表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

140/205

140話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・9 =幕間=

 新都エラール王宮。


 謁見の間に隣接する小広間は、いつになく重苦しい空気に包まれていた。壁際に並ぶ高窓からは初夏の光が差し込んでいるはずなのに、場の空気は冷え切っている。先日、ルツェル公国の若き文官ハルセリアに書面で面子を潰された件は、まだ王宮中の笑い草だった。新聞の風刺画や街角の落書きには、レピソフォンの似顔絵とあの皮肉な返事――「控えめに言ってバカなんじゃない?」――の文言が今も踊っている。


 レピソフォンは椅子の背にもたれ、苛立ちを隠そうともしなかった。実母ポンパイヤから『まず関係各所に謝りなさい』と諭されたのも癪に障るし、結婚外交で“小国を救ってやろう”という厚意を見せたつもりが、「控えめに言ってバカなんじゃない」と一蹴してきた小国ルツェルが憎らしい。それに呼応して回答拒否や拒絶を送ってくる周辺国は、なおさら腹立たしい。


 レピソフォンはエラール王宮が送った『非礼文章』に落ち度があるとは微塵も思っていなかった。全てはハルセリアのせいだと決めつけ、この件を片付けようとしたのである。そこでルツェル公国の大使を王宮に呼びつけ、「無礼なハルセリアの処分」と「輸入品への関税引き上げ」を通告した。対する大使は、手土産として菓子折り『キュリクス・クッキー』を一つだけ置き、静かに帰国したという。


 王宮では、この銘菓を置いていった理由についてあれこれ審議されたが、結論は出なかった。レピソフォンは苛立ち紛れにそれをゴミ箱へ投げ捨てた──と新聞は報じた。当然ながら『食べ物を粗末にするな』という苦情が民衆から多数寄せられた。


 レピソフォンの隣には腹心のカルビン・デュロックが立ち、机上の家系図を指で叩きながら進言する。


「国外の婚姻政策がうまくいかなかったのは、協力者が足りなかったからです。国内の有力家を狙えばよろしいかと」


 レピソフォンは鼻で笑った。高位貴族家の多くは、王宮と何らかの血縁で結ばれている。王族が娘や姪を嫁がせるのは、高位貴族家が持つ経済力や兵力を背景として、国内統治の相互信頼を担保し、反乱の芽を摘むための一手なのだ。逆に王后が高位貴族家出身である場合も、『人質』としての側面が強い。王太子セルヴェウスの実母、すなわち現王后も伯爵家出身だ。母が聖心教の巫女であったレピソフォンには、国内に血縁的な後ろ盾がほぼ皆無である。ゆえに、まずは有力貴族家を味方に引き寄せることが得策だと方針を切り替えたのだ。


「そうだな。国外の連中は生意気すぎる。国内なら王命に背けまい」


 側近たちは顔を見合わせた。年配の官僚が口を開く。


「殿下、先の件はやり方に問題があったかと……。あまり急がず、慎重に候補を──」


「クラレンス・ロブル伯の孫娘、アリシア嬢はいかがでしょう。年も殿下と近く、家柄も申し分ありません。何より、伯家の血筋は王宮にとって悪くないはずです」


 口を挟んだのは、口当たりの良いことばかり並べる若手文官だった。学歴も家柄も申し分ないが、大雑把な性格が災いし、ノクシィ一派が王宮を掌握していた頃は冷や飯を食わされていたという。レピソフォンはその言葉に満足げな笑みを浮かべた。


「ふむ……“スケベ伯”って血縁てのが気になるが、それは良いな。では早速話を通せ」


 レピソフォンが言い放ったあとに小さく咳払いをして古参文官が誰にともなくつぶやいた。


「……それは虎の尾ですぞ」


 だがその忠告に耳を傾ける者など誰もいなかった。


 *


 クラレンス・ロブル伯のエラール邸宅。


 北方辺境ヴィルフェシスなどを代々治めてきたロブル伯家の邸宅は、重厚な木材で作られた家具と、精霊信仰が息づく北方風の装飾で彩られている。その空間は王都の貴族屋敷でありながら、辺境の趣を色濃く漂わせていた。


 執務机に向かい書類を眺めていた伯のもとへ扉がノックされた。「入れ」と声を掛けると、長年仕えてきた執事が足音を忍ばせて入ってきた。


「エラール王宮からの使者です」


 執事は小声で、さらに北方の古い言語・ヤルガン語で告げた。これはロブル伯家で古くから用いられてきた間者対策である。その言葉を耳にした瞬間、クラレンスは眉をひそめた。このロブル伯家は昔から王宮内で情報収集を主とする『裏稼業』的な汚れ仕事を担ってきた家柄だ。しかし統一戦争が終結すると、そうした役目は不要となり、戦後に台頭したノクシオス卿率いるノクシィ一派からも睨まれ、その一派の貴族と揉めたために宮廷出禁を食らったのだ。おかげで今では王宮との接点はほとんど途絶しており、そんな家に王宮が用を持ってくるとは訝しむのも当然だった。


「判った、会おう」


 執事はクラレンスの言葉を聞くと執務室を後にした。伯は手にしていた書類を机に仕舞い、鍵をかける。


 やがて執事に伴われて現れた使者は顔を硬く引き締め、足取りや仕草にわずかな緊張を滲ませていた。無言のまま懐から一通の書状を取り出し恭しく差し出した、レピソフォンの赤い封蝋がやけに目立つ。クラレンスがそれを受け取ると使者は一礼し、物音ひとつ立てずに執務室を後にした。しかし扉が閉まっても部屋に残った空気は重く張り詰めたままだった。


 クラレンスは再び机の鍵を開け中からペーパーナイフを取り出すと慎重に封を切って便箋を引き出した。文面を読み進めるうち、眉間に深い皺が刻まれた。「……これは厄介な話だ」低く呟く声に、老練な領主としての勘が警鐘を鳴らしていた。



 夕鐘が街一帯に鳴り響く頃。


 エラール高等礼節学校から孫娘アリシア・ロブルが帰宅したとメイドが報告に来た。すぐに執務室へ呼び寄せると、ほどなく制服姿のアリシアが現れる。品のある金髪と灰青の瞳が光を受け、毅然とした佇まいを見せていた。


「ただいま帰りましたわ、お爺様」


「あぁアリシア、おかえり。──王宮から書状が届いての、お前さんはどう思うか聞いてから返事を認めようと思ってたんじゃ」


 普段のクラレンスと言えば“オネエ言葉”で煙に巻くような好々爺だ。しかしノクシィ一派の蓄財不正を前王に報告したことで王宮と対立、結局は宮廷出仕停止処分となった。いわば政治闘争に負けたのだ。そこで彼は“気が触れた男”を装い、家督を長男に譲りつつも実質的な領地経営と意思決定を握り続けている。時には下級貴族家をふらりと訪ね、メイドの尻を軽く触ってはお茶を飲む——そんな奇行も、家を守るための芝居だ。


 そのため家族の前では『良い父親、良い祖父』として振る舞っている。


 クラレンスから書状を受け取ったアリシアは、一読するや迷いなく「断ってください」と告げた。その声色には揺るぎない決意がこもっていたのだ。クラレンスは孫娘の想い人がヴァルトア・ヴィンターガルテン子爵の次男ブリスケットであることを承知しており、王宮へ返答する前に彼女の意思だけは確認しておこうと思って呼びつけたのだ。


「判った、──時間を取らせて悪かった」


「いえ、こういうのを聞いてくれる優しいお爺様で良かったと思ってますわ」


 そう言うとアリシアは微笑み、静かに執務室を後にした。通常なら王宮からの縁談は家の誉れとして快諾するものだ。ましてや出仕停止処分を受けて久しい伯爵家にとっては、余りある名誉で飛びつくのが当然とも言える。しかし今、王宮を取り仕切っているのはレピソフォン。その人となりは嫌というほど知っており、受け入れる気はさらさらなかった。加えてアリシア自身が強く拒んでおり、想い人の存在を知りながら拝命するほど非情でもない。クラレンスはすぐに「想い人がいる」と理由を記した丁寧な返書をしたため、王宮へ使者を立てた。


 だが、いくら待っても返答は届かない。やむなく古い伝手や情報網を総動員して探らせた結果、「近日中に婚約を正式発表する」という極秘文書を掴んだのである。その瞬間、王宮の意図が“強制”であることを悟ったのだ。


 それを知ったクラレンスは慌ててアリシアを執務室に呼びつけ、事情を包み隠さず話した。「なんてことを……」低く漏らした声には、苛立ちと焦燥が滲む。アリシアは唇を固く噛み、抗いがたい圧力とそれでも屈するまいとする強い意志が交錯する。執務室の空気は一層重く張り詰めたのだった。


 *

 エラール郊外の小さな離れ屋。古びた石壁の外では、夜風が枝を揺らす音だけが微かに響いている。クラレンス伯が信頼する古参の使用人に手配させた、誰にも知られてはならない密会の場だった。


 裏道を抜け、監視の目をかいくぐって辿り着いたブリスケットは、灯りの少ない室内に足を踏み入れる。そこに立つアリシアの姿を見つけた瞬間、人懐っこい笑みが口元に浮かぶ。しかしその瞳の奥には、鍛え上げられた武官らしい緊張が張りついていた。


「アリシア嬢……」


「ブリスケ様」


 互いの視線が交わった途端、安堵と切なさが胸を満たす。距離はすぐに縮まり、言葉を交わす前にその存在を確かめ合うように見つめ合った。そしてアリシアは意を決して震える声で王宮から届いた婚約内定の書状、クラレンス伯の返答、そして水面下で進む「婚約正式発表」の動きを語った。普段は穏やかなブリスケットの瞳に怒りが閃く。ヴィオシュラ学院時代から知るレピソフォンの強引さと傲慢さを思い出し、危険が目前に迫っていることを悟る。


「逃げ場がなくなる前に、手を打たないと」


 低く、しかし揺るぎない声。その言葉に続き、アリシアは一つの策を口にする——。


「そんなこと、僕は……」


 一度は反対した、その作戦はあまりにも危険だ。しかし彼女の瞳に宿る揺るぎない覚悟を見て自らも決断の時だと悟る。深く息を吐き、彼女の手を包み込んだ。


「分かった。最後まで支えるよ」


 次に会える保証はない。だからこそ二人は短い時間を惜しむように抱き合った。互いの無事を祈り、離れがたい温もりを心に刻む。やがて離れ屋を出ると初夏だというのに外の冷気が頬を刺した。その静寂の中、二人の決意だけが確かに息づいていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ