107話 武辺者、軍馬に命令を下す
初夏の午後。
領主館の裏手にある練兵所の厩舎。カディラは汗を拭いながら、スルホンが買った自慢の新馬――キンブネ号の手綱を持っていた。
「さーて今日の稽古も沐浴も終わったし、……今からブラッシングですぞ、暴れん坊さん」
耳をピクリと動かしたキンブネ号が鼻を鳴らし、葦毛の巨体をカディラの身体に擦り付ける。
カディラといえば、レニエ・フルヴァンの供回りとしてポルフィリ領山賊掃討戦に従軍した後、その実直な働きぶりが認められて領主館に作務師として採用された男だ。小柄で丸顔、気さくな性格で領主館の皆から親しまれている。もともと馬の扱いに長けており、現在は軍馬の世話や調教を引き受けている。
キュリクスへやってきた遊牧行商人が広場で開いた馬市で、ひときわ目を引く馬がいた。それがキンブネ号だ。筋肉質な体躯と鋭い眼光、荒々しい気迫を放ちながらも、風を切るような姿勢が妙に印象的だったという。この馬を見たスルホンが完全に一目惚れし、今までコツコツ溜め込んでいたお小遣いをはたいて購入したのだ。生産者である遊牧民からは「いい馬だけど、我が強め」と伝えられたという。
気が強めと評されたが、キンブネ号はカディラにはすっかり懐いているようで、彼の肩や胸元に鼻頭を何度も擦り付け、愛着を求めるような素振りを見せていた。カディラもその反応に優しく応え、首筋や額を撫でながら、「よしよし、今日もよく頑張ったな」と穏やかに声をかけてやる。彼が手綱を柱に繋ぐとキンブネ号は素直に従いじっと佇んだ。そしてカディラは首筋からゆっくりと豚毛ブラシで撫でてゆく。
大人しそうに見えるこのキンブネ号だが、実は容赦がないほど気性が荒い。この厩舎にやってきた頃のキンブネ号は誰にも手が付けられないほどの暴れ馬っぷりだったという。他の調教師も匙を投げるほどだったのだがカディラは蹴られても噛まれても彼に優しく接した結果、今の関係性が築けたのだ。
そこへ弾んだ声がやってきた。
「おおーっ、これが噂の軍馬かぁ! 立派じゃないの!」
姿を見せたのはアニリィ・ポルフィリ。快活な足取りでブラッシング中のキンブネ号に近づいてきた。
「アニリィ殿、お疲れ様でございます」
「やぁカディラ君! 今日もお馬さんの稽古お疲れさん!」
傅くカディラに手で制すると、アニリィはさらに一歩近づいてきた。
「へぇ、これがスルホン殿ご自慢のキンブネ号かぁ! 芦毛の馬体はやっぱり大きく見えるから良いよね」
「アニリィ殿……あまり近づきすぎますと――」
「大丈夫よ、大丈夫! 私、馬には慣れてるんだから――あらよっと!」
にこやかにキンブネ号に顔を寄せたその瞬間――
「かぷり♡」
「ぁがああああぁぁぁぁっっ!!」
腕を噛まれたのだった。
*
「……で、お前は全治二週間、しかも自宅療養と診断されたのか」
ヴァルトアは片眉を上げて問うた。執務机の前には、頭と腕に痛々しく包帯が巻かれたアニリィが腕を組み、ややふてくされている。
「えぇ、そうなんですよ! あんなクソ馬、とっとと馬刺しにしてやりましょうよ!」
「わたしはサクラ鍋が好きですっ!」と元気よく乗っかるプリスカ。
「俺の馬を勝手に食おうとすんな!」スルホンが即座に叫ぶ。
トマファの元に届けられた報告書がきっかけでヴァルトアの執務室にスルホンやクラーレたちも参加して急遽会議が行われていた。──今回の厩舎内騒動の事情説明会だ。
腕に噛みついたキンブネ号を引き離そうと必死にもがくアニリィに、キンブネ号はまるで遊んでいるかのように髪の毛をぐしゃぐしゃに噛み乱し、さらにそのまま前脚で横っ腹を小突いてきたという。アニリィが怒髪天を衝き「この馬刺し野郎ォ!」と叫んだ瞬間、キンブネ号は堂々と前脚を高く掲げて立ち上がり、舌をベロリと出して嘶いたという。彼なりの挑発だ。
騒ぎを聞きつけてほかの厩務員が駆けつけ、アニリィを止めなければ剣を抜いていたかもしれない――そんな報告書が文官長トマファに提出されたのだ。それだけではない。アニリィとキンブネ号の乱闘騒ぎは厩舎全体を混乱に陥れ、驚いた他の馬たちが一斉に嘶いて暴れ出し、馬房を蹴破るものまで出る始末。止めに入った厩務員や調教助手の数人が巻き込まれて怪我を負い、被害報告書は二枚に及んだという。要は厩舎から、アニリィに厳重注意を求める苦情が届いたのだ。
「ところで俺のキンブネ号は……無事だったのか?」
真剣に尋ねるスルホンに、トマファが淡々と応じる。
「えぇ、元気です。気性は荒いままですが」
なおカディラは暴れるキンブネ号をうまく宥めたため、被害はこの程度で収まったと書かれていた。
というのも、キンブネ号含めて厩舎内の軍馬たちには気性にやや難がある馬が多かったのだ。時期になると厩務員に”馬ッ気”を出す馬も居るし、新人調教助手を馬上から放り投げるのを楽しんでいる節がある馬もいる。そして機嫌が悪ければ噛んだり蹴ったりと乱暴を働く馬も居るのだ。
「僕の実家でも馬は何頭か繋養してますが、牡馬……オトコ馬はどうしてもヤンチャなところは見せますね」
トマファは静かに応えた。どうしても牝馬に比べたら牡馬は落ち着きがなく、特に繁殖期になると興奮しやすい傾向がある。しかし軍用馬として牝馬ばかりを揃えれば、今度は繁殖用に使える頭数が減ってしまい、生産に支障を来す。軍馬として安定した供給体制を築くには、牡馬と牝馬の使用バランスである。
「ところで、どうして牛や馬ってオスとかメスって言わないんですか? ノーム爺のとろにいるボルジアちゃんも”オンナ牛”って呼ばれてたし」
プリスカがお替りのお茶を出しながら訊いた。
「オスやメスってのは単なる生物学的な区分なのよ。牛や馬、緬羊といった経済動物は性別で役割や価値が大きく変わるから、もっと機能的な呼び方をするの。例えば馬なら、種馬の牡馬、繁殖に使われる牝馬ってね。他にも古センヴェリア語ではオトコ馬とオンナ馬でまったく別の語があったって話もあるわ。──ちょっと理屈っぽい説明だけど、まあ“昔からそう呼んでた”ってのが一番しっくりくるのよね」
クラーレがお茶請けの赤茄子の漬物をつまみながらそのように応えた。ちなみに競馬好きの界隈で「オス」なんて言う人は殆ど居ない。最初に先輩諸氏から「牡馬なッ!」と突っ込まれる鉄板ネタだ。
「ふぅん──だが、気性が荒いのはなんとか出来んもんなのか? 厩舎内の隊員の労災申請が時々あるからな」
ヴァルトアも赤茄子の糠漬けを一つ口に放り込んだ。彼も赤茄子の糠漬けは好みらしい。それを見てスルホンも一つ口に放り込む。
実は最近、キュリクスでは主婦の間で“麦の糠漬けブーム”が起きている。
というのも、夏場になると『足に力が入らない、ふらつく、倦怠感が酷い』という症状を訴える者が増えるのだ。それが悪化すると心臓の異状や意識障害となり、最悪死に至る病──いわゆる“脚気”が流行るのだ。
だが人々は経験則として「糠漬けは脚気によく効く」というのは知っているらしく、麦の外皮――いわゆる糠層と胚芽を塩や唐辛子、海藻と混ぜて作るぬか床に野菜を漬け込んで食べるのは時々ブームを起こすのだ。
しかし今年は『野菜配り歩き姉ちゃん』ことクラーレが糠漬けレシピ片手にあちこち配り回っていた為、家庭ごとに工夫を凝らした漬物づくりが流行しているのだ。中にはゆで卵やチーズを糠漬けにする猛者までいるという。
「それでしたら……」
クラーレがズッキーニの糠漬けをつまみながら声を上げた。「──去勢します?」
その一言で、部屋の空気が凍った。そして男性陣が揃って顔面蒼白となる。スルホンに至っては思わず股間に手を置いた。
「きょ、去勢、だと……?」
スルホンが震える声で返す。
「ねぇねぇ、去勢って何ですか?」
場の空気が一瞬で変わったことなど我関せず焉、プリスカが訊いた事で男性陣の空気が更に重くなった。
「睾丸、ようはキン○マ取っちゃうのよ!」
クラーレは真顔で言い放つ。それを聞いて、自らとんでもない質問をしたなとプリスカの表情が青くなる。
しかしクラーレはもともと農業や畜産の研究者だ、彼女にとって気にするような事ではない。
「外科手術で陰嚢を切開し、精管を結索して睾丸を摘出する。これだけでもオトコ馬のチャカつきは抑えられると聞きますよ」
彼女は去勢の優位性を説明するのだが、男性陣の空気はどんどんと重くなる。ヴァルトアやスルホンに至っては真っ青な顔になっていた。その横で静かに聞くアニリィは紅潮していたが。
「クラーレ様、表現があまりにも露骨です」
オリゴがついにたしなめに入った。
「え? でも畜産の世界では普通の処置ですけど?」
その後、厩舎内の牡馬でも気性にやや難ありの数頭は去勢手術をすることとなった。街の獣医にお願いすると意外と早く処置してもらえたそうだ。
しかしスルホンはキンブネ号の去勢を拒否。クラーレやカディラが説得に行っても聞く耳を持ってくれなかったため、キンブネ号の去勢はやらないという事で決着した。
──しかしある日。スルホンが出かけようとキンブネ号に跨ったところ、キンブネ号が嫌がり、スルホンを叩き落としたのだ。そしてギョロリとした目で歯をむき出しにしたキンブネ号が前脚を持ち上げて威嚇したのを見て、決断したという。
「大人しくなるならこいつのキ◯タマ、取ってくれ」
ちなみに馬のキン◯マは、成人男性の握りこぶし大の大きさである。あと、人間のキ◯タマは若干縦長だが、馬は横広である。──タマだけに豆知識、ナンチテ。
*
夕刻。
キュリクスの街の子ども達と領主軍の面々が集まり、太鼓や銅鑼、フライパンなどの鳴り物を手にしていた。
「それじゃあ始めようか! 虫送り!」
ウタリの掛け声と共に、たいまつに火が灯される。そのたいまつにはニガヨモギが巻きつけられており、もくもくと目に染みる煙を吐き出していた。
そして隊列は畑のあぜ道をゆっくり進み、鳴り物を響かせる。辺りには煙と太鼓の音が漂い、どこか神聖な空気が流れた。
クラーレの実験農園では殺虫剤や防除剤の研究は続けられていた。しかし発生がゼロになることはない。他の農園からも防除についての相談が入り、実験は試行錯誤の段階に入ったのだ。
それならば、と。
マイリスの生まれ故郷で行われていた風習――害虫を村の外へ送り出し、豊作を祈る虫送りを提案してきたのだ。
「昔はね、畑の神さまが見てるからって言って、子ども達が一番はりきったの」
ウタリもうなずく。「私の村でも似たような行事があったな。懐かしい」
たいまつの火が畑を照らし、光の波が麦穂に揺らめく。執務室でそれを見下ろしていたヴァルトアが、そっと問うた。
「……あれは何をしているのだね?」
「夜間行軍訓練を兼ねて、虫送りです」
オリゴがいつもの調子で答える。
「子どもと兵士の訓練を兼ねる、とは……なかなか賢いやり方だな」
ヴァルトアは、あぜ道を進む火の行列を見つめながら、静かにうなずいた。
「表立って夜間訓練をすれば王宮から目をつけられるかもしれません。ですから”子ども虫送りの隊列を護衛する”って名目で訓練してます」
華やかな音と歓声を上げながらあぜ道には光の筋がいくつも出来ていたという。
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・作者より
「キンブネ号」って?
英訳すると、「あぁアイツか」と判りますよ。
「虫送り」って?
地方によっては今もやってる初夏のお祭り。
中の人の町会では今週末に行われる予定です。