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138話 武辺者、地味に手痛い反撃を食らう

 昼下がりのキュリクス市場。

 陽射しはやや傾き、石畳には野菜や干し魚が色とりどりに並び、焼き肉とパンの匂いが漂っている。遠くからは客引きの声や秤の錘がぶつかる音が響き、いつもののどかな午後──のはずだった。


 そこへ黒いくるぶし丈トゥニカに真っ白なウィンプル姿の聖心教の尼僧二人が突如登場。胸元のハート型装飾が陽を反射してきらりと光る。


 もっとも彼女たちはキュリクス教区の尼僧ではない。

 そもそもキュリクスの尼僧といえば、陽に焼けた小麦色の肌にギラギラ光るピアスと明るく染め上げた髪――まるで南国の海からそのまま上がってきたような黒ギャルか、色白でデスボイスを響かせながら「FxxK!」と叫びつつ主神の教えを判りやすく説く白ギャルの二人だろう。それに比べこの二人は着崩すこともなく正統派の黒トゥニカ姿で、笑顔も優雅、声も普通である。あまりに普通すぎて、逆に怪しさを醸していた。


「地元じゃねえな、あいつら」「むしろ外から来た観光尼だろ」と、市場の誰もが首をかしげていた。


 その尼僧二人は市場の広場の真ん中に立ち、顔を見合わせてにっこり。間を置いて、軽やかなステップとともにアカペラで歌い出す。



「むかしむかしロバスティアの偉いお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に、良い香りのこの飲み物を教えてあげました――」



 このあと延々と恋だの胸のときめきだのを歌い上げるのだが、ここでは割愛する。詳しく知りたい人は尼僧たちの歌を聞くと良い。耳に残るメロディと妙に情熱的な歌詞、そして頑張れば覚えられそうな振付け。ちょうど夏休みの最中とあって、子どもたちの目に留まる。


「おもしろーい!」と子どもたちは見よう見まねで踊り出し、それを街の娘たちも真似し流行し始めたのだ。その光景を見た大人たちは、半ば呆れ、半ば“まあいいか”と笑いながら、「何の宗教行事だ、これ」と心の中で突っ込んでいた。


 そして尼僧の後ろには南国の行商人らしき男が一人座っていた。色褪せた絨毯の上に砂を敷き詰めた大鍋を置き、その中で真鍮製の柄杓――イブリークを温めている。その柄杓に水を入れ、湧きたったところに男は黒い粉を注ぎ込んだ。中に入れられた黒い粉は、焦げる寸前の穀物のような香ばしさと、甘く鼻をくすぐる未知の香りを放ち、南風に乗って市場全体に広がっていった。


「いい匂いだな…」「でも怪しいぞ」「嗅いだことのない匂いだな」


 通りすがりの男たちが鼻をひくつかせる。香りと歌と踊りで、市場はいつの間にか奇妙な熱気に包まれていた。


 *


 最初は警戒していた市場の男たちも、銅貨二枚という手頃さに釣られて「まあ一杯くらいなら」と試しに口をつける。


「……苦っ! ……でも、いい香りだな。それになんか元気が出る気がするぞ」


「この苦みがクセになるな……もう一杯!」


 気づけば翌日も同じ顔ぶれが並んでいる。しかも、しれっと銅貨三枚に値上げされているのに誰も文句を言わない。三日目には四枚、それでも市場の男たちの列は伸びる一方だった。


 異変はすぐに市民のあいだで話題になった。


「あれ、いけないクスリじゃないのか?」

「いや、合法らしいぞ?」

「錬金術ギルドに検査してもらおう」

「いや、捜査のほうが先だろ」


 市場の片隅では、そんな物騒なやり取りが真顔で交わされていたという。


 そして、奥様たちの愚痴も絶えない。


「うちの旦那、また“あの飲み物屋”に行ったわよ」


「うちは昨日三杯も飲んだみたいで、夜ずっと天井見てたわ」


「朝になったら『飲まんと頭痛がする』って言うのよ、あの人」


 店の前を通る奥様たちの目は冷たく、行列の男たちは何となく背中を丸めている。



 この不思議な飲み物、口にしてしばらくすると妙に目が冴えるのだ。独特な苦みのせいか、鼻を抜ける香りのせいか、それとも背後で続く尼僧の歌と踊りのせいなのかは誰にもわからない。屋台で何杯も飲めば頭は冴えわたるどころか、夜になっても天井とにらめっこ。中には頭痛を訴える者もいたが、「飲めば治る」と聞いて試しにもう一杯――そして翌日もまた列に並ぶ市場の男たちであった。


 中には『その黒い粉を売ってくれ』と行商人に尋ねる者もいたというが、彼は頑として売ろうとしなかったという。


 行商人は今日も悠々と砂鍋を温め、巫女たちは例の歌を情熱的に歌い続ける。香りは風に乗って市場全体に広がり、侵蝕されてゆくのだった。


 *


 数日後、この妙な黒い飲み物騒ぎは領主館にも届いた。

 執務室の机に書類を広げたヴァルトアの前で、報告役レニエが困り顔をしていた。


「市場の男たちが、妙な黒い飲み物に夢中になっています。寝不足者が続出です」


「……妙な飲み物、だと?」


「はい。飲むと気分が上がり、頭が冴えるそうです。ただ、飲まないと物足りなくなるらしく――」


「すでに仕事の能率低下が出ています。衛兵まで並んでいるとのこと」とトマファが横から口を挟む。


 ヴァルトアは報告書を手繰り寄せ、目を細めながらレニエが書いた報告書を読む。


「……嫌がらせか?」


「地味な嫌がらせですね」とトマファは静かに応えた。


 報告役のレニエはさらに書類をめくりながら続ける。


「錬金術ギルドに検査を依頼しました。その結果……『焙煎した南方豆を粉にして湯で煮出したもの』だったそうです」


「……南方豆?」


「現地では“コーヒー”と呼ばれているとか」


 しばし沈黙。


「……コーヒーかよ!」「コーヒーですね」


 窓の外からはまだ例の歌が響いてくる。市場の男たちの笑い声と踊る子どもたちの足音も混じっていた。


「……やっぱりロバスティアからの嫌がらせだと思います」

「地味な嫌がらせだな……」


 トマファは額を押さえ、ヴァルトアは深いため息をついたのだった。


 *


 しかし、それからというもの――。

 キュリクスに「コーヒーを飲む」という習慣がすっかり根付いてしまったのだ。ロバスティアから豆を仕入れ、煮出して提供する「コーヒーハウス」がいくつも出来、そこでは新聞片手に政治談議を繰り広げる男たちの姿が日常となった。そしてその男たちを横目に女将や奥様方は揃ってため息をつくのだった。


「……またうちの旦那、帰りが遅くなるわね」


「はいはい、今日も“コーヒー”ですってよ」

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