135話 武辺者の侍従、帰郷する・5
猫の目亭は夕飯が出ない宿屋だったため受付の老女が勧めてくれたのは、地元客も利用する静かな食堂だった。壁にはヴィルフェシスの街地図や冬祭りの絵画が飾られ、窓際には鉢植えのハーブがいくつか置かれていた。
テーブルに並ぶのは、湯気立つ大陸北方のヴィルフェシスらしい料理だった。この地域はヴィオシュラと同じく、大麦粥、香辛料の利いたシャシリク、イモとビーツの温野菜サラダ、もちもちしたペリニクが名物だ。かなり寒冷なヴィオシュラとは違い、香辛料の使い方が穏やかで味も香りもほのかに優しく仕上げている。そしてもう一つの特徴は、この大陸では北へ行くほど夏場でも温かい料理が好まれるという傾向にあり、ここヴィルフェシスもその例にもれなかった。今日は汗ばむほどの暑さなのに、並ぶ料理は湯気立つ皿の数々だ。昼間は暑くても夜になると急激に冷えこむせいか、この地では冷たい食べ物は好まれないようだ。
「……サラダに使われてるドレッシング、ようやくさっぱり味ですわね」
エルゼリアが感慨深げに呟くと、横でリーディアが鷹揚に頷いた。ヴィルフェシスではオリーブ油と果実酢を使った軽やかなドレッシングが主流のようである。このセンヴェリア大陸は、北へ行けば行くほどチーズやクリームを使った“濃密系”ドレッシングが主流になる。ヴィオシュラのような寒冷地では、乳化させた脂やクリームチーズたっぷりのこってりドレッシングが一般的であり、『塩と果実酢』だけといったさっぱり味を好む南方出身のエルゼリアやリーディアにとっては、久々に“自分の舌に合う味”だったのだ。ちなみにラヴィーナやシュラウディアは濃厚ドレッシングを好むので、小声で「チーズ欲しいわね」、「頼んでみますか?」と囁きあってたのだが。
そしてペニリクのように挽肉や野菜を練った穀物粉で包んで調理する食べ物はセンヴェリア大陸のあちこちで食べられる。しかし地域によっては料理の仕方が変わる不思議な食べ物だった。ヴィオシュラでは香辛料をがっつり効かせてクリームチーズスープ仕立てにするし、ここヴィルフェシスでは香辛料の香りがするスープ仕立てだ。キュリクスではさっと茹でて食べるしエラールではなんと焼いて食べる。
「──ってことで、このペニリクの食べ方や呼び方でその人の出身が意外と判るのよ」
食堂で博識を披露しているのはダナスだ。ラヴィーナがペニリクを見て「変なペンシュクね」と言ったところ、この料理の話で盛り上がったのだ。ちなみにエルゼリアは「私の国だと握りこぶしぐらいの大きさにして揚げ、ナイフとフォークで食べるんですよ」と言うと「それだと、もはや揚げパンだよ」とラヴィーナが笑っていた。
そんなとき、ミニヨが椅子を引き寄せると横に座るセーニャやシュラウディアに小声で尋ねた。
「ねえ、ダナス先生……まだ飲んでないわよね?」
「ええ、部屋に入ってからは『お腹すいたー』ってばかりでした。そのたびにセーニャがあれこれとつまむもの出してましたよ」
「ダナス先生酔っ払ったら、そちらに避難してもよろしいでしょうか? ミニヨ様」
「その時の状況判断になると思うわ」
まるで作戦会議をするかのように顔を寄せ合う三人を見て、当のダナスは、粥を啜りつつ眉をひくつかせた。
「……あんたら、何こそこそ話してるのかしら」
「あぁ、その──」
「先ほど通りで見かけた、『お酒で作った化粧水』の話をしてたんですよ」
言い淀むミニヨにセーニャが瞬時に話を逸らす。猫の目亭へ向かう途中で見かけた逸品を思い出し、その話を振ったのだ。「酒屋で売ってた可愛い小瓶よね」とシュラウディアが付け加える。
「それだったら食事のあと、夜市が近くで開催してるから寄っていきましょうよ」
そう言うとダナスは胸元からヴィルフェシスの地図を二枚も引っ張り出した。一枚は宿屋で配布されてる一般的な街地図で、もう一枚は案内付きの観光用地図だった。
ヴィルフェシスでは、短い夏の夜を楽しむために夕暮れからあちこちで夜市が開かれるという。手工芸品や菓子、装飾品に鉱物などを並べる屋台が、昼とは違った表情で街を彩るのだ。もともとは迷宮に潜っていた冒険者たちが自身の戦利品を売りさばく市から始まったらしいのだが、その冒険者の職種によって開かれる市に偏りがあったため、今もこの夜市には手工芸品が多いとか鉱物が多いとかの特徴があるという。ダナスが出した観光地図によると、この食堂の近くのは雑多なものが多い観光夜市と書かれている。
「夜市、良いですわね!」
ラヴィーナが興味を抱き、ダナスにあれこれと夜市について聞いてたので、ミニヨ、セーニャとシュラウディアはこれ以上の追求は避けられたのだった。
食事を済ませた一行は近くの夜市に立ち寄ることにした。道路の脇に並ぶ屋台は蝋燭で煌々と輝いており、昼間に見せていた街並みとは印象がガラリと変わる。
実はヴィルフェシス近郊には「ヴァイラ」という蝋燭作りで有名な村があり、そこで生産された蝋燭は地下迷宮に挑む冒険者たちに重宝されているという。大量に取引されているため、この街では蝋燭の質も値段も他に比べてずば抜けて良いらしく、そのためヴィルフェシスには蝋燭売りも多く見かけるのだ。そのためだろう、屋台じゅうに蝋燭を灯して昼間のように煌々としているのだ。
「これかわいい、素焼きの猫ちゃん!」
ラヴィーナは嬉しそうに屋台で売られている猫の置物に目を奪われていた。手作りなのか猫一体一体の造形が少しずつ違う。右手を耳上まで挙げてる猫、控えめに挙げてる猫、右手を舐めてる猫など様々だ。表情も微妙に違うため、どれを見てても飽きが来ない。
「ラヴィーナは本当に猫が好きよねぇ」
そのラヴィーナの右腕をしっかり掴みながらエルゼリアが言う。ミニヨはその左腕を掴んでニコニコしていた。
「ねぇセーニャ。あの三人本当に仲良しよね」
主人三人組が仲良く腕を掴んで屋台をぶらつく様を、後ろから眺めていたシュラウディアが訊く。それをセーニャは静かに応えるのだった。
「ええ、──あぁやって迷子防止ですよ」
ぼそりと呟いたその目線の先では、あちこちの屋台に目移りしてふらふらするラヴィーナを、見事に二人がホールドしているのだった。
*
猫の目亭201号室。
部屋には、シングルベッドが三つと、小ぶりなドレッサーが一つ置かれていた。窓の外から夜市の蝋燭の明かりがゆらゆらと差し込んでいる。
「ねぇ。お泊まり会って久しぶりじゃない?」
制服から寝間着に替えたミニヨがベッドの上に腰を下ろしながら言う。長い馬車旅のせいかぐっと背伸びをすると、背や肩からぽきぽき音を立てる。
「お泊り会自体は一ヶ月ぶりだけど、シュラウディアたちが居ないお泊まり会ってのは初めてよね?」
ラヴィーナはドレッサーの前で髪を梳かしつつ、鏡越しにふふっと笑う。いつもお泊り会をするときはラヴィーナの広い屋敷で、侍女たちも含めて大部屋で雑魚寝するのが常だった。こうして三人だけで枕を並べて夜を過ごすのは、実はこれが初めてである。
「じゃあ……今夜は三人で寝落ちするまでいっぱいおしゃべりしましょうか♪」
エルゼリアは両手を広げてベッドにごろりと寝転がる。彼女もメイクを落として寝間着に替えており、いつでも寝られる準備は万端だ。
夕方過ぎて街の喧噪が遠くなり、301号室の中にはゆったりとした時間が流れていた。侍女たちやダナスの手前、昼間はどうしても『お嬢様』を演じなければならないため、常に緊張感に満たされていたのだ。しかし今は誰の目も気にする必要がない。気兼ねも遠慮もいらない空間で、三人それぞれが思い思いに三者三様穏やかな時間を過ごしていた。
ラヴィーナが髪を梳き終えてベッドに腰掛けると、エルゼリアが思い出したかのようにむくりと起き上がる。
「そういえば……夜市で買ったワイン、ちょっとだけ飲んでみません?」
エルゼリアがベッド下からそっと取り出したのは可愛らしいアンフォラ瓶だった。中身はヴィルフェシス産の氷酒──この地の寒暖差を生かして作られる特産の甘口ワインだ。
※なお、彼女たちはすでに飲酒が認められる年齢であることは念のため付け加えておく。
「じゃあ少しだけ頂こうかな……」
ミニヨがサイドボードからグラスを三つ取り出すと二人に差し出した。
「私たちだけで飲むってのも初めてよね、なんだか緊張するわ」
ラヴィーナはグラスを受け取りながら、期待と背徳が入り混じった表情を浮かべる。アンフォラから注がれるワインは黄金色に澄んだ液体で、柔らかな果実の香りが部屋中を優しく包む。甘く、そして危ういほどに飲みやすいその一杯に、三人のグラスは瞬く間に空になった。そして気がつけば一本目の瓶はすでに空になっており、ラヴィーナは嬉々として二本目の栓を抜く。
「ふふふ……この枕、セーニャの胸っぽいわ……気持ちいい……」
ミニヨが枕を何度も撫でながら微笑む。
「……ミニヨって時々ひどい事言うよね」とエルゼリアが漏らす。
「まぁお互い、その、ぺったんこよね……」
ラヴィーナはベッドに片膝を立てるようにして座り、手酌でワインを注ぎながら呆れた声を出した。もしこんなだらしない姿を見れば、きっとシュラウディアに厳しく叱られるだろう。しかし今この部屋にいるのは、ミニヨとエルゼリアだけ。彼女の目もなければ、誰からも咎められることもないのだ。ラヴィーナは気にする様子もなく、楽座位でくつろいでいた。
「それより──エルゼリアって酔うと早口になるのね」
ミニヨがにこにこしながら言うと、エルゼリアは目を見開いた。普段のエルゼリアはかなり鷹揚に話す癖があるのだが、ワインを口にしてからは随分と捲し立てるような話し方をするようになったのだ。
「実は私、心に思ってる事の三割も喋ってないんですよ、つまり、まだまだ喋れる気がしますっ!」
──そこからだ、エルゼリアの暴走が始まったのは。
「実家は遠くてなかなか戻れませんし、入学してから卒業するまでずっとヴィオシュラが私にとって唯一の……居場所、だと思ってたんですよぉっ」
「でもミニヨが『エルゼリア、一緒にキュリクス行こうよ』って言ってくれた時、マジで泣こうと思ったんですよ!? いや、リーディアが居なかったら泣いてた! 侍女が控えてたから我慢したんですよ!」
「そういえばディスカッション会の時、ミニヨとラヴィーナと色を合わせるために、タイツ五足も持って来てたんですよ! あと、三つお揃いの髪留めも持ってきてたんです! 気づいてました!? ミニヨ、ラヴィーナ、気づいてましたぁ!?」
目を潤ませながら赤面して叫ぶエルゼリアを、ミニヨとラヴィーナが顔を見合わせて見守る。
「完全にキてるわね……」
「うん……でも、ちょっと可愛いかも」
しばらくエルゼリアが高笑いをしだすとエルゼリアは枕に顔をに突っ伏して足をバタバタさせたあと、ようやく静かになる。
「わたし……いつも二人と一緒で……うれしいんですぅ……」
涙を浮かべながら、寝息を立て始めたのだった。
ラヴィーナはワイン瓶をサイドボードに置くと脱力した声で言う。
「エルゼリアってやっぱり、溜め込むタイプだったのね……」
ミニヨはすぅすぅと気持ちよく寝るエルゼリアに毛布を掛けながら頭を撫でて言った。
「でも、たまにはこういう夜も……悪くないよね?」
三人はそれぞれのベッドに入ると、蝋燭の灯を吹き消した。ラヴィーナは枕をぎゅっと抱えたまま、ミニヨは鼻先まで毛布を掛け、エルゼリアは「……もう一杯……」と寝言を漏らす。
それを聞いてミニヨとラヴィーナは小さく笑い合うと、夜は静かに深まっていった。
*
一方、203号室。
この部屋は201号室よりやや広く、ベッドが四台と一人掛けのソファが一つ置かれている。表通りから離れた部屋なので夜市の喧噪は届かない静かな部屋だった。シュラウディアはすでに寝間着姿でベッドに座り、買ったばかりの『お酒の化粧水』を顔にぺたぺた塗り込んでいた。セーニャは手荷物のトートバッグから翌朝のための衣類を引っ張り出し、リーディアはベッドの上で翌日の旅程を確認する。
「……さて、侍女の諸君。無事に国境通過したってご褒美だ、一杯どうかしら?」
そう言ってダナスは受付の老女から買ったヴィルフェシス産のワインを取り出した。老女が美味しく飲めるぐらいに冷やしておいたのだろう、アンフォラ瓶がわずかに汗をかいていた。ダナスは栓を抜くときゅぽんと乾いた音を立てる。
「わー、私、飲みますー! 一口だけっ!」
意外な事に、普段は真面目なシュラウディアが最初に飛びついたのだ。ダナスから黄金色のワインが入ったグラスを受け取ると、なんと一気に飲み干した。
「いやぁ、かっこいい飲みっぷり! ささ、もう一杯! ──そこの侍女さんたちもいかがかな?」
にこやかにアンフォラ瓶を差し出すダナスだが、セーニャとリーディアは飲んで明日に響くと仕事に障ると伝えて丁寧に固辞した。「なぁんだ、仕方ないわね」と言うとダナスはシュラウディアに向き直り、彼女の空いたグラスにワインを一杯注ぎ込む。
「話には聞いてたんですが、ヴィルフェシスの氷酒って本当に甘くて飲みやすいんですね」
にこやかに話すシュラウディアに、ダナスはヴィルフェシス独自の製造法を事細かに説明した。
普段なら会釈をする角度や目線の位置、話し方や仕草の一つですらきっちりしているシュラウディアだが、片膝立ててダナスの講義を静かに聞いていた。普段の真面目な彼女とは違う、等身大の少女然とした姿であった。
気が付けばアンフォラ瓶は二本も空いている。「ほんの一口のはずが……」「かなりハイペースね」とセーニャとリーディアが呟いた時にはシュラウディアの顔や耳は真っ赤に染め上がっていた。
「ねぇ! セーニャってキュリクスに戻ったら噂の文官長殿に告るの!?」
突然のシュラウディアの暴投に、セーニャの眉がぴくりと動く。突然の事だったが、リーディアはニコニコとセーニャの顔を覗き込み、ダナスは手帳を広げてセーニャやシュラウディアの様子を静かに見守る事にしたようだ。
「ねぇ! 無視しないでよ!? どーなの?」
「そんな、はしたない事、できません」
セーニャはシュラウディアやリーディアの目を逸らすかのように顔を背け、絞り出すように言った。
「ほぉ! 手編みのカーディガンは送れるのに、愛の言葉を送れないのはどうしてでしょう?」
シュラウディアはベッドに腰掛けるセーニャの横にどすんと座ると、彼女の肩に手を回す。セーニャは小声で「やめろ」と呟き手を払いのけるが、シュラウディアはぐいぐい肩を寄せて絡んでくる。
「……シュラウディアって暴走するタイプだったんですね」
リーディアが小声でつぶやいたその瞬間、勢いよく立ち上がったシュラウディアが彼女に詰め寄った。
「リーディア! あんたセーニャの恋路を肴にして楽しんでるでしょ!? あなたの主人、エルゼリア様も楽しんでると感じてたけど、主従揃って楽しんでるなんていい趣味ね!」
「えー、まぁ……楽しんでますね」
リーディアはにこにこと微笑みながら否定しなかった。それを見てシュラウディアはリーディアの横にどすんと座ると、先ほどのセーニャのように肩を寄せて絡む。しかしセーニャのように手を払いのけようとせずに、リーディアは右手を回し込んでシュラウディアの脇腹をくすぐりだしたのだ。
「ちょ、おまっ! やめてよくすぐったい」
「酔っぱらってても相変わらず脇腹は弱いんですね」
シュラウディアはグラスに入ったワインを零すまいと一気に飲み干すと、「やったなぁ!」と言ってリーディアを押し倒した。そしてお互い脇腹をくすぐりだす。
「ねぇセーニャ、私たちは何を見せつけられてるんだ?」
「キャットファイト……ですかね?」
ダナスは手帳にペンを走らせている。「さっきから何を書いてるんですか」と聞くセーニャにダナスは「今まであなた達がしゃべってた事、全部よ」と恐ろしい事を言い放ったのだ。
「お願いです、全部消してください」
「これもフィールドワークの一環だと思って諦めなさい」
リーディアとシュラウディアのくすぐり合いも、シラフで軍属のリーディアに軍配が上がる。笑い過ぎてぐったりするシュラウディアに「早く寝なさい」とリーディアは声を掛けた。
「いいえ! セーニャ推し! 恋路応援団! いま結成します!」
そう言うとシュラウディアは寝間着や下着をぽんぽん脱ぎだすと、あられのない姿で「水平思考、垂直理論!」と訳の分からない事を叫びながらベッドの上で踊りだしたのだ。こうなれば三人唖然とするしかない。セーニャは「やめろ」と小声でつぶやき、リーディアは「困った子ね」とためを付く。
「……さぁお嬢さん、ここで一旦止めとこうか」
さすがにダナスが止めに入ろうと立ち上がるが──
「えぇええ!? 教授先生、ぜんっぜんお酒減ってませんぜぇ!? 私らの事ばっか観察してないで飲んでくださいよぉ!」
言われたダナスが一瞬言葉に詰まり、そして吹き出した。
しかし長い旅路で疲れがたまっていたのだろう。シュラウディアは突然、糸が切れたように、ばたんとベッドに崩れ落ちた。そしてリーディアのベッドで毛布をかぶってごろごろと転がりながら「セーニャは……告白しとけ……うにゃ……」と寝言を漏らしたのだった。本当に一瞬で寝落ちてしまった事に三人は唖然とするしかない。
「ねぇあんたら。──今夜の事は翌朝、シュラウディアに伝えたほうが良いと思う?」
ダナスは残りのワインを飲み干すと静かに告げた。
「いや、酔った時の事を醒めた時に伝え、お互い嫌な気持ちになるのは避けたいです。ですから忘れようと思います」
セーニャは静かにそう言ったが、その瞳には微かに怒りの色が宿っていた。普段は冷静な彼女だが、からかわれっぱなしでさすがに腹が立ったのだろう。言葉には出さずとも表情はわずかに強張っていた。
「まぁ楽しかったよね」
自分には大した被害が無かったせいか、リーディアはニコニコしながら静かに応えた。そして「恋路応援団」と小声で続けるとセーニャは「やめろ」と冷たく言い放ったのだった。
「二人とも疲れてるだろうから早く寝なさい。私はこの酔っ払いが心配だから見守っておくよ」
ダナスはそう言うと蝋燭をふっと吹き消すのだった。
──そして数十年経ったとしてもセーニャとリーディアの間では「203号室の嵐」と呼ばれ、記憶に刻まれるのだった。
*
翌朝。
街中からは焼きたてパンの香ばしい匂いが漂い、宿の前では鳩の鳴き声が響いていた。ちょうど二階の廊下で201号室と203号室の面々が鉢合わせになる。
ミニヨ、ラヴィーナ、エルゼリアの三人はすっきりとした顔色で制服姿もぴしりと決まっている。
「──夕べは楽しそうでしたね」
ラヴィーナがさらりと笑顔で声をかけると、向かいに並ぶ侍女部屋組──セーニャ、リーディア、そしてシュラウディアとダナスの四人──は、揃って微妙な表情を浮かべたのだった。
セーニャは少し不機嫌そうに視線を逸らし、リーディアはどこか引きつった表情で、シュラウディアは眠たげな目でぼんやりと立っていた。唯一ダナスだけがいつも通り飄々とした笑みを浮かべている。
「ねぇ、夕べ……何があったんでしたっけ?」
眠気混じりの声でそう尋ねたシュラウディアに、セーニャとリーディアは顔を見合わせ、ほぼ同時に声を出した。
「色々楽しかったですよ」
淡々と、けれど妙に含みのある声だった。
「詮索は……やめておきなさい」
ラヴィーナが静かに呟くと、ミニヨとエルゼリアもそれに頷いた。一つ挟んだ201号室にもシュラウディアの元気な声は聞こえていたのだ。
「えぇ。酔ってた時の事はあれこれ言わないもんですよ」
ミニヨは微笑みながらそう言うと、静かに階段を下っていった。
一階の受付では老女が「またのお越しを」とやわらかな笑顔で送り出してくれた。他に宿泊客が居なかったのだろう、夕べの騒ぎについては何も言わなかった。支度を整えた一行は荷をまとめて幌馬車に乗せる。ひんやりとした朝の風が街のあちこちを揺らしていた。
「ヴィルフェシス、いい街だったわねぇ」
馬車に荷を積み終えてふと振り返ったダナスは、街並みを見上げて呟いた。風に流されるようにその声は消えたのだが、セーニャの不機嫌はしばらく消えなかったという。
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