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143話 武辺者、ついに結婚へ・1

 朝のキュリクス市場は、威勢のいい掛け声と香ばしい肉の匂い、鼻をくすぐる香辛料で満ちていた。首から「見習い冒険者証」を下げた夏休み中の子どもたちが配達で駆け回り、「通るぞ!」と大声を上げながら荷車を押す男たちが忙しなく往来している。


「やぁ、プリスカちゃんにロゼちゃん、おひさー」


「あっ、メリーナ隊長!」「お久しぶりです、隊長!」


 市場へ買い出しに来ていたプリスカとロゼットは、巡回警ら中の隊長メリーナと鉢合わせた。二人の新兵訓練隊時代の教官でもある彼女は、訓練明けらしいこんがりと日焼けした肌に黒のスポーツブラ、その上から訓練用上着を羽織っただけのラフな姿だ。上着の隙間からはくっきりと割れた腹筋が覗き、鍛え抜かれた肉体の迫力をいやが上にも印象づける。そして右手には、いつものように靴ベラを肩に担いでいた。


「どぉ、メイド隊に配属になって一年。オリゴっちにいじめられてない?」


「だ、大丈夫ですよ!」「相変わらず厳しいですが、勉強になってます」


「そっか、それは良かった。二人の配属を決めたボクの判断は間違ってなかったね!──ところでお使い?」


「「はいッ!」」


 野菜売りの屋台の前で話していると、背後から甘ったるい声が飛んできた。


「ねえねえ、聞いた? あのトマファ様、とうとう縁談が決まったんだって?」


 三人が振り向くと、噂好きで知られる魚屋の女将が、わざわざ声をひそめるふりをして話しかけてきた。だがその声量は、近くの八百屋にも届いている。


「えええっ!? 私の方が先に“婿にする宣言”してたのにぃ!?」


 プリスカの耳がぴくりと動き、手にしていた赤茄子を握る手に力がこもる。それを見た八百屋の女将は「それ、買い取りね?」と苦笑した。


「へぇ……あの人、仕事としか結婚しないタイプだと思ってたけど」


 ロゼットは半分笑い、半分呆れたように返す。彼女にとってトマファは“仕事の虫”。朝から晩まで机に齧りつき、帳簿と算盤を相手にする日々。介助するメイドには親切だが、仕事モードになると人が変わるため、メイド隊の中でも「良い人、怖い人」と評価が割れている。ロゼット自身は、彼を恋愛や結婚の対象とは見ていない。


「……うーん。領主のヴァルちゃんが何も言ってないなら、それ正式発表じゃないよ?」


 魚屋の女将に、メリーナは柔らかく応じつつ、腕を組んで「確認が必要だね」と冷静に言い切った。その眉間には、ほんの少し皺が寄っていた。


 *


 買い出しを終えたプリスカとロゼットは、警らを終えたメリーナと共に領主館へ戻ってきた。裏口の搬入口ではメイド長オリゴと副長マイリスが二人から荷を受け取り、伝票を照合している。


「市場でちょっと妙な噂を耳にしたんだぁ──トマファ殿の縁談話」


 メリーナが切り出すと、プリスカが何か言いかけたが、オリゴが右手を軽く上げて制した。


「……姉さん、誰から聞いた?」


 オリゴの声は静かだが、搬入口の空気が一瞬ぴんと張り詰める。メリーナが「市場の噂好きな魚屋の女将」と簡潔に答えるとオリゴは腕を組んだ。


「ふぅん、それは興味深い話ですね。お茶会の議題が一つ増えますわ」


 マイリスは口元に微笑を浮かべながらも、その瞳はすでに計算を始めている。人妻ゆえトマファに恋愛感情はないが彼とは年齢も近く、視察報告書の書き方を教わるなど仕事での接点は多い。加えて夫婦揃って彼と飲みに行くこともある。──これは夫テンフィとトマファの仲が非常に良いからだが。


 そのやり取りを廊下の陰からクラーレが偶然耳にしていたのだ。抱えた書類を胸に押し当てると、脳裏にはまだ見ぬ“相手”の顔が浮かぶ――が、次の瞬間にはその顔が自分のものへと塗り替えられていく。そしていつしか妄想は婚礼服を纏い、トマファの隣で堂々と並び立つ自分の姿が鮮やかに広がってゆく。そして頬が自然と緩んできた。しかし現実に意識を引き戻せば、最近ルツェル公国からやってきた『いけ好かない女』、ハルセリアという好敵手の顔が脳裏をよぎる。そこにさらに新たなライバルが現れるかもしれないと考えると、深く長い吐息がこぼれるのだった。


 クラーレは物陰で吐息をつき、書類を抱えたまま文官執務室へ向かう途中、角を曲がった先でセーニャと鉢合わせた。


「あら、クラーレさん。お疲れさまです」


 ミニヨがヴィオシュラから帰国している間、侍従役を外れていたセーニャは本来なら特別休暇中のはずだった。だが「やっぱり手持ちぶさたでして」と本人がオリゴに強く願い出て、メイド隊に一時復帰し、掃除や雑務に精を出している。今もモップを手に、廊下を丹念に拭き上げているところだった。


 クラーレは歩みを止めず、すれ違いざまに無造作な調子で告げた。


「……トマファ君が結婚するらしいですよ」


 その何気ない一言に、セーニャの笑顔が一瞬だけ固まり、息が詰まる。すぐに穏やかな表情を取り戻すが、目が細まり、声色も柔らかく問い返す。


「……どこのどなたですか、その女」


 その裏でセーニャの脳内は暴走していた。知らない女がトマファの隣で微笑む光景、婚礼衣装で並び立つ姿。胸が高鳴り、息を止め、視界がわずかに滲む。……短く呼吸を整える間が挟まり、頬の内側で歯を噛みしめる。感情を押し殺したまま、新婚生活、そして二人の子どもを抱く場面までが脳裏に浮かぶ。そこまで鮮やかに描いた瞬間、映像は“その女をどう排除するか”という冷徹なシミュレーションへと切り替わった。


「少し確認が必要ですね」


 ――冷静を装い独り言ちると口元にわずかな笑みが浮かぶ。唇の端が吊り上がり、目の奥には冷ややかな光が宿る。彼女はモップを廊下に立てかけ、まるで糸に引かれるかのようにミニヨの部屋へ向かった。普段であれば掃除道具を片づけてから足を運ぶはずだが今の彼女にそんな手順は無用だ。最初はお淑やかに歩き出した足取りも、すぐに速足へと変わり――気づけば心臓の鼓動に合わせて廊下をバタバタと駆けていく。


 領主館本館の裏口から渡り廊下を一気に駆け抜け、領主居館の扉を勢いよく押し開け、ほとんど飛び込むようにミニヨの部屋へ入った。机に向かい錬金化学の教科書を読んでいたミニヨが、音に反応して顔を上げる。ノックもせず飛び込んできたセーニャを咎めることなく、その口から放たれた言葉に「ふーん」と気のない返事を返しながらも、瞳の奥が鋭く光を帯びる。その一瞬の変化を逃さず見取り、セーニャは胸の奥で“共闘の時”が来たと確信した。――そう、ミニヨは自分に付き従うセーニャの恋路を最大限に後押ししてくれる、かけがえのない『理解者』なのだ。


 *


 ミニヨの部屋を飛び出したセーニャは、その背後にミニヨを伴っていた。二人は何やら小声で言葉を交わしながら足早に廊下を進む。その進行方向の先、ちょうど廊下を挟んだ位置で掃除をしていたのがプリスカとロゼットだった。彼女らは市場からの帰りに耳にした“トマファ結婚”の噂の真偽もまだ確かめておらず、軽口を交わしながらモップを動かしていた。プリスカの想い人であるトマファの結婚話だ、気を落とす幼馴染にロゼットは「男はまだたくさんいる、切り替えてけ」と気のない励ましを投げかける。その最中、セーニャとミニヨのただならぬ表情を目にして、二人はぴたりと動きを止めた――この瞬間、館内でその噂が本格的に燃え広がる火種となったのだ。


「……今の顔、絶対なんかあったよね」

「うん、なんかヤバそう」


 そのささやきが廊下の片隅で交わされた瞬間、まるで火種に風が吹き込まれたように館内全体がざわめき立った。メイドたちだけでなく衛兵隊の間でも「トマファ結婚」という言葉が次々と囁かれ、ひそひそ声が廊下を伝い、あっという間に調理場や武官執務室、果ては隣の練兵所にまで駆け巡っていく。


 その噂の中心にはプリスカとロゼットがいた。プリスカは妙に胸を張り、ロゼットは眉をひそめている。この対照的な反応が周囲の好奇心を刺激し、「どうやらトマファはロゼットではなくプリスカを嫁に選んだらしい」という尾ひれがついて、噂はさらに面白おかしく脚色され、勢いを増していった。もっとも、プリスカ本人はそんな噂を知らず、自分はフラれたとすっかり思い込んで一人不貞腐れ、『私がトマファ君と結婚するつもりだったのにぃ』とぶつぶつ言いながらモップ掛けを続けていた。


 一方、離れた執務室で報告を受けたヴァルトアは、書類の山から目を上げて小さく息を吐いた。女性陣の視線が一斉にトマファへ向かう状況――それは、彼にとって新たな政略カードの出現を意味していた。トマファは優秀な文官であり、新都エラールや周辺諸国との橋渡し役としても価値が高い。婚姻は同盟強化や有力家との縁結びに直結し、場合によっては外交交渉の切り札にもなる。しかし、このカードは諸刃の剣だ。選択を誤れば内外の勢力争いを誘発し、領地運営に亀裂を生じかねない。慎重に切るべきか、それとも温存するか――領主の脳裏で、静かに計算が始まっていた。


 もちろん、当のトマファ本人が知る由もないままに。

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