137話 武辺者の女文官、見破られる
レオナは片膝をついたまま静かに頭を下げていた。だがその頬は青ざめ、遠目からでも彼女が動揺していることは明らかだった。
「は、はい。キュリクスの……入場審査用紙に、そう書かれていたから……で、あります」
必死に取り繕うレオナの耳元にラヴィーナが口を寄せた。
「あれ、おかしいです。──私、入国審査書類や旅券は“ロザーラ”って名前にしてあったはずですが。……あなたもお忍びの特別旅券制度はご存じでしょ?」
「──ッ!」
レオナは顔をあからさまにしかめた。
各国の通商条約には王族や高位貴族の子女が誘拐や略取などの事件に巻き込まれぬよう、『偽名による入国を正規に認める“特別旅券”制度』が付帯条項として設けられている。ラヴィーナも例に漏れず、“男爵子女・ロザーラ”という別名義の旅券でキュリクスへ入場しているため、書類では彼女の本名どころか正しい身分すら知る由がないのだ。──にもかかわらず、レオナはラヴィーナの本名と身分を知っていた。それは二人が“どこかで出会っていた”ことを何より雄弁に物語っているだろう。
「いえ、その、私は――」
「セルヴェウス様」
ラヴィーナは遮るように小声でその名を呼んだ。レオナを刺激するつもりはなく、あくまで柔らかな声色で。そしてゆっくりと続けた。
「三年前の春、エラール王宮での舞踏会……覚えてらっしゃいますか? あのとき私は、父に付き添ってはじめて公式の場に出たんです。緊張して、挨拶もままならなくて……でも、あなたが手を取って誘ってくださって、最初の一曲を踊ってくれた」
ラヴィーナは少し微笑む。
「今もダンスは得意じゃありませんけれど、あのときは不思議と怖くなかったんです。とても丁寧に、やさしくリードしてくださったから……子ども心に、少しだけ恋をしてしまったのかもしれませんわ」
レオナの目が揺れた。──あれは、彼女がまだ“王太子セルヴェウス”として王宮にいた頃のことだった。
恒例の春祭にあわせて開かれた宮廷舞踏会。貴族や外交官の子女が一堂に集う格式高い社交の場で、ラヴィーナは緊張のあまりほとんど言葉も出せず、椅子に座ったまま固まっていたのだ。そんな彼女にセルヴェウス──つまりレオナが、ひとり歩み寄って手を差し伸べた。
「よろしければ、僕と一曲お付き合いを」
その言葉に、父・エドゥアルトがうなずいたのを見て、ラヴィーナは震える手でその手を取った。
舞踏会で手を差し伸べられるということがどういう意味を持つのか、まだ幼かった彼女にも、ぼんやりと理解できていた。格式高い場で、王太子自らが名乗りを上げるという意味を。
だがラヴィーナの足取りはたどたどしくてセルヴェウスのリードについていくのが精一杯だった。にもかかわらず彼は終始やさしかった。ラヴィーナに歩調を合わせてくれたし、柔らかな微笑みを絶やさなかった。彼女にとってそれは、“最初に出会った殿方”であり、初めての舞踏会を無事に終えられたのは、間違いなく彼のおかげだったのだ。
「……あの声、忘れるはずないもの。あなたが……セルヴェウス様でしょう?」
問いではなかった。それは確信だった。レオナはうつむいたまま沈黙を貫いた。けれど、その沈黙こそが答えだった。風が吹く、彼女のスカートがふわりと揺れた。
ラヴィーナはふっと笑い、肩の力を抜いた。
「でも……これ以上は追及しないわ。だって今のあなたはキュリクスの文官なんでしょ?」
レオナは小さくうなずいた。
「私も今はヴィオシュラの女学生。政治とか、王位とか、そういうのはもういいの」
その言葉が境界線だった、ここから先は踏み込まないという意思表示だった。ラヴィーナは身体を起こすとくるりと踵を返して軽く手を振った。
「よろしくね、文官さん。今度キュリクスの美味しいお店、案内してもらえるかしら?」
「……御意にございます、ロザーラ嬢」
その一言を聞いてラヴィーナはくすりと笑ったのだった。
*
レオナとラヴィーナが耳打ちを終え、レオナが手荷物を抱えて客舎へ消えていったあと、ふたりの少女が駆け寄ってきた。
「ちょっとちょっと、なに話してたの?」
ミニヨが鼻先を寄せてくる。エルゼリアも顔をのぞかせて、わくわくした声を重ねた。
「まさか──昔の主従? それとも、禁断の“お姉さま”との恋?」
「ち、ちがっ……違うったら違うのよっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶラヴィーナに、ふたりは「ふふーん」と目を細める。
「じゃあなんでそんな顔してるの〜?」
「そうそう、なんで赤いの〜?」
容赦なく迫るふたりに、ラヴィーナはぷるぷると震えたのち、叫んだ。
「うるっさいっ!!」
そのまま踵を返して、肩を怒らせながら客舎の方へと歩いていった。
「……絶対、何かあるな」「あるわね」
小声でささやき合いながら、ミニヨとエルゼリアも後を追ったのだった。
*
領主館の執務室に入るなり、ヴァルトア・ヴィンターガルテンは天井の梁を見上げて聞いた。
「カミラー、聞こえているな? 間者の影はないか」
静かな沈黙ののち、天井に根を這わせたアルラウネのカミラーがかすかに葉を揺らす。──それは“問題なし”の合図。
「よし、では始めよう」
重厚な机の前のソファに腰を下ろしたヴァルトアの前には、側近たちが控えていた。文官長トマファ、メイド長オリゴ、そして一年ぶりに帰還した侍女セーニャである。
「まずは──よく戻った、セーニャ。約一年のお勤めご苦労であった」
ヴァルトアの声は低く、しかしどこか温かかった。
「はっ。恐悦至極にございます」
セーニャは凛とした姿勢で答える。ヴィオシュラ女学院の侍女制服からメイド隊の制服に着替えた彼女は、完全に“ヴィンターガルテン家のメイド”としての顔に戻っていた。
「こちら、守備隊が受け取った旅券と入場申請書です……内容はすべて問題ありません」
オリゴが一歩進み、手にした書類の束をそっと卓上へ置いた。ヴァルトアはそれを受け取ると一つ一つ確認する。
トマファが眼鏡を押し上げつつ、ふとセーニャに視線を向ける。彼女と目が合ったその瞬間、セーニャは一瞬きょとんとし、次いで頬を染めた。そんな彼女を見ながらトマファは淡々と口を開く。
「では単刀直入に。入場申請書と旅券に記載された“ロザーラ嬢”──彼女はいつもセーニャ殿が綴ってくれた業務日誌に出てくる、公国のラヴィーナ王女殿下で間違いありませんね?」
一瞬で執務室の空気が張りつめた。偽造旅券の使用は重罪であり、それを行使した者だけでなく、その事実を知りつつ入場を許した領主側も処罰の対象となる。幌馬車に乗ってた者一人一人が呈示したものなのでヴィオシュラの特別領事であるミニヨに一切の責はない。
セーニャはトマファの問いに迷いなく答えた。
「左様でございます」
そのセーニャの言葉にオリゴが静かに補足する。
「ロザーラ嬢の旅券はルツェル公国発行のもので間違いありません。きっと特別旅券制度に基づいた措置でしょう」
ヴァルトアは目を閉じ、しばし沈黙する。たとえ特別旅券制度に基づいた行動であったとしてもその真実を知った以上、領主側としては『正規の旅券も重ねて呈示させる』のが正しい対応だ。異国の王女がやってきたのに通称のまま一般貴族の娘と同等に扱っていたと知れれば、周囲が何を言い出すか。
「──よかろう。では我らは記録上、“ロザーラ嬢”の入場を確認したに留める。ミニヨ達はラヴィーナと呼ぶだろうがそれはあくまで通称だ。我々はあくまでも知らぬ存ぜぬ、公式に“ロザーラ嬢”として対応する。よいな?」
「御意」
トマファとオリゴが同時に応じた。セーニャも静かに深く頭を下げる。
「いやぁ。王女殿下がやってきたなら晩さん会とか開かないとなぁって思ってたんだよ」
ヴァルトアはそう言うとカップを掴みお茶を一口啜った。
「殿下はきっとそんな事望んでませんわ、ミニヨ様たちとの水入らずの休暇を楽しみたいかと」
オリゴはそう言うとヴァルトアの向かいのソファに静かに腰を下ろす。そしてセーニャが出したお茶を静かに啜った。
実を言うと『ラヴィーナの対応』について何度も会議を行ったのだ。
というのも、ミニヨからの手紙やセーニャの報告書には、エルゼリアやラヴィーナとの楽しい日々が繰り返し綴られており、キュリクス帰省の報には『友達二人、侍女付きで参ります』と明記されていた。その内容からすれば、ラヴィーナを丁重に迎え入れるのは自然な判断だった。仮にラヴィーナ本人がそれを望んでいなかったなら、『親バカ拗らせ派手な出迎えだよな』と笑われる程度で済む。つまり、あの華やかな出迎えは──どう転んでも致命的な失敗にはならない、リスクを抑えた演出だったのだ。
「キュリクスの新聞屋は好意的に書いてくれると思います。──というかラヴィーナ王女を派手に歓待すれば、かえって面倒事を抱え込みますよ」
そう言ってトマファもお茶を啜ると、ヴァルトアは唸るように呟いたのだった。
「親バカかぁ」
*
翌日のキュリクス日報より。
「領主ヴァルトア卿の末娘ミニヨ嬢、キュリクスに帰郷! ──メイド隊、またやらかす」
領都キュリクスの入場門前に大きな歓声が上がった。領主ヴァルトア卿の末娘にして、現在ヴィオシュラ女学院に遊学中のミニヨ嬢が一年ぶりに里帰りを果たしたのである。
==中略==
当日、入場門上に掲げられた横断幕には、来訪者への歓迎の意を込めた「ようこそ・おかえり」の文字が翻るはずだった。しかし設置を担当したメイド隊の手違いで、実際に掲示されたのはなんと【よこえり・おそうか(横襟・襲うか)】という謎の語句。風に翻った瞬間、読み取った市民たちの間にざわめきが広がり、「一瞬、物騒なメッセージかと誤解した」という声も。領主館広報担当によれば、「気づいた時にはすでに遅く、訂正が間に合わなかった」とのことで、現在までに“片手で数えるほど”の苦情が寄せられているという。
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