表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

120/248

120話 武辺者の家臣、井戸を掘る・1

 俺──オキサミルがまさか“飲み比べ”で負けるとは思ってもいなかった。


 誰がどのように俺のことを思っているかなんて興味は無い。だが酒に関してだけは自信がある。少なくとも学者や測量士としての名誉より“飲み屋で倒れない男”という称号の方が俺にとって重要な勲章だ。


 だがその夜は違った。相手が悪かった。


 名をランズというキュリクス図書館の司書長の男だ。見た目は痩せたネズミのようで、ひょろひょろとした指先、インクまみれの袖で図書館内を徘徊しては本を撫でまわしているような男だ。ご機嫌猫のプリスカなんて、ランズに酒を持っていくときは「シャー!」と言ってるもんな。そんなランズもノリが良い男だから「チュー!」って言ってやがる。こんな剽軽な男だが、肝臓だけは鋼だった。


 酔虎亭のカウンターでどちらが先に沈むかっていう勝負をした。なぜそんな勝負になったのかなんてもはや覚えてもいない。たぶん些細な言い合いだったと思う。「読みが浅い」とか「お前の推薦図書はしょっぱい」とか、酒の些事なんてそんなもんだ。で、亭主のダンさん立ち会いで女将のトトメさんがエールをどんどん運んでくる。俺もランズもぐいぐいと杯を空けていった。


 結果、俺は負けた。沈んだのは俺の方だった。


 で、どうやって自宅まで帰ったかは覚えていない。翌日目を覚ますと──サイドボードに──『目が覚めたらすぐ図書館に来い』とだけ書かれたメモが置いてあった。つまり、負けたペナルティを押し付けるのだろう。


 すっぽかしても良かったと思う。知らぬ存ぜぬを言い張れば、な。だけど酒の席で負けて、それをブッチするって趣味は俺には無い。しかしながら今日は安息日で休館日だ。図書館なんかやってるのか、痛む頭を押さえつつ行ってみる事にした。


「やぁ“負け犬”オッキさん」


 ランズも若干青い顔をしていたし、わずかに酒臭い息を吐き出していた。まぁ俺もこいつと一緒なんだろうな。しかし、痩せネズミから“負け犬”とはなかなかの言われようである。悔しいが言い返す術は持ち合わせてないので、「で、何すればいい」とぶっきらぼうに応えておいた。ランズはにやりと笑って言った。


「あぁ、"人喰い"禁書館の整理だよ」


 禁書館と言っても正式には“旧館倉庫”という。歴代の司書たちが“あとで整理しよう”と押し込んだ本や巻物が数百年分積み上がっている地獄の部屋。あまりに積まれすぎて本が雪崩を起こし、人一人埋まったことがあるとかないとか。以来「人を喰う禁書館」なんてあだ名がついたそうだ。


 ランズは相変わらず酒臭い息を吐きながら涼しげな顔で続ける。


「新しい蔵書館が出来たんでね、これを機に全部整理して詰め直したいんだ。──君、勝負に負けてたよね?」


「負けた負けたって繰り返すな、知ってるよ」


 ……だが、理不尽だ。


 ちなみに俺が勝った場合は“飲み代タダ”だったはずだ。あまりにも取引に釣り合いが取れていない。まさか、あいつ、最初から勝つつもりで俺を罠にかけたんじゃないだろうな。あと亭主のダンさんがノリノリだったよな。あいつらグルで俺をハメたんじゃねぇだろうな? だが酒の勝負で負けておいてあとからグジグジいうのは酒飲みの沽券に関わる、……たぶん。とりあえず言われた通り、禁書館の整理をすることにした。


 ともあれ俺は半日かけて、本の雪崩を避けながら丁寧にホコリを払いつつ仕分けをしてゆく。あちらは文学書、こちらは歴史書、こっちは哲学書と。そのうち奇妙な本に目が留まる。


 『古今井戸掘図解録集』──古センヴェリア語よりまだ古い、旧ヤルガン語で書かれた挿絵付きの“井戸掘り”の技術書らしい。あまりにもくだらなそうで酒の宛てになりそうだったから俺はそれを鞄に入れていた。そして本の仕分けの続きをし、ワゴンに詰めて新館へ何往復もする。


 その日の夜。いつものように酔虎亭の角の席に座っていつものエールをあおりながら、ふとその本の存在を思い出した。本当なら返すつもりで鞄に入れたのに、そのまま持って帰ってきてしまったのだ。二日酔いでぼんやりした頭だったし、作業で疲れていたのもあったから忘れたのだろう。とはいえどれだけ言い訳を繕っても『盗んだ』と言われたらそれまでだ。しかも今日はもう返しようがないし、ランズは来店していない。とりあえず、目的通り酒の宛てとして読むことにしよう。


 それが泥にまみれた奇跡の始まりになろうとは、この時の俺はまだ知らなかった。


 *


 禁書館から持ち出したその本の見た目はというと質感そこそこのいかにも古臭い羊皮紙で装丁されており、ページの隙間には乾いた砂粒や虫の死骸が挟まっていた。酒の宛てにするには些か食欲を減退させてしまうが、それでも俺はエールをもう一杯注文し、杯に残ったものを一気に飲んでページをめくる。酒が効いてきたのか二日酔いの俺の頭がようやく動き出す。


 最初の数ページは非常に読みにくい、旧ヤルガン語の独特の言い回しが並んでいた。やれやれと思いながらページを読み進めていくと──ふと目が止まる。


「……なんだこりゃ?」


 ページの中央に精密な線画で描かれた装置の図面。人の背丈を超える高さの櫓。その中心には竹のように節のある細長い管──掘鉄管と呼ばれるものらしい──がぶら下がっている。


 そこからさらにページをめくっていくと俺が禁書館でぺらぺらっと目に入った図解の項に到達した。その地面を掘ってゆく掘鉄管の構造がこと細かに図解されていた。しかも掘鉄管で地面を掘る際の上下運動には「ハネギ」というバネ状装置が使われており、そのバネの伸縮で地中へ打ち込む力を生み出しているらしい。図解では、櫓で人間がすることといえば地面に堀鉄管をまっすぐ打ち込むための補助をするだけのようである。


「重力と弾性を使って掘り進める、おもしれぇじゃねぇか……」


 俺は思わず姿勢を正し、鞄からメモ帳を取り出して構造や注釈を事細かに書き写す。蔵書物を勝手に持ち出したのは認めるが、公共物に書き込みをするほど俺の倫理観は壊れてはいない。ただ、この本すべての文章を書き写すには時間もメモ帳のページ数も足りないので要点だけをぎゅっと圧縮することにした。──まぁ必要があればランズに一杯奢ると言い、この本を正規の手続きで借りれば良い。


 それよりも井戸掘りといえばツルハシやスコップを使って落盤に怯えながら水脈まで掘り進めるのが常識だ。そのため新規の井戸を町の中で掘るのは技術的にいささか難しい。しかし水脈に届くまで深く掘り進めるとなれば時間も労力もかかってしまうため、個人所有の井戸なんかはそれだけで富の象徴だ。なおキュリクス領主館は街の最終防衛ラインでもあるので井戸はいくつかあるらしい。


 だがこの井戸掘技術は違う。合理的に、効率的に、しかも深く掘り進めるための知恵が詰まっている。どこかで誰かがこんな技術を使っていたのだろうから、こうやって丁寧な装丁本となってるはずだ。それなのにどうして今は使われてないのだ? 人魔大戦時代の技術だから忘れられたのか? ──いや、そんなのはどうでもいい。


 これは実用できる。


 エールが随分とぬるくなってきた頃、俺の目は完全にこの本に釘付けになっていた。


「……テンフィのやつ、こういうの好きそうだな」


 思わずつぶやいた自分の声に、隣席の客がちらりとこちらを見た。気にせず続きを読む。頭の中で構造が回り始め、使えそうな素材、再現する方法、必要な人手が次々と浮かぶ。


 ページの端には小さな文字でこう記されていた。


『この工法、百人の力を要さずとも、智と順を以て深きに至るとぞ言へり』


(百人分の力がなくとも、知恵と手順で深く掘れる――と、そう書いてあった)


「百人力を要せず、だってよ……ハッ、こいつぁ面白ぇ」


 思わず笑ってしまった俺を、プリスカが奥からにらんでくる。


「ちょっとオッキさん、飲み屋で勉強禁止だよ!」


「悪い悪い、猫ちゃん」


 エールを一口。そしてもう一口。


 ──これは試す価値があるな。どうせもうじき夏季休暇、一ヶ月ほどやることがない。工兵隊への測量実習訓練も、メリーナちゃんの発案で斥候隊と合同の"山籠り訓練"に変わったと聞く。なんか全員にバカンスをキッチリ味わせたいからとかなんとか。


 俺は本を汚すまいと鞄にそっと戻した。酒の宛てにはならなかったが、脳の宛てには十分すぎるほどだった。技術屋の血が久々に沸きたっていた。

ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。


現時点でも構いませんので、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価して頂けると嬉しいです!


お好きな★を入れてください。




よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ