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141話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・10 =幕間=

 夜更けのエラールの街は、深い眠りに沈んでいた。


 漆黒の空と街の静寂を破るように、蝋燭の灯がゆらゆらと重厚な廊下を照らす。足音を忍ばせた古参侍女が、執務室の扉を静かに叩いた。


「……旦那様、()()()()が快諾してくれました。あちらなら王宮も無暗に手出しはできません、と」


 侍女の低く落ち着いた声が闇に溶ける。クラレンス伯は机に肘をつき、顎に手を添えたまま沈黙していたが、侍女は続ける。


「月信教は歴代王家の正統性を保証してきた宗派、攻撃すれば宗教戦争の火種となりましょう。それにレピソフォン殿下は聖心教徒──相性は最悪です。今なら見習い誓願として身を守れます、と、ファブリク修道院のドン・シェルジェ様が……」


 長い沈黙ののちクラレンスは深く息を吐いた。──ドン・シェルジェはクラレンスの実弟()()()男だ。


 若い頃のシェルジェはロブル伯家では粗野で短気、喧嘩や夜な夜なの賭場通いなど体力と勢いばかりが先走る乱暴者の次男坊だった。兄クラレンスも品行方正とは言いずらい男だったが、シェルジェは家中では『問題児』と呼ばれていた。しかしその粗野さの裏には仲間を守ろうとする情の深さがあり、家族から見放された遊び仲間が怪我や病気と聞けば夜中でも看病に駆けつけ、仲の良い下働きが理不尽に叱られれば庇うどころか逆に叱りつけるような男でもあった。つまり、問題児だったが自身に信頼を寄せてくれる者たちにはひたすらに心優しい男だったのだ。


 しかし家督相続を巡って一族が二派に割れ、血縁同士が罵り合い、家臣が刃を向け合うのを目の当たりにし、胸の奥にどうしようもない痛みを抱えてしまう。『問題児』と呼ばれていたけど、何よりも彼が大事にしてたのは『ロブル伯家』だったのだ。やがて彼は酒場の片隅で出会った老修道士から主神の話を聞き、その夜の月明かりの下で初めて祈りを捧げたという。そして心の痛みと迷い、そして救いを探求するため誰にも告げずロブル伯家を去り、修道院の門を叩いたのだ。そこでシェルジェはクラレンスの実弟ではなくなった、つまり俗世とは縁が切れたのだ。


 その後、家督を継いだクラレンスは必死の想いで家中を纏めた。折しも前王朝が滅亡寸前の統一戦争前夜、この時期に家中がごたつけば一族滅亡は避けられない。それに勝ち馬に乗れるかどうかで次代王朝に所領を安堵されるかどうかも変わってくる。クラレンスは涙を呑んで不穏分子となる文官を追放し、反抗的な武官も粛清した。その一方で柱となる勇敢な若武者を集め、自身の寄り木としていったのだ。その中には若武者の頃のヴァルトアやユリカ、メリーナにスルホンの姿もあったという。


 元来ロブル伯家は北方出身の家柄のため精霊信仰が深く、今もその信仰を変えてはいない。しかし弟シェルジェとの縁は宗教的に断たれたとしても、血のつながりは消え失せない──そう信じるクラレンスは静かに月信教への寄進を続けている。


 シェルジェはというと神の教えに触れてからは祈祷と労働、沈黙と節制の生活を貫き、今ではエラールから少し離れたロムド山地の中腹に建つファブリク修道院の院長を務めている。それも兄の寄進が少なからず助けになっているはずだ。だがこの兄弟、そうした思いを互いに口にすることはない。兄はただただ大好きだった弟を慮って寄進を続け、弟は兄とロブル伯家のために主神に身と心を捧げる──互いの信念と誇りだけが言葉のない絆として残っている。


「……アリシアを急いでドン・シェルジェの元へお連れしろ」


 扉の向こうでアリシアは小さくうなずいた。そして侍女と共に夜着の上に薄手の外套を羽織り、吐く息を静かに整えながら廊下を走った。その足取りはわずかに硬いが、横顔に浮かぶのは恐れではなく己の行く末を受け入れた者の覚悟だった。


 王宮からの正式発表はまだなく、それがいつになるかも分からない。発表前にアリシアをファブリク修道院へ入れなければ彼女を庇護することは難しくなる。そのためクラレンスはシェルジェへ密使を送り、事情を説明して受け入れの許可を取り付けるや否や、即座に行動へと移したのだった。


 裏庭にはすでに馬車を待たせていた。御者台のランタンが霧を裂くように揺れ、夜気の中で馬の吐息が白くほどけていく。御者は無言でアリシアを箱馬車に促すと、重い扉がきしみを立てて裏門が開き車輪が石畳を踏む音はやがて遠ざかってゆく。執務室の窓辺に立つクラレンスの視界から、御者台の灯火が小さな点となって消えていった。


 その後、ロブル伯家は『アリシアは急に月信教への信仰に目覚め、出家した』と公表した。しかし真実は別にあった。見習い誓願の期間という猶予を盾に、ロブル伯家と密かに連絡を取りつつ修道院で安全を確保する──それが、クラレンスとアリシア、そしてシェルジェが仕組んだ綿密な出家計画だったのだ。


 *


 謁見の間に隣接する小広間──翌日の新聞にレピソフォンとアリシアの婚約を大々的に発表するため、新聞屋を呼び入れて記者会見を開く直前の出来事であった。そこへ蒼ざめた侍従が駆け込んできた。


「アリシア様が……月信教のファブリク修道院へ出家されました」


 彼の告げる声が場の空気を一瞬で凍らせた。最側近であるカルビンは書類をいくつか取り落とすし、発表を今か今かと待ち構えていた重臣たちも唖然とする。それ以前に何の用向きでの記者会見かと聞かされていなかった新聞屋は大騒ぎだ。玉座でふんぞり返っていたレピソフォンは信じられぬという表情のまま肘置きを拳で叩く。


「そんな連中にアリシア嬢を渡すでない、今すぐ修道院への通路を封鎖しろ!」


 それを聞いてカルビンが慌てて進み出る。


「殿下、月信教は歴代王家の正統性を保証してきた宗派です。そんな事すれば宗教戦争、さらには国家間戦争の火種となります。特に王国南東部やルツェル公国、ビルビディア王国は月信教徒が多く……それ以前に現王陛下への唾棄行為にもなりかねません!」


 新聞屋たちはメモ帳にペンを走らせる。それを見てカルビンは慌てて近衛兵を呼び、新聞屋を小広間から追い出すよう指示した。新聞屋の一人は『アリシア様と言えば、ロブル伯家の御令嬢ですよね!』と叫ぶが屈強な近衛兵たちにつまみ出され、そして堅く重々しい扉を荒々しく閉めたのだった。


 だがレピソフォンはカルビンの進言に耳を貸さない。玉座から立ち上がると顔なじみの近衛兵団副長に詰め寄って叫んだのだ。


「おいブリスケ、今すぐ修道院に対して包囲殲滅戦に入れ! 近衛一個兵団を差し向ければアリシア嬢の一人くらいは保護できるだろう。手向かう者はなで斬りにすればいいし、保護したものには金一封を出そう!」


 その副長の名を聞いた瞬間、小広間の空気がわずかに揺れた。年配官僚が「ブリスケって」と小声でつぶやいた。──そんな人物に包囲殲滅戦を命じるとは滑稽を通り越して皮肉ですらあった。ブリスケットは黙って無表情のまま答えを返さない。そして重臣たちは顔を見合わせ、総出でレピソフォンの制止に回る。


「ファブリク修道院に手を出せば王国内の月信教徒すら完全に敵に回しますよ!」


「近衛兵、文民統制規則に従って絶対に動くな、動かすなよ!」


「殿下、まずは落ち着きを! それより近衛兵、扉の向こうで耳をそばだてているブン屋をどうにかしてください!」


 これは私への反逆だ、と怒声を放つレピソフォン。その瞬間、重厚な扉の向こうでばたばたと物音が響いた。先ほどつまみ出された新聞屋たちが特ダネを逃すまいと必死に耳を寄せているのだ。小広間は暴れるレピソフォンと諫める側近に侍従、そして扉を蹴って追い払おうとする近衛兵たちのせいで修羅場と化していた。そんな中、年配の文官がレピソフォンの前へ一歩進み出て静かに進言する。


「これはもはや殿下の思いでどうにかできる問題ではございません。信仰と国際問題が複雑に絡み合ってますゆえ、下手な事をすれば大陸内を二つに分ける戦争となりかねませぬぞ」


 その一言にレピソフォンは渋々腰を下ろした。だがその瞳には怒りの火が消えず、玉座の上で不快な沈黙が広がる。そして「不愉快だ」と一言漏らすとカルビンを伴ってそのまま奥宮へと消えていった。


 その場に居合わせなかった文官たちの間にも瞬く間に動揺が広がった。アリシアの件は早くも新聞屋の号外で世間に知れ渡り、他家の令嬢が「修道院入り」を口実に縁談を拒む事例が続出しているという。さらに王宮の若い侍女や女官の間では、「修道院なら逃げ場になる」という囁きが密かに広まり、街の乙女たちの中にも、想い人がいるのに親の都合で嫁に出されそうになると急に信仰に目覚める者が続出しているという。親同士の一方的な取り決めで進められてきた婚姻政策は今や崩壊寸前であった。


 *


 エラールの酒場は黄昏時から賑わいを見せていた。壁際には柔らかな色彩と流れるような線で描かれた一枚の風刺画が貼られている。そこには修道院の門前に豪奢な衣装の貴族令嬢たちが長蛇の列をなし、聖職者が「順番にどうぞ」と手招きする姿が描かれていた。画面の隅には「修道院入山料・銀貨一枚」「キュリクス菓子があるザンス!」「ざまぁみろ」と落書きが添えられ、それを見た客たちは一様に吹き出していた。


 他にも売れない画家が描いたと思しき風刺画が所狭しと貼られている。王宮や文官を皮肉ったもの、あえて下品な笑いを狙ったもの、笑いのためにデッサンが完全に崩れているものまでと様々だ。王族を露骨に批判すれば不敬罪に問われるが、笑いと風刺が効いているものまで取り締まればそれは恐怖政治でしかない。そのため風刺画は古くから酒場の壁を飾る娯楽のひとつとして生き残ってきたのである。もしその中に客の目を引くものがあれば、新聞屋はすぐにでも描き手を囲い込もうとするだろう。つまりこの酒場の壁際は単なる飾り場ではない、売れない絵師たちにとっての展覧会場そのものである。


 木製カウンターの端で古参文官が二人、風刺画を見て笑う客を見てはビールジョッキを片手に肩をすくめて言った。


「今回の婚姻政策で、あのバカ殿に愛想付かせた高位貴族家は多いだろう」


 隣の席でも同じ話題なのだろう、笑い声が漏れ聞こえてくる。なにせロブル伯家に内密で婚約会見を開こうとしただけでなく、「両者の同意」を示すはずの婚約宣誓書をも偽造の可能性が高い事もバレてしまったのだ。記者会見直前、あの侍従が『アリシア修道院へ出家』の一報を持って小広間へ飛び込んできたとき、カルビンは驚きのあまり書類を取り落としてしまったのだが、それこそが偽造の可能性が高い婚約宣誓書である。──もし宣誓書と共に婚約を発表してしまえば、ロブル伯家やアリシア本人の意思すら握りつぶせたほどの代物である。


 しかしカルビンが取り落としたその書類を新聞屋がたまたま拾ってしまい、翌日の新聞に号外として掲載してしまったのだ。もし婚約宣誓をしてるのに出家なんてすれば「ロブル伯家の露骨な反逆」か「そもそも書類偽造では」の二択である。そのため新聞屋たちがアリシアの人となりを徹底的に調べたところ筆跡がまるで違うこと、ロブル伯家の意思、そして詳細な記述はないもののアリシアの想い人の存在までもが白日の下に晒されてしまったのだ。これらのことから婚約宣誓書は偽造された可能性が非常に高いと示唆されている。──文官は続ける。


「あのまま強行すればクラレンス・ロブル伯家だけじゃない。アリシア嬢の想い人の御実家、ヴァルトア・ヴィンターガルテン子爵家まで敵に回すところだった──虎の尾を踏む所業だよ」


 ロブル伯家は北部ヴィルフェシスなど広大な辺境を守護する名門で、迷宮都市の税収や針葉樹の売却益のおかげで比較的裕福な家だ。さらに精強で名高い王国軍直轄のヴァイラ隊をも所有しており、クラレンスがその気になれば国内が争乱に揺れるのも不思議ではない。一方ヴァルトア・ヴィンターガルテン子爵家と言えば、もとは王宮勤めの武官家であったが南東部辺境への左遷を機に急速に力を伸ばてきている。ギルドと連携した技術開発ややや高めの税を集めては公共事業を経て民衆へ還元する政策が特徴だ。特筆すべきは定期的な募兵と厳しい訓練で屈強な兵たちを育てているという。しかも領主館に仕えるメイドは全員軍属の近接戦闘特化型“武闘メイド”という極めて特異な家でもある。他にも有能な官僚を幾人か抱えていると聞くがその人物像について詳しく分かっていない。どうやらエラール王宮では政務に携わった経験はないらしく、車椅子に乗った青年、胸の豊かな土まみれの女官、そしてやけに陽気な技術系女官がいるという噂だけが伝わっている。この二家が手を組み、ひとたび旗を掲げれば──民衆から評判が芳しくない王国軍がどうなるかなんて想像に難くはない。


 酒場の隅では新聞屋が夕刊を銅貨一枚で売りに来た。客の一人が『お前の持ってる分は俺が全て買い取ってやる、飲み屋にタダで配り歩いてお前も早く飲め!』と言って白銅貨を数枚渡したので、酔客たちは面白半分に受け取り、読んでは笑い声を上げていた。新聞屋は礼を言うと他の号外を余所の店に持って走る。文官たちにも夕刊が回ってきたので彼らもそれに目を落とした。


「修道院ブーム到来」と銘打ち、商人たちが修道女風の土産物や置物を売り出しているようだ。さらに聖心教までこの流れに便乗。「歌って踊れる尼ドル募集」と書かれた張り紙には、黒いトゥニカと白いウィンプル姿の尼僧が市場で歌い踊る挿絵が添えられている。


 聖心教が月信教から距離を取った理由の一つに修道院の在り方を巡る対立もあった。月信教の修道院は世俗権力や貴族との結びつきが強かったり、寄進や免罪符販売による富の集中、戒律の厳しさや閉鎖性が批判の的となっていたのだ。そのため聖心教には修道院は存在しない。しかし貧民救済や施薬院運営のため、より開かれた修道的共同体を各地に設けているという。そこでは尼僧たちが市場や広場で人々と交わり、歌と踊りを通して主神の教えを説いて共同体や教会への寄進を求めているのだ。ちなみに余談だが聖心教は過去に寄進を多く募るため『贖宥状』を販売していたことがあり、民衆からは『免罪符はダメで贖宥状は良いのかよ』と総ツッコミを受けたことがあるのだが。


 ジョッキを空けた文官は遠くに貼ってある風刺画を見ながら呟いた、「これでバカ殿は二連敗だな……」と。


 そして別の客が夕刊を読みながら隣の酔客に語っていた。


「なぁこれ見てみろよ。“第二近衛師団の良心"と呼ばれたブリスケット・ヴィンターガルテン殿が若手兵士を引き連れて副団長を辞めたってよ」


 笑いとざわめきの中、レピソフォンの婚姻政策の話は酒場中に静かに広がっていったのだった。

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