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14話 武辺者、そそっかしいメイドに振り回される

「クラーレ殿、急な呼び出しでご足労をおかけした。しかし本当に申し訳ない、行き違いがありご迷惑をおかけしたことを重ねてお詫びする」


 俺はそう言って頭を下げた。クラーレは少し息を切らしながら顔を赤らめている。


「い、いえ、こちらこそ――あの、メイドのパルチミンさんが今すぐ出頭してくださいと宿屋のおかみさんに言い付けていったと聞きましたから訪れただけですので」


「すべて当家の不徳の致すところだ、行き違いがあったとはいえ言い訳にしかならんよな。――まぁ簡単に言えばぜひクラーレ殿を当家の文官として迎え入れたいから翌日領主館に来てくれと指示したんだ。だがしかし連絡の行き違いでパルチミンがうまく伝えられなかったようでな」


「そ、そうだったのですね! わたし、まさか何か緊急の事態かと」


「だろうな、その恰好を見たら、その、お風呂でゆっくり寛いでいたところ、申し訳ない。俺もこのような格好でな、お恥ずかしい限りだ」


「とんでもございません。というか採用していただけただけでも光栄ですから!」




 俺とクラーレに何があったのかと言うと、夕食前にひと風呂でも済ませようかと思った俺は粗末な亜麻のワンピースに腰紐を結んだだけの軽装で出かけようとしたのだ。今日は露天風呂というのも悪くないよな、なんて暢気に考えながら領主館の裏手にある通用門から外へ出ようとした。夕暮れを告げた鐘の音のあとなので役目を終えた館の正門は固く閉ざされている。洗面道具とバスタオルを手に持った俺は通用門を通ろうとしたその時、息を切らしてクラーレが走り飛び込んできたのだ。彼女もまた風呂上がりであろうか濡れた髪からは雫が滴り落ち、俺が着ているのと同じような簡素で薄地のワンピースを纏っている。身体のラインどころか素肌がわずかに透けて見えるため煽情的だ。しかしなんというか気まずいな。おっさんである俺の前にそんな恰好で走ってやってきたクラーレも、さぞかし居心地が悪かっただろう。



「この地の夕暮れは思いのほか冷え込む。まずはすぐに戻り、髪をきちんと乾かしなさい。もし身体が冷えたと感じたならもう一度お風呂に入るといいぞ。詳しい話は明日改めてしよう」


  俺がそう言うとクラーレは絞り出すような声で「し、承知いたしました」と答えた。ようやく自分がどのような姿でここまで駆けてきたのかを悟ったのだろう。喜びを押し殺すように俯いたが、その耳は赤く染まっていた。俺は持っていたバスタオルをそっと彼女の肩にかける。


「――失礼いたします」 そう小さな声で呟きクラーレは少し嬉しそうな足取りで宿の方へと歩き出した。そして俺は小さくため息をつく。まったくパルチミンめ、余計なことをしてくれたものだ。 裏門で二人こんな姿で立ち話をしてるのを近所の人に見られたらどう思われるだろうか。どう考えても良い風には見られないだろう。むしろスキャンダルだ。


 夏になったとはいえこのキュリクスの地は陽が暮れると急に冷えてくる。俺は寒いなぁと言いながら領主館近くの銭湯へ行き汗を流すことにした。クラーレに渡したバスタオルの事なんか忘れて。




 翌朝クラーレは緊張した面持ちで領主館へやってきた。清楚なワンピースを身に纏い丁寧に櫛をかけ梳かされた髪を見ると、この前面接した時よりも丁寧に身支度を整えてきたのだろう。俺も昨日の一件で迷惑をかけたことを詫びるため近所の菓子屋でそこそこ高価な焼き菓子を買ってきた。


 今日はパルチミンが休みだったためクラーレへの謝罪はオリゴが自分にさせてくれと言ったので彼女にも立ち会ってもらう。また、トマファには採用時の労働条件通知書等の書類説明のために立ち会ってもらうことに。俺はクラーレを向かいのソファに座らせ車椅子のトマファには隣に腰掛けてもらう。オリゴは『メイド如きが勤務中にソファに座るなど』と固辞して俺の横に立つ。


「まずは彼女の上官として深くお詫び申し上げます。私から強く言い聞かせますのでクラーレ殿、そしてヴァルトア様、パルチミンには寛大なご処分をお願いします」


と深々と頭を下げるオリゴに、俺の前に座るクラーレは困ったように笑っている。「私、全然気にしていませんよ」と言うと、オリゴは再び深々と頭を下げた。「処分は考えていない。ただ、クラーレには気の毒なことをしたと思っている」と俺も答える。「いえ、本当に気にしていませんから」と念を押すようにクラーレは言った。


「寛大なお心遣い、ありがとうございます。――彼女のそそっかしさは、ある意味天賦の才と言えるかもしれません」


 オリゴは表情を変えずに続けた。「この前は、丸一日エプロンを表裏逆に着けていました。それをみたメイド一同が『最近の流行りなのかな』と思い、誰も注意しなかったと聞いています」


 他にも自室の鍵と食品庫の鍵を取り違えてユリカの居室の前で必死に鍵を開けようとしていたそうですとオリゴは淡々とパルチミンの失敗談を語りだす。他にも食事用ナイフをガーターに仕込んでいたなど失敗談義は多岐にわたり、聞いてた俺もそんな事もあったよなとふと思い出した。オリゴも俺もパルチミンの失敗報告を受けた時、最初彼女はわざとやっているのかふざけているのかと思ったぐらいだ。しかし彼女と同郷である料理メイドのステアリンが言うには昔からそんなミスばかりするらしい。真面目で素直なのはわかるのだがどうにもこうにも抜けている。しかも悪意が無いから質が悪い。


「ひょっとして、アニリィさんがこの前居室に閉じ込められた事件、パルチミンさんの仕業ですか?」


「えぇその通りですトマファ殿。パルチミンに聞いたところ、二階廊下のモップ掛けをしてたら窓の汚れを見つけて、そっちの掃除を始めたら廊下のモップを片づけ忘れたようでして。たまたまモップを立てかけた場所がアニリィの部屋の扉だったから扉が開かなくなったと聞いています。――ですがアニリィは扉が開かないと知ると、迷うことなく窓から飛び降りて飲みに出たようです。幸い、二人とも大事には至っておりません」


 トマファからの問いかけにオリゴの報告を聞いて俺は思わず目を丸くした。アニリィって本当に規格外な奴だな。というか、扉が開かないからといって二階の窓から外に飛び降りるってどういう発想なんだ。武官とはいえ年頃の乙女がする行為ではないだろうに。パルチミンも大概だが、アニリィも大概だな。



「それでしたらパルチミン殿に業務日誌の作成を促すのはいかがでしょう? 今日はどのような業務を失念し、いつ気づいたか。またどのような過ちを犯したかなどを詳細に記録させるのです。パルチミン殿は現時点では、深刻なミスを頻発させているわけではないと聞いております。しかし細かなミスを積み重ねていけば深刻なミスを起こすかもしれませんし、それを隠蔽するような事態となればオリゴ殿や卿が早期に適切な措置を講じることが困難になるかもしれません。笑って済ませられるミスは報告するでしょうが、深刻な失敗は隠そうとするのは人間の悲しい性質です。ですから率直な報告を促すことがこの日誌の最も重要な点ですが、記録を分析することでミスの傾向を把握し再発防止策を検討できるかと存じます」


「ですが、業務日誌を書かせようとしたら、むしろ必死に隠そうとするのではないでしょうか。パルチーは、そんなにいい加減な子だとは思えませんが」


「オリゴ殿が、ただ書けと命令したなら、隠蔽しようと必死になると思います。ですから、書かせるのなら『この報告を挙げても、パルチミン殿の業務評価が下がることは無い。むしろ、報告に挙がっていないミスが後々発覚した場合は、評価を下げることはある』と言い聞かせるのです。あと、終業後に日誌を書かせるでしょうから手当の支給も必要です。ただの無賃労働になりますから。――良いですよね、卿」


「無論だ。他のメイドたちにも課してみても面白いかもしれんな」


「承知いたしました、それでしたら当家のメイド全員にやらせましょう。副メイド長のマイリスと相談の上、そのようにしたいかと思います」


「ありがとうございます。もし導入するのでしたら今回の業務日誌は皆さんの能力向上とより働きやすい職場環境を作るためが目的と全員のメイドさんにはっきりお伝えください。決して皆さんを監視したり粗探しをするためのものではありませんし、日誌を通して自分自身の業務を振り返り改善点を見つけることで更なる成長に繋げてほしいと考えています。また日誌に記録された情報は一部の者しか閲覧しませんしプライバシーは厳守します。ですから個人的な悪口や非難は禁止し、業務に関する客観的な記録のみをお願いします。日誌作成に対しては手当も支給しますのでご安心ください。皆さんの意見も参考にしながらオリゴ殿への情報伝達をより円滑にする一助となるでしょうし、メイドの皆さんだけでは解決が難しい事案が発生した場合、速やかに卿のご判断を仰ぐ体制を整えることにも繋がるかと存じます。今日は何々がありました、というような漠然とした作文は求めておりません。ミスなくできたなら『本日、ミスなく遅滞なく業務終了』で良いのです。そのための業務(ぽんこつ)日誌なのですから」


 確かにトマファの言うとおりだ。自分の過ちよりも他人の失敗の方がどうにもこうにも目に付いてしまう。まったくこれも人間の(さが)というべきか。オリゴから自身の失敗や反省点などを記す日誌を書くよう命じられたが、書く内容がないからとかオリゴから気に入られたいからと、他人の小さなミスをこと細かに書き立てるようなメイドが現れる可能性も否定できない。そのような不愉快なメイドが我が屋敷にいないことを願うがトマファの言う通りあり得る話だ。書くことがなくて無理にひねり出そうとするから他人の事をあげつらう。そんなもの読んでいて愉快になるわけがない。失敗がなければ無いで良い。とはいえしかし業務(ぽんこつ)日誌とは、言い得て妙だ。



「あの、一つ宜しいですか?」


 今まで俺たちの話をじっと聞いていたクラーレが、静かに右手を少しだけ持ち上げ、声を出す。トマファもオリゴも、そして俺もクラーレの顔を覗き込んだ。


「――たかだかメイドさんが連絡ミスなのに手当まで出して業務日誌を書かせようって、この家の方針って面白いですね」


「ですよね、僕もそう思います。――せっかくですから当家の文官として働かれるクラーレ殿に一つ質問して良いですか。メイドの皆さまの目的って何だと思います?」


 トマファの質問にクラーレは少し考え込む。


「えっと、それはつまり、この屋敷の掃除やベッドメイク、料理といった家事労働以外にもあるってことですよね?」


「えぇ、その通りです。ですがオリゴ殿はメイドの皆さまには『目的と役割を明確にして質の高い成果を上げ続けることを目指せ』と指導しているとうかがっております。具体的には卿の安寧と快適な暮らしを支え、メイド自身も豊かに過ごすことが目的とし、そのためにメイドの皆さまには『成果を上げることを使命とするメイド組織の一員』という役割が与えられているとも聞いております――ですよね、オリゴ殿」


「左様でございます」


「他家の方々からすればメイド一人の小さな不手際が卿のお名前に傷をつける可能性もございます。ですからまず成果を上げるためには、今回のような不注意が二度と起こらないように組織全体で意識改革をしつつ改善策を講じてゆくべきなのです。今回のことはクラーレ殿の寛大さで済まされましたがもしこれが高位の貴族の方への対応で起きたとなれば、当家にとって取り返しのつかない事態になりかねません。成果を上げるためには、今回の件のような不注意が二度と起こらないようにしなければならないのです」


トマファの言葉に、クラーレは顔を熱くし目を見開いた。驚きと興奮が入り混じった様子で、 「ねぇ、トマファ君って私より年下だよね? うそでしょ? なんか、私より考えがずっと大人っぽいんだけど! ちょっと、あなた一体何者なの?」と言う。というかパルチミンのミスでここまで話が膨らむなんて俺ですら思ってなかったぞ。

「いや、まぁ、その。――拾っていただいた恩を、微力ながらも卿のために尽くすことで少しでもお返ししたいんです」

トマファは恥ずかしそうに頭を掻きながら年相応にはにかみながらそう言った。

俺にトマファという人材は過ぎたるものだと思っている。しかし、トマファの次の言葉に俺は耳を疑った。

「卿には、天下を望んで欲しいのです」



――その眼差しはいつも見せる怜悧な文官トマファのものとはまるで違う、真剣そのものだった。

俺はそのトマファの視線に耐え兼ねて静かにクラーレを見た。彼女はこの時ばかりは言葉を失ったかように目を見開き口元が微かに震えている。トマファの言葉の意味を必死に探し出そうとしているようだった。一方オリゴはトマファと俺を交互に見つめてなにか探るように鋭く光るだけだった。


「――君から恩義を感じて貰っているのはありがたい。俺のような武辺者にアドバイスをくれたり、当家の家宰を取り仕切ってくれたりと、むしろ俺が恩義を感じているぐらいだ。それにしても――天下を望むとは、トマファは随分と夢を見るのが好きなんだな」


 俺はそう言って軽く笑い飛ばした。俺もあの統一戦争の時――頭の片隅にも天下についてよぎった事はある。しかしこれだけ年を重ねると自分の限界を強く感じるもんだ。今はただ領民たちが少しでも平穏に暮らせればそれでいい。それ以上を望むなど現実的ではない。トマファは俺の言葉に何か言いたげな表情をしたが、すぐにいつもの柔和な顔をする。ただ、「…そうですか」と漏らしたその返事には僅かな寂しさが滲んでいるように感じた。しかしすぐにいつものトマファらしい穏やかな表情に戻り、「ですが卿には現状を変える力がおありだと私は信じております」と、彼の声には微かな熱が宿っていた。




     ★ ★ ★




(クラーレ視点)

「――ここにクラーレ殿の労働条件が細かく書かれています。一晩かけてよく読んで、問題なければこちらの雇用契約書にサインして明日お持ちください」


「あ、はい。それでしたら今ここでサインしますね?」


「それは絶対にダメです。後になってこんな条件聞いてないって言われても卿が困ります。ですからじっくり読んでサインしてください」

「当家からこちらに書かれているものが支給されます。それを現物確認したら今度はこちらの受領書にもサインをください」


 トマファ君は立て板に水のごとくすらすらと説明する。そっか、サインしたら私がこれらすべてを了承したって事になるもんね。


「――文官はサインをすることが仕事です。ですがサイン一つで責任が付きまといます。本当にサインすべき書類かどうかはまず冷静になって考えてください。決していい加減な気持ちでしないでくださいね――何か質問はございますか?」


「えと、あ、はい。何でもいいんですよね?」


「えぇ、僕で応えられる範囲でしたら」


 私はトマファ君の顔を見ると彼はにこりと微笑んだ。その表情を見ると私の弟のような無邪気さあどけなさを感じてしまう。こんな表情を見せるときだけ私より年下なんだよねと思ってしまう。


「何でもいいんですよね――じゃあ先ほどの『天下を望んで欲しい』ってあの発言、軽口にしてはちょっとびっくりしました」


 ヴァルトア様の執務室、窓から差し込む光が綺麗に磨かれたローテーブルを淡く照らしている。領主ヴァルトア様とメイド長のオリゴさんが別件で席を外した静かな空間に私の声が響いた。トマファ君は手にしていた書類から私の顔を見る。


「――そうですか?」


「ええそうですよ。だって天下ですよ? 冗談にしてもちょっと度が過ぎるんじゃないのってあの時は思っていました」


 私はそう言いながらトマファ君の顔をじっと見つめる。その瞳には少し好奇心と先ほどの無邪気さ、そしてほんの少しの疑念が浮かんでいた。トマファ君は少しの間沈黙を守った、そして私の目をしっかり見つめるとゆっくり口を開く。


「卿にはこの地を、そしてこの国をもっと良くしていただきたいと僕は思っています」


「良く、ですか。――例えば?」


「はい。この国は至る所で政治的破綻が見られます。先日クラーレ殿が話していた農業研究所の補助金打ち切り騒動も王宮との軋轢が原因だと聞いています。それ以外にも去年の凶作で発生した飢餓も記憶に新しいでしょう。さらに王宮からの不正な搾取や不良官吏による不正徴税も報告されており腐敗した政治体制が国を蝕んでいます。このままでは遠くない未来、国は内側から崩壊するでしょう。私にはこの国がまるで末期的な病に冒されたかのように見えるのです」


 トマファ君の言葉は私の心の奥底に沈んでいた怒りを呼び覚ますには充分だった。そう、この国は根本が腐っているんだ。私がエラールの農業研究所を解雇されたのは王宮からの突然の補助金打ち切りだった。研究成果を上げても経費削減を徹底しても所長はもっと成果をあげろ結果を出せと言うばかり。何日も家に帰れないって事もあった。そのくせ残業代は出なかった。そしてある日、私は所長に呼び出され一方的に解雇を言い渡された、ただ若いからって理由だけで。


 だけど真の解雇理由が『王宮への献上が滞った』から補助金が打ち切られた。そんな噂が耳に入った時、私はこの国の腐敗を心の底から呪った。



「卿がこの地を本気で富ませることが出来れば、この国の政治も大きく変えることが出来ると僕は思っています。僕はそのための手助けがしたいのです」


「トマファ君……」


 私はトマファ君のその言葉に驚き、そして感動したようにその名を呟いた。


「本当に、そう思っているのですか?」


「ええ、もちろんです。卿、クラーレ殿、皆でこの地から国を変えていきたい。それが僕の願いです。――これを、天下を望むと言っても差し支えはないでしょう」


 トマファ君はまっすぐに私を見つめて力強く放ったその言葉に、私は心を打たれた。彼の内に秘められた強い情熱と国の未来を真剣に考える姿勢に尊敬の念を抱いた。この子、本当に私より年下なのかしら。


「トマファ君――あなたは、本当に出来ると思ってる?」


「出来ると思っています。いえ、やりたいのです」


  私は、まっすぐな瞳でトマファ君を見た。彼の瞳には、迷いはなかった。


「――」


  私は少しの間考え込んだ。天下が取れるかどうかは分からない。けれどもこの地を豊かにして王宮が無視できないまでに育て上げることができれば、私をあっさりと切り捨てた連中を見返すことができるかもしれない。


「そう――それなら私、あなたの力になりたい。私に何かできることはある?」


「ありがとうございます。クラーレ殿の知識と経験はきっとこの領地のためになりますよ。共にここを素晴らしい場所にしていきましょう」


「はい、トマファ君」


 私が差し出した右手拳にトマファ君も右拳を差し出した。そして拳を軽く当てると私たちは固く握手を交わした。トマファ君の熱意が、冷え切っていた私の心に火を灯した。


「――しかし、まさかトマファ君がこんな熱い人だったとは」


「そうですか?」


「ええ。常に冷静沈着で、何を考えているのかわからない人だと思ってたのよ? 先日の面接のときによく言ってた『ちょっと興味深いですね』って、街の色んなところで使ってない? 酒場でトマファ君の話を聞くとそのモノマネをする人が何人もいたわよ?」


「え、えー、それは、ちょっと恥ずかしいです!というか、そんなに広まっているんですか……?」


  トマファ君は急に頬どころか耳まで紅潮させる、年相応に可愛らしく見える。私は思わずくすくすと笑ってしまった。


「僕は、その、色んな方と話をする中で出てくる面白い話を、もっと深く聞きたかっただけで……それが、卿のお役に立てるのなら、と思っていたんです」


 トマファ君は少し照れくさそうに、そして少し拗ねたように言う。


「ふふ。その熱意嫌いじゃない、むしろ尊敬しちゃう。――だから少しだけ私の事を年上を敬ってもいいのよ?」


 私はトマファ君に微笑みかけた。それを見てトマファ君はさらに照れくさそうに笑い頬を赤らめる。


「さてさておしゃべりはおしまいです。今日の仕事をとっとと片づけてしまいましょう。卿が戻ってくる前に少しでもやっつけましょう」


「そうですね」


 私はそう応えてトマファ君の前に積み上げられた書類に目をやった。彼の顔は書類の白い光を反射していくらか青白く見えた。トマファ君は私の言葉に小さく頷くと再びペンを手に取り書類に向き合った。執務室にはペンが紙を走る音だけが静かに響いていた。トマファ君の視線は書類に吸い寄せられるように一点を見つめている。その瞳の奥には微かな光が宿っていた。それは希望とそして強い決意の光。私にはそう映る。

 トマファ君は私よりいくつか年下だ。きっといつもは冷静沈着で感情を表に出すことのない彼の熱い情熱。その温度差に私はいつの間にか惹きつけられていた。トマファ君が領主ヴァルトア様に「天下を望んでほしい」と願った理由。その真意は私にはまだ分からない。ただ彼がこの国を変えたいと願う気持ちは疑いようもなく本物だとそう感じている。

 採用面接で彼は私の研究内容に耳を傾けると目を輝かせて質問してきた。彼の鋭い質問にたじろぐこともあったけれど、それは知識が無ければまず思いつかないし聞けないはず。私はその時からトマファ君に何か特別なものを秘めていると直感した。彼の瞳に宿った光はまるで暗闇の中で灯された小さな希望の光のようだった。私はきっとこの光を求めていたのかもしれない。




     ★ ★ ★




(とある新任女兵士、ネリスの日記)

 訓練生五日目

 朝から晩まで、挨拶、返事、敬礼、行進。間違えたら連帯責任。

「声が小さい」→連帯責任。

「タイミングがずれた」→連帯責任。

「敬礼の角度が甘い」→連帯責任。



 その連帯責任のスクワットで膝が笑う、腕立て伏せで腕が震える、腹筋では呼吸が詰まる。まだ五日目なのに私の体はすでに悲鳴を上げている。他の子たちもよく耐えてるよねって思っちゃう。でもあと八十五日頑張ればこの地獄の訓練は終わる。――私、耐えられるのかな。


 メリーナ小隊長は「ボクも連帯責任だからやるねー」と軽く言うと私たちと同じ訓練をする。しかし笑顔は崩さない、いや、むしろ余裕すら見える。というか一緒に訓練に付き合う古参兵たちも同じだ。私たちと一緒に連帯責任をこなしながら苦しそうな顔ひとつ見せない。バケモノだよ全員。


「はーい、みんなお疲れ。まずは気を付け!――休め!」


 休めといっても、背筋を伸ばして、手は背中、肘の角度も決まっている。こんなので休めるかっての。背筋がいまだにぷるぷるする。


「気を付け! 右向け、右!」


 一、二のテンポで右足を引き、振り向く。――はずだった。あれ、なんでクイラと向き合ってるの?


「はーい、ネリス訓練生。一人だけ左向いちゃったけどどうしたの? 疲れでちゃった?」


 ――やっちまった。クイラが目で「何してんのよバカ」と文句を言う。うるさいわよ、と私は目で返した。


「さて、ネリス訓練生とクイラ訓練生。そこで気を付けの姿勢で黙って見学しててね。はい、今回は腹筋運動だぞー。みんな横たわる! さてやるよー、ほいイーッチ!」


 こんなのを毎日朝から晩までやってる。しかもまだ五日目。果たして三年年季を耐えられる自信なんかもうない。男子班では一人逃亡者が出たらしいけどすぐに捕まって連れ戻されたって聞いた。そりゃ逃げたくもなる。だって辛いもん。


「――はい終了、みんなお疲れ。まずは気を付け! ――休め!」


 足が震え、肩で息をしながらヨロヨロと立ち上がる訓練生たちは気を付けの姿勢を取り、すぐに休めの姿勢に替えた。ここで気を緩めたらまた連帯責任だ。


 異様な緊張感。地面に滴る汗、砂埃の匂い、喉の渇き。誰もが喉を鳴らしながら、次の指示を待つ。メリーナ小隊長は相変わらずの笑顔だった。疲れの色ひとつない。いや、それどころか口元が緩んでいるようにすら見えた。きっと楽しんでいる。


「五日間、同じ訓練ばかりでみんな辛くなってきた? まぁ言わなくてもわかるよ。みんなの顔には辛い、もう辞めたい、もっと楽なもんだと思ってた――そんな感想が顔に書いてあるもん」


 正解すぎて誰も返事ができない。そりゃそうだ、この女子組でこの程度の訓練辛くないわと思っている奴なんか誰も居ない。中には限界迎えて逃げ出そうと思ってる訓練生もいるかもしれない。


「じゃあさ、軍隊って何のためにあるか知ってるよね? ほら、レンジュ訓練生、答えてみ?」


 突然、名指しされたレンジュ訓練生がビクッと身を硬くする。一瞬の沈黙。周りの訓練生たちの視線が彼女を刺す。


「え、えっと……はい!」


 覚悟を決めたように、レンジュは一気に答えた。「敵を多く殺すためです!」


 ピクリ、と誰かの肩が揺れた。場の空気が一瞬張り詰める。


「うんうん!」


 メリーナ小隊長は軽く頷き――にっこりと微笑んだ。「……違うよね?」


 その瞬間、彼女のつぶらな瞳が、鋭い刃のように光った。


「レンジュ訓練生、なにか勘違いしているよね? ボクら軍隊って領土と民衆を守るために存在しているの。これすっごく大事なことだから、ちゃんと覚えておいてね?」


 空気が冷たく張り詰める。しかしメリーナ小隊長はいつもの笑顔に戻すと、「疲れてるところゴメンだけど、もう少し私の話を聞いて?」と言う。言い方がちょっとかわいい。


「入隊したときにボク、言ったよね? この練兵場にいる間はずっと訓練だよって。寝てるときも、ご飯食べてるときも、お風呂も、全部訓練なんだよ。しかも挨拶や敬礼、連帯責任などのくっそつらい訓練だってちゃんと意味があるんだよ」

「例えば上官の命令に対して私を含めた末端兵士がきちんと動けるか、確実に行動できるかの確認。そして基礎体力向上が目的なんだよ」

「だってさ、敵さんは私たちが疲れ切ってる表情を浮かべてるからって、攻め手を優しくしようなんて思わないよね? むしろ好機と思って攻め立てるよね」

「だからどれだけ疲れていても顔に出さない、それも訓練なの。だから夕飯をがっつり食べて、よく寝るのも訓練。――あ、夕鐘が鳴った! はい訓練終了、点呼しまーす、みんな異常ないねー。以上、それでは爾後の行動にかかれ! 移れ!」


「「「移ります!」」」


 今日も絶妙なタイミングで夕鐘が鳴り響いた。真っ先に風呂に飛び込みたい者、食事にありつきたい者、まずは洗濯に精を出す者と様々だ。だからこの鐘が鳴ると終わりだ急げと、訓練生や古参兵たちは駆け足で兵舎へ駆けてゆく。まるで子どもの頃の夕鐘を聞いて急いで帰宅する、どこか懐かしい風景だ。私にとってはどっと押し寄せる疲労感が強すぎて解放感は得られなかった。小さい頃からそんなに体力無かったからしかたないか。

 ふと兵舎とは逆の方向へ振り返った。そこにはメリーナ小隊長が解散を指示した場所からひとつも動いておらず、私たちが兵舎へ戻るのを見守るかの如く立っていた。小柄でまるで人形のような愛らしい顔立ち、口元から見えるかわいらしい八重歯。私たちを地獄のような訓練で毎日鍛え上げる鬼軍曹には見えない。夕焼けに照らされた彼女の瞳の奥には、長年戦場を生き抜いてきた者だけが持つ冷徹な光が宿っている、そんな気がした。


『まさか、あのメリーナ小隊長、実はすごいベテラン鬼軍曹だったりして』なんてことを考えていたらいつの間にか私の横にメリーナ小隊長が立っていた。


「なに、ぼーっとしてるのよネリス訓練生。お風呂に入って汗をたっぷり流し、ごはんを食べて早く寝なさいね!」


 その声は、夕焼けと同じく温かく、優しかった。


「はい!」


 私は、慌てて敬礼し、その場を離れた。



 訓練で体を酷使したせいで夕飯がどんどん入ってゆく。しかも食事がとんでもなくうまい。こんなにうまい夕飯を毎日食べてたらお給金無くなりそう。――あと絶対太ると思う。


 周りを見渡すと仲のいい訓練生たちはわいわい喋りながら食事をしていた。でも私は食堂の隅、一人でパンをかじる。


「ねぇ、ネリス訓練生。ちょっといい?」


 黒パンを口に放り込んだ私にレンジュ訓練生が声をかけた。こういうときに声をかけてくるなんて碌な話じゃないよね。でも聞くだけならタダだ。私は、小さく頷いた。


「ねぇ――脱走しない?」


 碌なお誘いじゃなかった。

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