131話 武辺者の侍従、帰郷する・1
シェーリング公国ヴィオシュラ。
寮の二階、ミニヨとセーニャの部屋には朝の静けさが満ちていた。 光沢ある板床の上に敷かれた絨毯、その上に丸いティーテーブル。壁際の窓から差し込む朝日がティーカップの縁を柔らかく照らしていた。腰かけていたのはキュリクス出身の遊学生、ミニヨ・ヴィンターガルテン。そして彼女の護衛兼従者のセーニャである。
女学生の朝と言えば慌ただしいのが相場だ。髪型がまとまらない、メイクのノリが悪い、レポートと教科書はどこ置いたと大騒ぎだろう。しかし今日は休日、ミニヨはまだ湯気の立つお茶をふうっと冷ましながら、「昨日ラヴィーナから頂いたハーブティ、美味しいね」とぽつり。彼女の実家から届いたカミツレ茶を分けてもらったのだ。果実味ある甘い香りのせいか、休みのせいか、静かで平和の朝を迎えていた。
「夕べ飲んで寝たせいか、目覚めがすっきりでしたよ」
とセーニャが静かに言うが、実のところ、彼女は寝台に入るやいなや寝息を立てるのだから、その効果のほどはやや疑わしい。それでも、そんなやりとりもまた、ミニヨにとっては楽しい朝のひとコマだった。
そこへコツコツという扉をノックする者がいる。セーニャが立ち、応対した。寮母さんだった。
「ミニヨ様、ご来客です。領主館のレニエ様って文官様が——」
セーニャは「承知しました、準備出来次第ラウンジに伺います」と応える。
「さてミニヨ様。文官殿がいらっしゃいましたから最低限お化粧ぐらいはして参りましょう」
「なんの用かしらね」
訝しむミニヨは静かにパウダールームへと入っていく。セーニャは質素な普段着を数着クローゼットから引っ張り出すとベッドの上に並べた。
ミニヨ達が一階ラウンジへ降りて行った時、そこに座っていたのは若くて少しだけ頼りなさげな文官だった。濃紺の文官服に書類の詰まった鞄を持っている。
「初めましてミニヨ嬢、セーニャ殿。――レニエ・フルヴァンと申します。キュリクス領主館から通達をお持ちするため伺いました」
セーニャは表情を崩さないままうなずき、ミニヨは一瞬戸惑ったように身を正す。「通達?」
「領主ヴァルトア卿よりミニヨ様を“キュリクス領特別領事”に任命するとのことです」
「……え?」
文書を広げながら、レニエは緊張気味に続ける。 「ヴィオシュラの各種学院に在籍するキュリクス出身の学生たちに対する支援窓口として、今後はミニヨ様がこの地で窓口をするよう、ヴァルトア卿——すなわちご尊父様の命でございます」
その声を聞きながら、ミニヨの表情が少しずつ固まっていく。
「え、ええと……それって、何をすればいいんですか?」
「キュリクス民に対して住民票の発行や緊急帰郷時の書類作成、奨学金や年金の窓口業務も含みます」
「そ、それって……」
セーニャがすかさず口を挟む。 「24時間営業ですか?」
「24時間働くつもりですか!?」と、レニエの方が思わず反応してしまい、すぐさま「あ、いえ、もちろん冗談ではなく……冗談ですか!?」と混乱する。
「冗談ですよ、もぉ」とセーニャが言う。
「領主館でも定時勤務なんですから、ミニヨ様には無理はお願いできませんよ」
そんな三人のやりとりを、ラウンジを遠巻きに見ていた他のキュリクス出身の学生たちは興味津々に見守っていた。セーニャが状況を補足するように言う。
「従来は帰郷するにも、領主館に速達で出入国審査許諾書を取り寄せなければならず、国境通過も面倒でした。今後は、ミニヨ様の部屋で書類に印を押すだけで許可が下りるようになります」
「ってことは、もし家族に何かあったとしても速達郵便でやり取りする必要なくシェーリング公国から出国できるって事ですよね」
「それがなくなるのは大きいわ」
誰かが言う。というのも少し前、祖父の危篤の手紙を受け取った学生が慌てて出国しようとしたところ、国境警備兵に止められたのだ。どれだけ理由を説明しても『それはそちらの都合でしょ』と聞く耳をもたずに出国を拒否された。その学生は急ぎ出身地の領主館へ速達で申請書類を送付し、なんとか間に合ったのだが、その件を受けて領主館側はシェーリング当局に正式抗議した。しかし公国側は謝罪するどころか『正当な業務の範囲内だった』と突っぱねたため、これを機に各地域の領主がヴィオシュラの街に特別領事館を設置し始めているのだという。
セーニャが淡々と締める。「要するに、うちの嬢様がお役人様になるということですか?」
「えぇ、その通りです。ここの寮母さんにも、セーニャ様にもお願いすることになります」
レニエは深々と頭を下げると、封筒の中から三枚の羊皮紙を取り出して広げた。
「こちら、ミニヨ様、セーニャ様、そして寮母様の任命書です」
「えぇー!? 私もですか!?」と寮母が思わず声を上げる。
ラウンジにいた学生たちからは「近くに役所が出来て良かったわねぇ!」と歓声が上がり、茶化すような笑いが広がった。
ミニヨはその輪の中で肩を落とし、呟くように言った。
「私、事務仕事なんて向いてないよぉ……」
「それ言ったら、私が今まで書いた書類って始末書ぐらいですよぉ? メイド隊に居たら事務仕事なんて、隊長か副長ぐらいしかやりませんし……」
セーニャもハァとため息をつく。
その日の午後。寮の一角には新たに掲げられた紙が一枚、揺れていた。
『キュリクス領 特別領事室(申請受付:午後2時〜5時)』
*
授業が終わった初夏の午後。
ヴィオシュラ女学院の中庭は日差しが和らぎ、紅茶と焼き菓子の香りがふわりと漂っていた。
白い天幕の下、小さなティーセットを囲んで腰掛けているのはミニヨ・ヴィンターガルテン、ラヴィーナ・パルミエ、そしてエルゼリア・ラミルフォードの三人の女学生。
その近くのベンチには三人の従者——セーニャ、シュラウディア、リーディア——が並んで座り、編み物に夢中になっていた。初心者のシュラウディアは眉をひそめながらも、一目一目、真剣な様子で鉤針を動かしている。隣でリーディアが落ち着いた手つきで指導し、セーニャは時折アドバイスを挟みながら、自分の作品にも目を落としていた。三人はお揃いのカーディガンを羽織り、今は亜麻のクラッチバッグを編んでいる。
「……あの三人、なんだか微笑ましいわね」
ミニヨがそうつぶやくと、ラヴィーナも「うちのシュラウディアが、あんな顔して集中するなんて、珍しいのよ」と笑い、エルゼリアは「リーディアなんて寮に戻っても頑張ってるわよ」とお茶を口に運んだ。初夏なのに高地のヴィオシュラは比較的涼しく、昼間からでも温かいお茶は好んで飲まれる。
ふと、ラヴィーナがカップを置き、話題を変える。
「ところで、夏休みはどうするの?」
後期試験も無事に終わり、最高学年は卒業式やプロムを終えて引っ越し準備に慌ただしい。在校生は比較的長い休みに入るのだが、その休みをどう過ごすか? これが最近の彼女らの話題である。
エルゼリアが少し目を伏せて答えた。
「私はここに残るつもり……実家が少し遠いですし、きっと暑いでしょうから」
「私も片道一週間掛かりますからね、帰るのは控えようかな」
ラヴィーナは再びカップを持つと、ふぅとため息を付いてお茶を啜る。エルゼリアもラヴィーナも、ヴィオシュラがあるシェーリング公国から随分と離れた南国出身なので帰省には躊躇いがあるようだ。
「私は一度、実家に戻ってみようかな」 ミニヨはカップを置いて、少し目を細めた。 「定期的に届く手紙を読んでると、ずいぶんと街が発展したみたいで」
父ヴァルトアと共にキュリクスに赴任して半年も経たず、彼女はこのヴィオシュラへ留学してきた。今どうなっているのか――それを見てみたいという気持ちが、彼女の中にあったのだ。――それに、セーニャの想い人、『文官長』に会わせてあげるのも、主人としてのささやかな親心……のつもり。
そこへどこからともなく間延びした鼻歌が聞こえてきた。三人が振り返れば学院の錬金生成学の若き教授、ダナスがのんびりとした足取りで立ち止まっていた。
「ふむふむ、夏休みの話かな? じゃあ全員でキュリクスに行けばいいじゃない、私も行くよ!」
ダナスはそう言って、当たり前のように空いている椅子に腰を下ろす。三人の少女たちの間に驚きが広がる、ミニヨが苦笑しながら返した。
「あの、先生、また唐突ですね」
ラヴィーナが肩をすくめながら「先生らしいですわ」と笑い、エルゼリアも困ったように小さく笑った。けれどダナスはお構いなしに話を続ける。
「私ね、昔っからキュリクスの錬金術ギルドが出してる定期論文が気になっててさ、せっかくだから著作者に会いたいなと思ってたんだよね」
「論文ですか?」
「うんうん。昔から好きだったんだよ、“失敗論文シリーズ”ってやつ。知ってる?」
「あ、それ、ひょっとして――」
「たとえば『ヨーグルト作ろうとしたらチーズになった』とか『甘味薬を作ったら全く味のない液体が出来た』とか、失敗の原因をきちんと考察してるの。錬金術なんて思い当たる手順は総当たりって言われるけど、失敗論文に掲載されてるのを除外していけば手数は減るし、それよりも反省文が面白くてさ。ああいう論文こそ学問の宝だと思うんだよね!」
「えっと、先生、それは……誉めてます?」
ミニヨが苦笑まじりに聞くと、ダナスは満面の笑みでうなずいた。
「もちろん! 私はあのレオダム師の論文が大好きでさ!」
その名を聞いて、ミニヨは少し驚いたように目を瞬かせた。レオダムと言えば街で知らぬ者はいない錬金術ギルドの元・ギルド長である。キュリクスから定期的に届く手紙には『魔導エンジンを用いた鋤込車』や『人力旋盤』の機械開発には彼の活躍が見て取れる。そう言えば、キュリクスの錬金術ギルドの入口には『失敗論文集』が自由に閲覧できるよう置かれていたっけ——と、ミニヨはふと思い出した。
「……それじゃあ、先生も一緒に、全員でキュリクスに行くってことで決まりですね」
「えぇ! みんなでそのチーズを食べに行くわよ!」
ちなみに、ダナスの言うチーズは、レオダムの妻リーネスと街の名前を合わせて『リネシア・キュリジア』と呼ばれ、今ではその街の名物になっている。癖のある熟成チーズで、どこの飲み屋でも定番としてメニューに載っているほどだ。
味のない液体についても防腐作用の強さからジャムやピクルスに加えるとカビが生えにくいと好評だ。しかも原料は自然食材なので添加物に敏感な人にも受け入れられている。ただ、防腐作用が働く理由についてはいまいちよく判っていない。
エルゼリアは静かに問いかけた。
「でも……私が行って大丈夫? 迷惑じゃない?」
「なに言ってるのよ。領主である父もあなたたちを歓迎すると思うわ。……たぶんだけど」
「たぶん、ですか」
すかさずラヴィーナの冷静な突っ込みが入り、一同の笑いがはじけた。エルゼリアもラヴィーナも、キュリクスと直接的な政治的対立を抱える国の出身ではない。最近何かとちょっかいをかけてくるロバスティア王国出身だったとしても、領主館の面々は拒む事は無いだろうが。
「主さま。まさか護衛の心配ですか?」
先ほどまで編み物してたリーディアたちが四人を見つめていた。
「そのための私たちですよ」とセーニャが言う。
「ラヴィーナ様を守るぐらいに、エルゼリア様もお守りしますわよ」とシュラウディアが張り切って声を上げた。
「シェーリング公国からの出入国手続きは私が出来ますし、できうる限りの歓待はお約束しますわよ」
「……うん、じゃあ。ミニヨがそこまで言うなら、行ってみようかな」
エルゼリアは努めて笑顔で応えたのだった。
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