、男たちは下卑た笑いで盛り上がる。中には両手で大げさに夜の営みを再現するような身振りまで飛び出したのだ。人の恋バナがただの猥談になってしまうのは男の悪いところだろう。だが男たちにとってそれも楽しみの一つでしかない。
その声は詰所の薄い壁をあっさりと抜け、たまたま耳にした女性衛兵たちは顔をしかめて「最低」「やっぱり男ってそういう方向に行く」「気持ち悪い」と呆れたように言い合っていた。そんな感想お構いなしに詰所の中は笑い声が爆ぜるように響き、石壁に反射して倍増した賑やかさが廊下の奥まで届く。隣室で帳簿をつけていた文官レニエが顔をしかめるほどであった。
次は武官執務室。インク壺の蓋を閉めようとした武官付き秘書官ルファスが、隣で話すウタリとサンティナの言葉に耳を傾ける。「相手は…いや、まだ確証はないらしいが」──その瞬間、彼は机を離れ、廊下へと歩き出した。中には「そんな話に首を突っ込んだら面倒になる」とばかりにわざと耳に入れないよう立ち回る者もいるもんだ。
厨房では大鍋をかき混ぜていた糧食隊隊長シーラが「結婚?」と振り向き、驚きのあまり木杓子を持つ手が止まる。鍋底が焦げ付くのも忘れ、周囲の者たちも持ってきた話に気を取られる。しばらくして香ばしい匂いが漂うと若い隊員が慌てて火を止めていたが、その耳はしっかりと噂話の方へ向いていた。おかげで今日の食事は少し苦い味がしたという。
工兵隊の作業場でも掛矢の音が止む。「で、その相手って…」という問いに、全員が作業を中断すると、ざわめきだけが響く。トランシットを覗くネリスが「はやくしてくださーい」と声を掛けるが、誰も動こうとはしなかったという。
「らしいよ」「本当?」「相手は誰?」──その問いは館全体を駆け巡り、空気が妙に浮き足立っていく。まるで一つの火花が、一瞬で藁山に燃え広がったようであった。
クラーレは執務室の机で黙々と書類を整理しつつ、目に鋭い光を宿す。その視線は、隣でいつも通り業務をこなすトマファへと向けられ、「次の公休日は婚礼衣装の下見でもしておこうかしら」と心中で呟きながら、既成事実を着々と積み上げていくことにした。
セーニャは急な来客対応をオリゴに任され、応接室でコーラル村のモルポ商会長アンドレにお茶を出していた。粗相が許されない大役だから任されたのであろう。しかし完璧な接客と笑顔の裏で、“縁談相手の排除計画”という名のフローチャートが脳内で矢継ぎ早に組み上がっていく。物騒な思考が並走する様は、どこか不気味で滑稽であった。
ハルセリアは領主館近くの小さな商家を借り、『ルツェル公国大使館』の看板掲げて外交文書に筆を走らせていた。やって来た同胞が告げた噂に手が止まる。「また潰す相手が増えたわね」と微笑むと、噂として上がった縁談相手の調査リストを作り始めていた。隣で机を並べる参事アンドラは、呆れたようにため息をついていた。
プリスカは床磨きしながらもふてくされ、モップをガシャガシャ叩きつけるように動かしている。「ちぇっ」と舌打ちしつつ、「私がお嫁さんになるつもりだったのにぃ」とぼやいていた。ロゼットは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべ、腰に手を当てながらもそんなプリスカを面白がり、「あんたがトマファ様と結婚しても、トマファ様が困るだけじゃん」と悪戯っぽく囁いたという。幼なじみならではの距離感で、プリスカが本気で怒る寸前の“デッドライン”を読み取っての一言だった。即座に「うるせぇ!」と返され、満足げに笑っている。ロゼットも意外といい趣味を持っている。
新人メイドのグルーヴは皿を運びながら、「……トマファ様ってどちら様でしたっけ?」と真顔でサンティナに訊いていた。その場のモリヤやポリーナ、クイラまでが固まった。「仕事中は私語厳禁よ」と窘められたが、その横でプリスカとロゼットがおしゃべりしながら通り過ぎたのだ。サンティナの指導に全くの説得力が無かったという。もちろん二人はのちにオリゴから叱られていた。
文官執務室の中は午後の強い日差しが窓から差し込み、机の上に置かれた書類を強く照らしていた。ペン先の走る音と紙をめくる微かな音だけが空気を満たし、室内には静かな緊張感が漂っている。トマファは机に向かい、港湾契約や技術支援の書類を一枚ずつ確認しながら朱筆で訂正を入れていた。眉間には自然と皺が寄り、肩も凝ってくる。それでも彼は机越しにじっと視線を送るクラーレの、わずかに細められた瞳やその口元に浮かぶわずかな笑み、そして周囲の気配などには意にも介していなかった。──彼は仕事しか見ていないのである。
廊下からはひそひそ声や押し殺した笑い声が断続的に漏れ聞こえてくる。時折、配送されてきた書類やお茶を持ってくるメイドが机越しに視線を交わし、また小声で何かを囁き合ってはすぐに作業に戻っていった。トマファもそのざわめきに気づいてはいたが、
『まぁとりあえず自分の仕事は片付けないとね、さっきからクラーレさんが飲みに行きたそうな顔してこちらを伺ってるみたいだし』
といった程度の認識で済ませていた。まさか話題の中心が自分だとは露ほども思っていないのだ。トマファは「ここの計算式が違うな」小さくつぶやくとさらさらと朱を入れる。書類の内容はモバラ港の修繕契約や、ギルド間の技術支援申請書といった色気のないものばかりだ。その後、彼の意識は完全に数字と法と契約の世界に没頭していく。
彼の机の端には淡い灰色の厚紙で作られた封も切られていない封書がひとつ置かれていた。差出人は記されておらず、深紅の蝋封には二本尾の獅子と剣を組み合わせたような細やかな紋章が浮かび上がっている。それは“北西辺境地の者”を指し示しており、今もその地の者に多く使われる意匠だ。光の加減で艶やかに輝くその封はどこか重々しい気配を放っている。トマファは朱筆を置き、一瞬だけ眉をひそめ、それを見やり、「後でいいか」と軽く息を吐くと興味を断ち切るように視線を手元の書類へ戻すのだった。
この封書が後に館内全体を揺るがす騒ぎの種になるとはその時のトマファには想像すらできていなかった。
領主館全体が朝からずっと小声のささやきに包まれていた。練兵所では訓練中の警ら隊たちが木剣で打ち込み稽古をしつつ「トマファ結婚」の真偽を熱く討論していた。噂話に夢中になった若い兵が油断して先輩の一撃をまともに受け、足にじんと響く衝撃と共に思わず木剣を取り落としていた。からんからんと乾いた音が地面に響き、同僚たちの笑い声が重なった。「馬鹿モン」と一喝する警ら隊長の指示で若い兵は衛生棟へと連れていかれる。
衛生看護隊では看護兵カタラナが訓練中の負傷で担ぎ込まれた兵の足に包帯を巻きながらも噂話に花を咲かせていた。器用に包帯をくるくると巻き付けながら、患者は苦笑いしながら相槌を打つ。そのせいで包帯はどんどん大げさに巻かれていき、それを見た医官が「こりゃいかん」と思わずオヤジギャグ。看護兵も患者も気づかないふり聞こえないふりして話を続けていた。
応接室前の廊下では、待たされている来客たちが暇つぶしにメイドを捕まえては噂を聞き出し、互いに情報を交換し合って盛り上がっている。待ち時間が長くても誰一人として文句を言わない。むしろ頬を緩めたり身を乗り出したりしながら噂の真相を逃すまいと目を輝かせていたのだ。
廊下、厨房、中庭——館のあらゆる場所に噂話のざわめきが渦巻き、足音や衣擦れの音が交じり合い、厨房からは香草と焦げの混ざった匂いが漂い、日常のリズムを飲み込んでいった。今や「平常業務<噂話」という風に秤が傾き、辺りに染み渡っていったのだった。
執務室の扉を押し開けて出た瞬間、ヴァルトアはどこか落ち着きのない雰囲気を肌で感じ取っていた。なんだかそわそわした感覚が館内に満ち溢れているようなのだ。遠くからくぐもった笑い声やささやきが聞こえ、すれ違うメイドや衛兵たちは一瞬視線を合わせては、何事もなかったかのように足早に去っていく。彼の耳にも入ったあの件だろう。
「この反応の速さ……まるで災害だな」
ヴァルトアは心中で苦笑する。こうなればこの噂を使って外交の場で切るべきか、それとも今は温存すべきか。その思考の中でいくつもの選択肢が並び立つ。同時に噂の根源はどこなのだろうか。クラーレの鋭い眼光か、セーニャの完璧すぎる振舞いなのか、それともオリゴの計算高い微笑みか。その噂の発信源になりそうな人物を順に思い浮かべていた。
彼の表情は穏やかではあったが、その裏では“その噂”一つで世界を開く鍵にも、刃にも変わり得ると感じ取っていた。さすがにトマファ本人にどうすればいいとは聞けるわけのない問題だ。それならば領主たる勤め、館内の秩序が乱れぬよう神経を研ぎ澄ませるべきであろう。
廊下の先、武官執務室前でクラーレとオリゴが壁際で何やら耳打ちしているのが目に入った。二人の肩がわずかに揺れ、その表情は柔らかな笑みに見えながらも剣呑な雰囲気を帯びていた。ヴァルトアは軽く顎に手を当て、わずかに息を整えてから「……やはり放ってはおけんな」と低く呟くと歩を進めたのだった。