134話 武辺者の侍従、帰郷する・4
いくつかの村を過ぎ、日が中天を過ぎたころ。幌馬車は砂利混じりの土道を抜けて整然と敷き詰められた石畳の道へと進む。やがてシェーリング公国の旗が風にはためく国境検問所が姿を現した。
山の斜面に沿って建てられたその検問所は石造りの楼門と簡素な詰所で構成されている。装飾は最小限であり、実用本位の施設といった趣で兵士の数も十名ほどと控えめだ。兵たちのその表情は緊張が漂っており、それを感じ取った幌馬車の面々も無言で身を正していた。
「そろそろ国境審査です、このバインダーに旅券と一式書類を挟んでお待ちくださいね」
前をゆっくり走る馬車に併せて徐行する馬車に、穏やかな口調の若い兵士がバインダーを差し出して来た。それを受け取ったミニヨは革製のバインダーに全員の旅券と申請書類を整えて挟む。しばらくして馬車が停まると別の若い兵士が「では全員、下車お願いしますね」と丁寧に伝えると、一同は順に地に足をつける。
やがて幌馬車の前に中年の審査官が姿を現した。濃赤色の制服に黒の詰襟、金の襟章と肩章がひときわ目を引く威厳ある佇まいの男だった。鍛え抜かれた体格は制服の上からでも一目でわかり、現役軍人としての風格を漂わせている。審査官が敬礼するとセーニャとリーディアが即座に答礼した。その所作に審査官は目を細め、口元に小さな笑みを浮かべた。
「ほう、そちらは武闘メイドさんだったか」
軍属として訓練を受けた者は上官に対して必ず敬礼するよう教え込まれる。それだけでなく敬礼を受けた際には正しく答礼しなければならないという規律も徹底される。そのためセーニャとリーディアはごく自然に、反射的に答礼を返していたのだ。審査官は二人があまりにも見事な答礼をしてきたので軍属であるとすぐに見抜いたのだ。
「こちらが乗員乗客全員分の書類です」
ミニヨから差し出された書類を審査官はにこやかに受け取り、旅券と書類を丁寧に確認する。リーディアとセーニャに対しては軍属認識章を、御者には運送業ギルド発行の認識票を念入りに確認すると、とある一枚の文書と幌馬車に掲げられた札に目を止める。
「……“特別領事”? お嬢さんがキュリクスの?」
「はい。ミニヨ・ヴィンターガルテン、ヴィオシュラ駐在のキュリクス特別領事です」
ミニヨの落ち着いた返答に、審査官は納得したように頷いた。
「確かにシェーリング公国の印璽もある。通行者は……八名と、猫一匹」
首を傾げる審査官に、ミニヨが微笑みを浮かべながらシュラウディアの腕の中に納まる彼女の顎下に手をやった。
「追加分の出国申請書に猫の申請書があるはずですが」
「いやいや。現在確認できるのは七名だが?」
一同が顔を見合わせて戸惑っている。あれ、誰かが足りないぞ──
「へっくし! あー、外の空気って最高……あれ、ここどこだっけ?」
幌馬車から伸びをしながらダナスが姿を現した。どうやら眠りこけてた彼女を皆んなで忘れていたようだ。審査官は彼女を見て口元を緩めると、軽く頷いた。
「──以上八名と一匹。問題なし、ですな。特別領事に王族、子爵家御令嬢。女学院の教授先生に護衛と武闘メイド、そして猫……。いやはや、華やかなですな。――出国を許可します、どうぞご安全に」
旅券に判を押すと審査官は腰の白旗を取り出して振る。奥で手動ゲートがゆっくりと開いた。
「ありがとうございます」
ミニヨが深く一礼し、一同は再び馬車に乗り込んだ。セーニャとリーディアは無言で周囲に目を配り、警戒を怠らない。御者も御者席に腰を下ろし、全員の乗車を確認すると二人は息を合わせたように審査官へ敬礼した。審査官はわずかに目を細め、静かに答礼を返す。
「では、良き旅路を」
審査官は半ば冗談めかして言い、スタンプを押した旅券をセーニャに返却した。幌馬車は静かに再び動き出す。彼女らが次に進む先は、辺境の“迷宮都市”ヴィルフェシスである──。
*
シェーリング公国の国境を過ぎ、三刻ほど針葉樹林の中の街道を抜けた先に"迷宮都市"ヴィルフェシスが唐突に現れる。
城壁もなければ門もない。針葉樹林を縫うようにして石畳の街道が続き、気がつけば都市の中へと入り込んでいる。市街は林を切り開くのではなく、あたかも木々と共存するように建てられており、赤褐色の煉瓦屋根と石造りの建物が針葉樹の間に点在していた。どこか浮世離れした幻想的な雰囲気を讃えつつも、通りを行き交う旅人や商人、冒険者の顔には和やかさがあり、“迷宮都市”の名に反して穏やかな空気が流れていた。
四つ辻には猫の石像が必ず鎮座しており、この街の地下にある迷宮の“守り神”として崇められているらしい。街中には猫にまつわる装飾や雑貨があふれ、石像の足元には小さな花や魚の干物が供えられているものもあった。
「なんか……迷宮都市というより、猫の街って感じですね」
馬車から見える街並みを見ながらシュラウディアがつぶやいた。建物の屋根や塀の上には猫たちが日向ぼっこをしており、まるで街全体が彼らの縄張りのようである。
南北に貫く街道から路地へと足を踏み入れると、木々と建物を避けるかのように分かれ道が出てくるのだ。まるで迷路のようである。
「ここ、地図があっても迷いそうですわ……」
ラヴィーナは心細げに辺りを見渡しながら呟いた。しかし幌馬車は躊躇いもなくさらに奥へ奥へと進んでゆく。
「宿に言えばこの街の地図は貰えるはずですよ――分かれ道には番号が必ず振ってあるんで、それを頼りに歩けば迷子にはならんと思います」
御者はラヴィーナに振り返るとそう言った。三又路に差し掛かると道そばの石に大きく『東八条-65丁三叉』と書かれていた。つまり地図とこの石板を辿ればどこにいるかが判るようだ。
再び大通りに入ると陶器を並べた屋台が多く並ぶ。特に目を引くのは赤褐色の素焼き瓶──この地の名産アンフォラだ。中には猫の形を模した可愛らしいものまであり、観光客の視線を集めている。猫好きな二人、ラヴィーナやシュラウディアが欲しそうな顔をして眺めていた。
ある酒屋のショーウィンドウには『窯元・サルヴィリナ』と銘打たれた素朴な素焼き瓶が並ぶ。そこには『お酒で造った化粧水、販売中』と手描きのポップが貼られている。
「この“サルヴィリナ”って、クラーレさんのご実家ですよ」
セーニャがミニヨの肩越しに指差した。すると幌馬車の皆んながその差した方向を見る。
「へぇ、すごい可愛い! あとでみんなで買いに行きましょうよ」
ミニヨが目を輝かせて言った。ラヴィーナもエルゼリアも良いねと笑顔で呟いた。
幌馬車はゆっくりと大通りを下りながら市街南東にある宿屋へと向かう。宿の名前は《猫の目亭》──ヴィオシュラ女学院でこの宿を予約すると割引になるのであらかじめ予約しておいたのだ。
再びいくつかの丁字路や三叉路を曲がりくねった先で幌馬車は静かに停車した。目の前に現れたのは赤褐色の煉瓦壁と針葉樹の梁で構成された、温もりある三角屋根の建物だった。風雨に耐えた樫材の扉には、琥珀と蒼色のガラスをはめ込んだ猫の目のような看板が埋め込まれており、夕焼けを浴びてこちらをじっと見つめているような不思議な存在感を放っている。建物の前には素焼きの猫の置物が何匹も並び、それぞれに「迎え猫」「見張り猫」「ぐうたら猫」といった札が下がっていて、どれも個性的で愛嬌たっぷりだった。
御者は「では朝、お迎えに上がりますね」と一礼し、幌馬車に乗ってその場を後にした。彼は運送業ギルドの宿舎と馬房が安価で使えるため、そちらに泊まるという。今回、これほど大型の貸切幌馬車を安く利用できたのは、ちょうどヴィルフェシス宛ての貨物輸送があり、その便にミニヨたちを乗せる「貨客混載便」となっていたためだった。――なかなか強かな運送業ギルドである。
皆んなで中に入ると、猫を抱きながら受付の老女が奥からふらりと出てきた。ミニヨが学院から貰った予約票を差し出すと老女は宿帳を確認する。
「ああ、ヴィオシュラの女学生ご一行ね。――はい、これが部屋の鍵。猫たちは放っておいて構わないから」
あまりにもあっさりとした対応だった。鍵を二つ差し出すと、老女は抱いてた猫をゆっくり床に置いて奥へと引っ込んでいった。シュラウディアの腕の中にいたシュールトゥはというと、するりと床に飛び降りると老女が抱いてた猫と外へ飛んで行く。
部屋番号を見ると二階らしい、一行は目の前の階段を上っていく。三階にも部屋はあるらしく階段は上へと続いていた。二階に上がるとダナスを除く少女たちの表情が変わる。ミニヨは鍵を二つ前に突き出すとニヤリと笑った。
「それじゃあグー・パーで分かれましょう? ――ダナス先生も一緒にお願いしますね?」
ミニヨがそう言うや、ダナスを含む少女たちは車座となって握りこぶしを前に突き出した。
「グー・パーで組み作ろッ! ろッ!」
何度かの逡巡の後、グーを出した少女たちは喜びに満ち、パーを出した少女たちは項垂れるのだった。
「ちょ、ちょっと侍女三人衆! 私がパーを出しただけで、どうして全員そんな顔になるのよ!?」
セーニャ、リーディア、シュラウディアがパーを出したためにダナスと一緒の部屋となったのだった。
「ごめんねセーニャ♪」
「リーディア、大人の恋愛についてダナス先生からの講義を受けてきなさい」
「シュラウディアーーぷっ!」
「ラヴィーナ様! 笑うなァッ!」
主人たちは余程嬉しかったのか、くすくす笑いながら201号室へと入って行った。ラヴィーナが「良い夢を〜」と振り返って手を振ったのが、余計に腹立たしい。
「さて侍女さんたちよ。成人迎えてるんなら一杯ぐらいは付き合ってくれるよね?」
三人の肩をがばりと抱き着きながらダナスは笑顔で言う。主人たちにとっては良い夜を、侍女たちにとっては地獄のような夜を迎えるのであった。