104話 武辺者の女家臣、農業改革に勤しむ・2
クラーレの元に錬金術ギルドからの配送便としていくつもの木箱が届いた。
そこに納められた大きな薬瓶には、赤と白の警告印がしっかりと刻まれている。「刺激性」「吸入注意」「火気厳禁」「原液使用不可」――どれも日常生活とは縁遠い文言ばかりである。人生でこんな薬瓶を目にすることは滅多にない。なお木箱にはドクロマークが描かれたラベルがあちこちに貼られていたため、領主館一階は衛兵隊によって一時人払いされたという。
領主館の文官執務室にまでわざわざ運び込んでくれた配送者は、「特別料金は頂いてますが――出来れば次回からはお断りしたいですね」と言って苦笑いしていた。見れば見るほど禍々しいラベルが目に付くのだから、配送者も腰が引けただろう。
「……まるで扱いは毒物ね」
クラーレが慎重に薬瓶の封を解き手で軽く仰いで匂いを確かめる。実は硫黄自身には匂いはない。しかし何かと化合すると独特な匂いを発するのだ。
「っぶあああっ!? 目ぇ、目にしみるぅ!!」
背後からプリスカの悲鳴が上がる。案の定、勝手に開封して中身を直接嗅いだらしい。しかもよりによってトウガラシ製剤である。
「プリスカ、勝手に開けちゃだめって言ったでしょ!」
「だってクラーレさんが“これは安全よ”って言ってたじゃない!」
「“瓶の中に入ってる限りは”って言ったわよ。──主語を省略しないで」
前日に届いた錬金術ギルドの報告書には、頼まれていた石灰硫黄合剤やトウガラシ抽出液などの調製は無事に完了、発送しましたと記されていた。熟練の調剤師たちがドラフトチャンバーのもとで調合し、毒ガスの発生も拡散も最小限に抑えた結果、ギルド内での死者はゼロだった――とのこと。
「ゼロだった“とのこと”って……なにその不穏な言い回し!」
プリスカが言うが、クラーレはあくまで冷静だった。二度三度と深呼吸してから静かに言った。
「誰も事故を起こしたくて起こすわけじゃないけど、化学実験って基本、事故と隣り合わせなのよ」
少し間をおいて、ふと思い出したように口を開く。
「前にいた農業研究所なんてさ、実験装置のいくつかが壊れてたのよ。でねほら、前に来たあいつ居たでしょ、――あの所長に何度報告しても『来期の予算が下りてから』ってのらりくらり……。それで仕方なく、同期が窓全開で農薬の研究してたの。──ある嵐の週末のことだったわ」
「やだやだ! 怖い話やだ!」
「……月曜の朝、研究室に戻った彼の悲鳴が廊下中に響いたわ。薬品棚は倒れ、床一面に広がった薬液。壁には黒い染み、天井からは水が滴り……。書きかけの実験ノートも、貴重な標本も、全部、ぐちゃぐちゃ。まるで災厄が駆け抜けたみたいだったわ」
「え、それって何が原因だったんですか……?」
「窓を閉め忘れたのよ、台風が来てたのにね。ほんの些細なミスでも化学では地獄の入口なのよ」
「――え、それ、ただのポカミスじゃない?」
「ま、ほんの些細なミスでも大事故になるのが化学事故なんですよ」
執務室に車椅子の青年――トマファがちょうど戻ってきたようだ。禍々しい木箱に貼られたマニフェスト伝票を眺めていた。
「手順を逆にしただけで大爆発ってのもありましたね。――濃酸を希釈しようと水を入れて大爆発とか。本来なら“水のなかに濃酸を足して希釈”なんですが」
「え、えぇ? どっちが先かなんて忘れてしまいません? てか、なんで大爆発なんですか?」
「僕の化学知識は常識の最低限ですから、理系畑のクラーレ殿が詳しいんじゃないかな? ね?」
突然に話を振られ、クラーレはびくりと肩をすくめた。あまりにも不意打ちだったのと、相手がトマファだったからか――心臓が跳ねるのを必死でごまかしながら、どぎまぎと口を開く。
「あ、はい。水と濃酸との比重で考えると分かりやすいと思うの。濃硫酸は水よりもずっと重いから、水の中に濃酸を少しずつ入れれば、濃酸は下に沈んで反応熱が穏やかに逃げていくの。でも逆に、少量の水を濃酸の中に入れると、水が表面に浮いたまま反応熱を一気に受けて突沸してしまう。だから酸を希釈する時は“水に酸を入れる”のが鉄則。反応熱が出るときは、冷やしながら攪拌するのが基本よ」
「ふぅん、なんか難しいンすね!」
「今後、農薬を扱うとなれば必要になる知識ですよ。クラーレ殿から色々聞いて勉強すると、面白かと思いますよ――あ、そうそうプリスカ君、洗濯物の件でオリゴ様がお呼びでしたよ」
「え、なんかやらかしたっけ……ま、いっか。では行ってきまーす」
そう言うとプリスカは元気よく飛び出していった。
「ところでクラーレ殿、その農薬の件で少々お話があるんですが」
*
「クラーレ殿、このマニフェスト伝票を詳しく見てもいいですか? これが今回届いた薬剤一覧ですよね」
トマファは木箱に貼られた伝票を手に取ると膝の上にメモ帳を開く。クラーレは昨日ギルドから届いた商品説明書を机に出すと彼に手渡した。
「はい、6種類あります。まず①のニコチン液。タバコの葉から抽出した成分で、強力な神経毒です。アブラムシやハダニ、イモムシなどの害虫に対する殺虫剤です。即効性は高いのですが、人間にも害があるので取り扱いは厳重にしないといけません」
クラーレは応えるとトマファはすぐにメモを取った。
「タバコを煮出した汁の話って、面接したときにしてましたよね。――タバコと聞くとノーム爺や職人たちがパイプでぷかぷかしているイメージしかありませんが、そんなのが本当に効くんですか?」
「まだ体が柔らかい幼虫期なら即効性があります」
「ふむ、なるほど。では人体に対する毒性について詳しく聞いても?」
「あ、はい。噴霧状の状態で吸い込むとニコチン中毒――頭痛や吐き気、めまいを起こします。皮膚からも吸収しますので、雨天時や汗かいてるときの使用は控えなければいけません。――ちなみにタバコ農場で働く人々が濡れたタバコ葉に触れることで皮膚からニコチンを吸収し中毒を起こすって事例もあるんです」
「じゃあ噴霧するときは防毒マスクに防護服は必須ですね。あと近隣住民に使用直後は家から出ないように指示する事も必要ですね」
トマファはメモ帳に「外出自粛の領主令が必要」と書き込んだ。
「②は石灰硫黄合剤、石灰と硫黄を煮て作った殺虫殺菌剤です。殺菌力は高いんですが、高温になると有毒ガスが出ることもあるので注意が必要です」
「この、硫化水素みたいな匂いがする薬剤ですね――僕はちょっと目がチカチカしてきました」
「そうなんです。強アルカリの液体なんですが、酸に触れると硫化水素を撒き散らすんです。ただ糸状菌の代謝酵素を阻害し、強アルカリの液性で病原菌の細胞膜を破壊するので効果は高いと思います。あと、ダニやカイガラムシといった外殻が堅い虫に対しても皮膚呼吸を阻害するので効果は高いです」
「強アルカリってことは金属に対する腐食性もあるってことですか。――これこそ危険な薬品ですね」
トマファはメモ帳に「取扱には細心の注意が必要」と書き込んだ。
「では③のクレオソート液です、かなり独特な匂いがするやつですね」
「――それって、お腹がゆるくなったときに使うアレですか? ラッパのナントカ的な」
「あ、そっちと違います。たまに勘違いしてインチキな事を吹聴して回ってる人がいますが――これは殺菌剤です。他にも馬車の底板や車輪の防腐剤としても使いますね。たまに『古い馬車駅の匂い』って言う人もいますね」
「え。そんなの作物に使って大丈夫なんですか?」
「あ、はい、定植前の土壌に散布するんです。そうすることで線虫や白絹病対策が……。――植物にかけると毒性で葉が焼けますので、植穴へ滴下も有効です」
トマファはメモ帳に「野菜や苗に散布すると枯死の危険性」と書いた。
「次の④トウガラシ液ですが、プリスカちゃん家から分けてもらった激辛唐辛子をアルコールで煮出したものです」
「なんか、遠くにある島国王国ではそれを料理にかけて召し上がるって聞いたことがありますね」
「コーレーグスですね、私も聞いたことがあるぐらいですが。――これは忌避剤です、アブラムシやカイガラムシが定着する前に『ここは嫌だ!』と思わせる、と思ってください。虫だけでなく人間にも有害です。匂いを嗅いだり目に付いたり、皮膚に付いただけでも大変な事になります――効くとは言えませんが」
「さっき、プリスカ君がギャーって言ってましたもんね。――むしろあのお嬢には取扱を気を付けてもらわないと」
そう言ってトマファは少し微笑みながら「粘膜刺激性が強い」と書き込んだ。
「⑤は木酢液。木材を炭にする過程で出る副産物で、防菌・防虫効果があります。ただ、強酸性でかなり臭うので人間や害獣には不快です。効能の具体的記述は――まあ、王国法での取り扱いは現在のところ微妙ですが、ここでは“試験的散布物”として調べてみたいと思うんです」
「てことは、先ほどの石灰硫黄合剤と混ぜたら……」
「亜硫酸ガスや硫化水素が出ます、ご存じの通り致死性が高いです。しかも強酸と強塩基ですから発熱、爆発の恐れがありますし、薬効成分が壊れます」
「なるほど、これは扱いに困りますね」
トマファは困った顔を浮かべながら「混ぜるな危険」と書き込んだ。
「⑥は重曹液。アルカリ性ですから殺菌用です。赤茄子やキュウリ、お茄子などの葉にできる”うどん粉病"の予防剤や初期時に使えます――効くとは言えませんが」
「重曹って燭台を磨いたりする薬剤ですよね?」
「そうです、弱塩基なので汚れを浮かすんです。――実はカミラーさんの頭にもたまに重曹液を散布してるんですよ、マイリスさんが」
「それは初めて知りました」
トマファはふふっと笑いながら「予防と洗浄、カミラー用」とメモを残した。
「では、この薬剤で混ぜてはいけないものを教えてください。先ほどの②硫黄合剤と⑤木酢液以外にも」
「あ、基本的に混ぜたら失活や分解、析出を起こすので単独で使ったほうが良いです。ちなみに私は①ニコチン液と⑤木酢液は危険だと思ってます。脂溶性と酸性が合わさりますから植物への刺激性が強くなりますから」
「なるほどです、わかりました」
トマファはメモ帳を静かに閉じると一つ溜息を付いた。
「これ、使う方向性を間違えると“軍事転用"可能ですよね」
ふと、トマファの目が鋭くなる。その言葉を聞いてクラーレの表情はすっと曇るのだった。
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※作者註・1
・「窓を閉め忘れたのよ」
中の人の大学時代の実話。
一年ダブッてた先輩が窓を開けて煙草を吸い、そのまま閉めずに帰宅。
(当たり前の話だが、研究室での喫煙は当時ですら厳禁!)
あとは察してくれ。
・グリーン・タバコ病
『タバコ農場で働く人々が濡れたタバコ葉に触れることで皮膚からニコチンを吸収し中毒を起こすって事例』
これ本当。
――あ、中の人は煙草に付いてあれこれ言わない人です。
吸いたい方はどうぞ。僕も元々喫煙者でした、セッター吸ってました。
辞めて5年以上経ちますが、未だに”吸いたいですッ!”。
ラーメン屋の入口でタバコ吸う人へ。その人たちの前を通るとき、息を止めてます(笑) せっかく味わったラーメンの味が台無しになるので。
・白絹病
感染性がある土の病気。アニメ版“のうりん”7話にその話が出てましたね。
どうしても“のうりん”の話をすると、美濃加茂市にてアニメ1話先行上映で市民が死にかけてたアレを思い出しますが……。
だけど、実は意外と真面目に農業の話、やってましたよ。
Funa先生原作のアニメ『私、能力は平均値でって言ったよね』がハマる人ならいけると思います。
(なお中の人はばっちりハマった)
※作者註2
農薬取締法の都合上、上部に出ている薬剤について失効しているものが多く、本来なら効用効能が謳えません。
①ニコチンはヒトに対する毒性が強すぎたため現在はネオニコチノイドに置き換わりました
②クレオソートも農薬登録が失効してます。
④トウガラシ液は、登録すらされてません
⑤木酢液も失効してます
⑥重曹は登録すらされてない
ご利用の際はご自身の判断でお願いします。
なお、中の人はこれらを積極的に宣伝する気がありません。
鉄腕ダッシュの『無農薬農薬』みたいなもんです。まぁ、アレは炎上してましたが。
ちなみに、
『現在のキュリクスの化学力・技術力ではここら辺が農薬を自作する限界点』
と考えて設定しました。
出来る事なら有機リン系をぶちかましたいです。ですが化学力は人類史です、コツコツと進行しないと解決しない課題です。突然ワープする事は出来ません。
「錬金窯に放り込んだら出来ました♡」
こんな安易な世界観は作りたくありません。
エリーのアトリエ、めっちゃやったなぁ。
(妻はマリーが好きだった)
「え? こんなん出ちゃったんですけど!」
って、泉アツノさんみたいな事いいながら作れたら、そりゃ楽だろうね。
――あ、今の人は泉アツノさんって言われても知らないよね。知ってたらおっさん認定な。
(白蛇占いの人だね)
まぁ、無農薬で農業する事はできなくはありません。ですが害虫や病気が湧きまくって収穫量を目減りさせるでしょう。かといって人力でアブラムシや毛虫、カイガラムシを摘まんで殺すには限度があります。マンパワーと収量が釣り合わなければ有史より人間は三種類の行動をとりました。
「撒くか、諦めるか、奴隷にやらせるか」
ちなみに、前話で農薬をちらつかせたら文句来ました。ぴえん