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115話 武辺者の若き家臣、実家の危機 =後日談2=

 酔虎亭の朝は意外と早い。


 父ちゃんは市場へ食材を仕入れに出かけ、母ちゃんは掃除と開店準備に取りかかる。末妹のプリスカもメイクしてメイド服に着替え、三人とも一番鐘の鳴る前には家を出てしまう。プリスカの場合は領主館への出仕だが。


 他の家族──弟妹たちはもう家を離れている。二つ下の弟は随分前に家を出て、近く修行先から独立して酒場を開く予定らしい。四つ下の妹にはそろそろ三人目が生まれると聞く。六つ下の弟はこの前結婚したばかり。そんな中、オレはいい歳してるくせに──独り身だ。


 ベッドから起き、白シャツに濃紺のフレアスカートを履いて麻織のエプロンを締める。そして白のベレーコック帽を被る。――ダイニングに置かれてた果物を朝食代わりに一つ口に放り込むと階下の店舗へと向かった。そして裏口から店舗に入ると空気は昨夜のまま、煮詰めたスミミザクラの香りがまだ鼻をくすぐっていた。母ちゃんはというとテーブル代わりの空き樽を鼻歌まじりにホール隅へと器用に寄せ、楽しそうに軽やかなステップを踏みながらモップを掛けていた。


 母ちゃんは若い頃、踊り子志望だったらしい。だけど早々に夢を諦めて父ちゃんと結婚、今は酔虎亭の看板女将として酒場を取り仕切っている。けれど今でも踊るのは嫌いじゃないらしく、フロアの掃除が終われば空の樽をバー代わりにプリエやタンデュの練習を続けてる。


 ちなみにプリスカも昔は踊り子になりたがっていて、安眠館の末娘ロゼット・ラーデちゃんと踊りの腕を競い合ってたと聞く。そしてプリスカはエラールで有名な劇場『赤風車』へオーディションを受けに行ったとも聞いた。だけど何があったのか、あいつも踊り子の夢はあっさり捨てた。理由は聞いてないし、姉妹だけどそんな話をする仲でもない。年が離れすぎてるせいかプリスカの中でオレの事なんか『突然やってきた、なんか知らんが不機嫌なツラ下げてる叔母さん』くらいにしか見えてないだろうし、オレにとっても『顔がよく似た姪っ子』くらいの印象でしかない。


 ──そうだ、我が家は夢を捨てたヤツばかりなんだ。


 *


 厨房に入って、まずやることは洗い場を片付けることだった。昨夜洗い残した皿やカップを片付ける。幼い頃からよく手伝ってたから皿洗いは嫌いじゃない。早くたくさん洗えば父ちゃんがお小遣いで銅貨一枚くれたっけ。だけど今のキュリクスでは『洗剤』を使っての皿洗いが推奨されている。洗って綺麗に濯いで干す。ちょっと手間暇が増えたけど衛生管理のためらしい。まぁ衛生管理は酒造の基本だったから面倒くさいとは思わないけどさ。──あと、昨日焦げ付かせてしまった鉄鍋を念入りに磨くことにした。その鉄鍋を見て、昨夜の悔しい気持ちがまたじわりと込みあげてきた。


 昨夜、どうしても心のわだかまりが処理しきれなかった。そのあとぼんやりとしてしまい新たに作っていたサワーソースを焦げ付かせてしまったのだ。父ちゃんは『焼き場に入ったなら何があっても気を抜くなよ』と言いながら頭をガシガシ撫でていったが、きっとオレに呆れきってるのだろう。叱っても響かないヤツに何を言っても、時間の無駄だ。


 だけど焦げ付かせた鉄鍋をそのまま放置できる程オレの心は腐っていない。だから夕べ、営業が終わったあとつけ置きして厨房を後にしたのだ。


 * * *


 どれだけ磨いてたんだろうか。焦げ付かせた鉄鍋を綺麗に磨き上げたあと、厨房の壁にぶら下がる銅鍋一つ一つも磨くことにしたのだ。酢と塩を練って作った研磨剤で緑青を磨き落とし、こすり、洗う。根深い黒ずみには三日月粉と酢を付けて柔らかい鉄フェルトで優しく磨く。そして仕上げにひと洗いしてから乾拭き。くすんだ古鍋が赤銅色に輝くものに仕上げる事で心のもやもやが晴れそうだった。一つ一つ丁寧に扱い、磨き、拭く。


 そう言えば蒸留所のスチルポットに磨きを入れるのも好きだった。銅製のそれはオレにとっての誇りだったし、曇らせてはいけないとの工場長からの教えで火入れ前は必ず磨いてた。そして炊き終えた"もろみ"を取り出したあとのポットの底掃除も好きだった。焦げ付かせたら火酒が不味くなるし、炊き込みが足りなければ味も変わってしまう。だからのぞき窓でポットを見つめ、火落としした後のポット底を覗き込む瞬間はいつもどきどきだった。そして掃除するたびに『もう少し火加減を強くしてもいいかな、限界かな』と考えるのも好きだった。――あの瞬間だけは職人だったんだ。


「エミィ、客人だぞ」


 父ちゃんの声がホールから掛かる。いつのまにか夢中になっていて、気づけば三番鐘が鳴り響いていた。どうやら父ちゃん、市場から既に戻ってたらしい。


「……客人? ──ちょっと待ってて!」


 ちょうど磨いていた銅鍋を洗い場に置き、エプロンの裾で手のひらを拭く。すると父ちゃんが厨房にひょこりと顔を出した。


「寝癖は大丈夫だよな?」


 からかわれてる気もするけど、オレはエプロンを整えてから頭に手をやった。”職人”だった頃の癖でベレーコック帽が頭に乗っかったままだ。──やはり父ちゃん流のからかいだったみたい。


 私は厨房にかかってる姿見で一度自分を確認してからゆっくりとホールへと出た。


 ホールには車椅子の若い男とメイド服姿の背の高い女性が立っていた。キュリクス領文官長トマファ・フォーレン様、そして傍らの女性はメイド隊副長のマイリス・スレイツさんだった。トマファ様は時々来店してくれるし、マイリスさんは旦那さんのテンフィさんとしょっちゅう来店してくれる。というか領主ヴァルトア子爵様までお忍びでやってくる。──周りの酔客から『ヴァル卿』と呼ばれてるから全然忍べてはいないのだが。


「先触れも出さず急な来訪失礼致します、トマファ・フォーレンです」


 彼は丁寧に頭を下げた。公務で来てる領主館の文官長(お偉いさん)なのに、相変わらず腰の低い人だ。客として来てても異様に礼儀正しいし、時々甘いお菓子を差し入れてくれたりもする。あとプリスカがこの文官長に色目を使ってるのも知ってる、いいね青春。


「トマ公、今日はどうした?」


 父ちゃんはというと近くにあったスツールに片膝立てて座り、相変わらずの口調で訊く。こういう時、オレはどうすればいいんだ? とりあえず失礼がないように直立して父ちゃんの横に立った。母ちゃんはというと厨房でピクルス壺に手を突っ込んでいた。──糠漬けを出すつもりだろう。


「ヴィシニャク騒動ではティグレ一家の支援と協力、心より感謝申し上げます。ダンさん、本当にお世話になりました」


「なぁに、酒場ギルドとしちゃおもしろい肴だったってだけだ」


 父ちゃんはそう言うと、「まぁ食え」と言って母ちゃんが出してきた糠漬けを差し出した。「ありがとうございます」と言ってトマファ様もマイリスさんも目を細める。赤茄子とズッキーニの糠漬けは二人の好物だ。


「領主ヴァルトア卿より、薄謝と減税措置、そして通商関係の優遇など──褒章の目録をお預かりしております」


 そう言ってトマファは、マイリスから受け取った革袋と巻物をテーブル代わりの空樽にに並べた。父ちゃんが小さくうなる。


「……ほぉ、減税とな。酒場ギルドからそんな話はちらっと聞いてはいたが、ありがてぇな。──てか、ヴィシニャク作るのにあれだけコスト掛けてて減税なんかして財源大丈夫なんか?」


「えぇ問題ありません。ロバスティア王国から今回の手打ちとして幾分か頂いてますから」


 この若い文官長、只者ではないなと思った。さも涼しげに『頂いてますから』と言ってるが、その交渉は安楽なものではないってオレでも想像がつく。きっと交渉が決裂すれば戦火も辞さないぞって腹づもりでロバスティアの外交官をやりこめ、黙らせ、手打ち金をもぎ取ったのだろうからな。なんとなくだけどこの文官長、底冷えするほど恐ろしい。この男と結婚したいと友達が口走ったなら、是非に辞めておけとアドバイスするだろう。


「トマファ君」


 マイリスさんが笑顔で彼の肩を肘で軽くつつく。このマイリスさんは常に笑顔だ。領主館に手続きに行ったときも笑顔だったし、若いメイドたちを叱ってるときも笑顔だった。旦那さんと飲んでるときももちろん笑顔だ。そして、ちょっと前に市場を荒らしまわってたひったくり犯を取り押さえてた時も笑顔だった。そんなことをぼんやり考えてた時だった。


「──失礼。それとは別に、個人的なお願いがございます」


 トマファ様が少しだけ声を落として、オレを見た。突然の事で身体がびくんと跳ねたかもしれない。


「エミリア嬢──少々よろしいですか?」


「え、オレっすか……?」


 先程までの仕事の顔とは違いトマファ様の表情が柔和に変わった気がした。オレは慌ててかいた手汗をエプロンで拭う。そしてマイリスさんが革の鞄から一本の酒瓶を取り出す。──それを見た瞬間、オレは言葉を失った。濃紺色のガラス瓶、肩と瓶首の造形、焼き付けラベルの印字。それはリフエッツ蒸留所の火酒瓶だった。そして──オレが最後に手がけた銘柄だった。


「プリスカ君から“姉ちゃんが作った酒なんですよ”と言われ、頂いたんですよ」


 トマファ様は瓶をまるで宝物でも扱うようにそっと掲げ、言った。


「エラール近郊はワインを原料にした火酒を作る蒸留所が多いんですが、リフエッツさんは昔から大麦原料にこだわってるんですよね」


 そうだ。リフエッツ蒸留所は創業者のこだわりで大麦原料を使い、秘密の工程で発芽を促し、"もろみ"を拵えて銅製スチルポットで蒸留するのだ。しかしエラールの人達はワイン原料の火酒を好むため、リフエッツの酒は『変わり者の酒』とまで呼ばれている。ただ、エラールより東に行くと大麦原料の火酒を好む人も多いし、オレ自身もそっちの味が好きだった。だから学校を出てすぐ、ここで修行させてほしいと何度も工場長に頭を下げて頼み込み、雇ってもらったんだっけ。


「これをヴァルトア卿とマイリスさんと三人で頂きました。これをくれたプリスカ君が『チェイサーは軟水で15度ぐらい、これが一番美味しく味わえるんですよ』と熱く語ってました」


 その飲み方は父ちゃんのこだわりだ。チェイサーは冷たすぎてもぬるすぎても香りが立たない。かといって水ならなんでもいいってわけじゃない。飲み方もロックではない、トワイスアップでもない。ストレートをちびりとやってチェイサーを軽く呷る。その一口で香りがふわっと広がる──そういう飲み方を、父ちゃんは「香りの倍音が出るんだ」と言ってたっけ。


 トマファ殿が持ってるその酒には、父ちゃんのこだわりを込めた特別ブレンドだった。──ワインベースの火酒を好むエラールの市場評価はいまいち良くは無かったが。だけど工場長や一緒に汗をかいた班からは高評価だった。だけど経営者は非情だった。


「エミリア嬢の想いが籠もったこの火酒、素敵でした──で、一つ提案なのですが、今度僕とマイリスさんと三人でエンノーラ蒸留所へ遊びに行きませんか?」


「は?」


 トマファ殿の突然の申し出にオレは頓狂な声を上げてしまったのだった。

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