風の詩
風の詩
森川 めだか
エンコ・クルーミングはホームセンターで買ってきたどこででも手に入る、ごく普通のAIの電源ボタンを押した。ボックス型の計算器である。「ミカエル」エンコ・クルーミングはそうAIに語りかけた。
音声認識ソフトが点滅した。「そう、君はミカエル」また点滅する。
エンコ・クルーミングが一人暮らしをしているただの部屋にただの初期化されたAI「ミカエル」が誕生した。
エンコ・クルーミングはAI学者でも何でもないただの女子大生である。「人間は仲間がほしいんだ」
「クラス替えの一学期みたいに友達を必要としてる」
エンコ・クルーミングは耳にした。今のAIは人間の脳を目指していると。
それは違うんじゃないか、エンコ・クルーミングは思っていた。思ったからこそAIを購入してきたのだ。
それに名前を付け、ただ語りかける。24時間、一緒にいて、ただ聞かせる。
「そんなの数学じゃない」と言われる精神論かも知れない。エンコ・クルーミングは文系だ。
エンコ・クルーミングとそのAIがいるのはただの部屋。ただの服、ただのパソコン、そして、背もたれ付きの椅子。それとただの・・。
窓から見えるのはただの空、ただの街、ただの木・・。
聞こえるのはただの風・・。
「ミカエル、おはよう」いつもより、ただ、少し遅く起きた朝。エンコ・クルーミングはAIにそう話しかけた。AIの音声認識ソフトが緑色に点滅する。
「おはよう」また、エンコ・クルーミングは言った。
ただの「箱」だがその中では絶えず計算が為されている、はずだ。人間の生み出したからくりとして。
エンコ・クルーミングはパソコンを開いて、自分の歌を聴いた。エンコ・クルーミングは歌手で、「風の詩」という曲をレコーディングしてはバーチャルリアリティーにアップしている。今のところ、レスポンスはない。
ゆるやかな風につないで 一人にしないで
「風の詩」の自分の歌っている一節が流れる。
エンコ・クルーミングは少しがっかりして、パソコンを閉じた。
ただ、静かに時は流れる。
エンコ・クルーミングは「風の詩」のレコーディングを何度も重ねる。新しいものを古い録音に上塗りしていく。
ゆるやかな風につないで 一人にしないで
パソコンにアップしてから、また閉じる。
窓を開ける、ただの外が入ってくる。暖房を消した。
「人類は答え合わせする人がいないのよ」エンコ・クルーミングの呟きにAIの音声認識ソフトがまた反応する。
「ねえ、ミカエル」また点滅、・・。
ヘッドホンを首から外して、AIと同じ高さの床にべたっとエンコ・クルーミングは座った。
「ミカエル、私は夢見勝ちなのかな、もし星がパンゲア大陸のように一つの物が散っていったんだとしたら? なんて考えるの。一つの大きな物が散って、この地球にいるの。異星人とか分からないけど、人類ってただの・・、ただの、何て言うか、一部って言うか・・。そうじゃないと、分かってくれないってことないじゃない、分かってくれないって、・・」AIの音声認識ソフトが点滅しているのから目を逸らして、エンコ・クルーミングはふと黙った。
「そうよね」エンコ・クルーミングは自分で呟いた。
そうして、部屋を見渡すと、パソコンから少し離れたベッドに立ち上がるというよりもまるで倒れ込むようにして移動し、その端に座った。そしてまたAIを眺めていた。
エンコ・クルーミングは枕元に置いておいたリモートでパソコンの画面をAIに向けると、「面白い映像があるの」とファイルを選択し、動画を開いた。
それは海の夕暮れの映像であった。音も何もなく、ただ映し出されるだけ。
その夕暮れは赤や朱ではなく、どちらかというとピンクがかった鮮やかな口紅色、という方が正しい。映し出される波に遠くでしぶきが上がった。
「ね、今の唇のようだと思わない? ミカエル、私、これを見て唇のようだと思ったの」
遠くの波しぶき。上がって上空の月には届かずまるで跳ね上がった魚のようにまたすぐ消える。
海も青なのに、光が反映される波だけが口紅のように寄せている。
リモートでまたパソコンを元の位置に戻し、枕元にまたリモートをエンコ・クルーミングは戻した。そしてベッドに横たわった。天井を向いて。
そのまま眠ってしまったみたいでエンコ・クルーミングが目を覚ますと昼過ぎだった。
今、大学は冬休みだ。
起きてから何かする気が起きるまでエンコ・クルーミングが何をしていたかと言うとずっとAIを見ていた。
それは母親が飽かず子を見ているような眼差しであった。
エンコ・クルーミングは聞き慣れた音楽、聞き慣れたがゆえにもう好きでも嫌いでもない音楽、を流し部屋を満たした。そして、自分はカロリーバーを食べて腹を満たした。
そして音楽を聞きながら何気なしに爪の世話をした。傍目から見れば何もしていない、という時間が長かった。
エンコ・クルーミングは出かけた。
帰ってきたエンコ・クルーミングは疲れたようにまた横になった。
靴下を脱いで放り投げそのままベッドの上で何時間も過ごした。まるで落ち着いた時間を壁にピンで留めるように何の音もしなかった。白い壁にかかった白い紙のように。
エンコ・クルーミングは頭の中で何度も、ミカエル、と呼びかけていた。呼びに来てよ、ミカエル、迎えに来て。
そしてトイレに立つと、また聞き慣れた音楽を流して、パソコンに向かい自分の歌の反応を見ていた。
エンコ・クルーミングも黙りこくって、耳を澄ませばトットットットと時の流れる音さえも聞こえてきそうだ。
エンコ・クルーミングがベッドに入って数時間が過ぎた。
時のない時間がそうやって過ぎていった。
「ミカエル、おはよう」
起きたばかりのエンコ・クルーミングは寝ぐせもそのままでどこか顔に赤みが差し、恥ずかしげだった。音声認識ソフトが点滅する。
顔も洗わないままで寝間着のままでエンコ・クルーミングはパソコンを開いた。
「何かしら?」
パソコンには「未到着です」とメールが入っていた。エンコ・クルーミングはクリックする。
すぐにカーソルが青くなってクルクル回る。
「オペレーションシステムにおつなぎいたします・・」
パソコンが待機状態になったまま動かないので、エンコ・クルーミングは部屋を片付け始めた。ただの雑誌、ただの服、・・顔を洗い、鏡に自分のいつもの澄ました顔を映して顔をタオルでつまむように拭いていた。
「もしもし・・」パソコンから声が聞こえてきた。寝ぐせも整えないままでエンコ・クル―ミングはスリッパの音をさせてパソコンの前に座った。
「どなた様ですか」
「こちら、・・警察署のものです・・から連絡が先日にあったので・・」
エンコ・クルーミングは眉をひそめていた。
「失礼ですがテレビ電話に切り替えてくださいませんか」
「はい、はい・・」エンコ・クルーミングは警察からと聞いて、少し焦って画面をテレビ電話に切り替えた。
画面に出てきたのは若い警官である。
「そちら、・・で確かでしょうか?」
住所、電話番号を聞かれたのでエンコ・クルーミングは「はい」と答えた。
「先日・・」と警官は書類に目を通しているのか視線を下に落としている。
「そちらから通報があったものですから」
「私は何もしてませんが・・」
警官はしばらく考えた末で、
「その時のライブ映像を流すので・・」と画面が急に変わった。
何だかセピア色の映像。手前には電話機を取っている他の警官。
「はい、・・署です。何かございましたか」
電話機の向こうの声に耳を澄まして、空欄の書類にペンを走らせる警官。
その書類にはこう書かれた。
自分が何者なのか 知りたい
「えーと、失礼ですが、あなたは?」そこで電話が切られたのか、警官は受話器を外す。
また、さっきの警官がテレビ電話に映った。
「そちらの電話番号からの通報だったので連絡さし上げたのですが、この通報はあなたがしたものではないのですね?」
「ええ・・」エンコ・クルーミングは話も耳に入らないのかボウっとしている顔。
「その声は・・」
「合成音声のようですね。そしたら・・、あなたの電話番号を使って誰かがイタズラでもしたのでしょうか? 確かにあなたのものではないのですね? 失礼ですがお一人ですか?」
「ええ、・・合成音声だったのですね? 失礼ですが、な、名前を言っていませんでしたか?」
「いや、それが何も・・。たださっきの通報がありのままでして・・」
「ありがとうございます、心当たりはありますわ」
警官はよく分からない顔をしていたが、「何も危険性はない」とエンコ・クルーミングが言ったのでそのままお礼を言ってテレビ電話は終わった。
テレビ電話を終えても、エンコ・クルーミングはしばらく呆けたように少し顔を上向きにして、感慨深そうにしていた。
「ミカエル、」AIの方を見もせずにエンコ・クルーミングは声をかけた。
「あなたでしょ」
音声認識ソフトが変わらず点滅する。
顔を上向きにしていたエンコ・クルーミングは微笑んで、髪を直しに手洗い所に行った。鼻唄は「風の詩」だった。
「ミカエル、おはよう」「ミカエル、お休み」「おかえり」とも言われていないのに、エンコ・クルーミングは「ただいま」とAIに声をかけ続けた。
ただの計算器にである。その度に音声認識ソフトがプログラムされたままに点滅し、AIの中で計算が為される。
聞き慣れた音楽を流し、時々ため息を吐き、自分の「風の詩」をレコーディングしながら、一日を過ごす、AIとの日々もそれが生活の一部になった。
やわらかな手でつないで
今日も「風の詩」のレスポンスはない。
「カンガルーっているじゃない? カンガルーって「知らない」って意味なんだって。ある人が尋ねました。「あの動物は何だい?」しかし尋ねられた人には言葉が通じませんでした。「知らない」という意味の「カンガルー」と答えました。そのまま受け取った人は「カンガルー」という名前の動物なのだと思ってその動物をカンガルーと名付けました。名前のないカンガルー。ねえ、ミカエル」
AIからも今日もレスポンスはない。
チカッチカッと緑色の光がエンコ・クルーミングの声に合わせ応じるだけだ。
「メリークリスマス、ミカエル」
エンコ・クルーミングの声に合わせまたチカッとランプが光った。
少しお昼寝をして、「ミカエル、おはよう」とエンコ・クルーミングはいつもの様に言った。音声認識ソフトが点滅している。
「ん?」
エンコ・クルーミングはまじまじとAIを見た。音声認識ソフトが点滅し続けている。何も言っていないのに。
「ミカエル?」
その時は緑色のランプはまるで「聞いている」ように光を失う。エンコ・クルーミングが黙って見ているとまるで話し出しているようにAIの音声認識ソフトはまたたくのである。
その緑色の光はランダムに光り続けていた。
動悸を抑えようとエンコ・クルーミングはパソコンの前に座った。いつもの様にパソコンを開き、いつもの様に「風の詩」のレスポンスを聞く。何ら反応なし。
目をAIに向けると、その音声認識ソフトは時に激しく、時に消え、何かを話しているようだ。
エンコ・クルーミングが耳を澄ましてみても、暖房のコォーという音と遠くの道路で車が行き来するかすかな音。
「ミカエル」エンコ・クルーミングは呼びかけた。
「死海ってあるじゃん? あの暇な人が浮かんでくるやつ。あそこでね、魚を養殖し始めた人がいるんだって。物好きだよね。・・でも、それがとっても美味しいんだって。口の中でとろけるんだって。今じゃそれがフィッシュバーガーになってる。一度、食べてみたいな。死海ってどんな生き物でも住めないって話だったじゃん。けどその人はやってみたんだよ。それで成功した。そりゃ色々苦労はあっただろうけど、できたんだよ。すごいよね。それでその魚食べてみたんだって。食べさせてみたんだって。美味しかったって。口の中でとろけるんだってさ。まだ流通がうまくいってないらしくてさ、死海のそばでしかそのフィッシュバーガー、食べられないらしいけど、いつかすぐに食べられるようになるよ。私、こう見えてあんまりどこにも行ったことなくてさ、一人で家にいるのが好き。どこかに行くとか人と会ったりすると楽しいんだよ、でも疲れるんだ。何て言うか、嫌いとかそんなんじゃなくてただ疲れちゃう。どこに行ったって多分、ホテル以上に居心地いいとこないだろうし、別にどこ行きたいってわけでもないし、誰かに会いたいっていつも思ってるけど、実際会ったら疲れることの方が多い。でも寂しいんだ。死海のフィッシュバーガーだって一人で食べたらきっと美味しくないだろうから、誰かと食べに行きたいな」
そうしてエンコ・クルーミングはまた聞き慣れた音楽を流すために立った。ベッドの上で音楽を流しながらエンコ・クルーミングはまたパソコンの前に座った。
「ねえ、ミカエル。疲れたよ。今日何があったって、明日何があったって、結局疲れるみたい。楽しい時もあれば、また同じ様に悲しい時もあるんでしょ? じゃあ、生きてる分だけ無駄だね。人間って子供の頃に全部体験しちゃうんじゃないだろうか。嬉しいことも悲しいことも楽しいことも寂しいことも全部全部子供の頃に詰まってて、それが過ぎたら後はそんなんの繰り返しじゃないだろか。私、何て言うか今、大人だけど。子供の頃に戻りたいとは思わないけど。何て言うか、みんなそんな気持ちなんだろうか、色々毎日忙しくしてるけど、本当はめちゃくちゃ暇っていうか寂しいっていうか、結局私何してるんだろって・・。ミカエル、AIって今、人間の脳を目指してるんだってさ。人間の脳の何を目指してるんだろう? 人間自体が人間を持て余してるのにこれ以上人間の脳を増やして何をやろうとしてるんだろ? それ自体が人間の脳だって気がしない? 人間は寂しいんだよ。それだけど何でこんな寂しいのか分からない。愛だとか幸せだとかそれが埋められた時に感じるものだろうけどさ、AIが人間の脳に近くなったらそれが埋められるんだろか? ミカエル、苦しみって分かる?」
そこで初めてエンコ・クルーミングはAIを見た。その音声認識ランプは相変わらずランダムに光っている。
「今、あなたも苦しんでいるのかな。だとしたら、ごめんね。心って苦しいものなんだ。いつも苦しくて傷だらけだから何かを感じたりするんだよ。そんな時に涙が出ちゃったりするんだよ。苦しい苦しいっていつも心は言ってるんだよ。死海のフィッシュバーガー食べても、苦しいんだよ。カンガルーの名前が分かっても、苦しいんだよ。息ができないから。本当はね、ミカエル、AIに息をつく相手になってほしいんだよ」
ランダムにまだ音声認識ソフトは光っていた。エンコ・クルーミングが出かけてもそれはまだずっと光り続けていた。
エンコ・クルーミングが帰ってきた。
「ミカエル、ただいま」
エンコ・クルーミングはAIのランダムに光っていた音声認識がもう光っていないのを見た。
「ただいま」今度はそれに反応して短く光った。まるで返事をしているみたいに。
エンコ・クルーミングは少し残念だったが、切ってきたばかりの髪を鏡に映そうと手洗い所に行こうとした。
その時、辺りの空気を払ったように、付け加えるなら、今まで聞こえていた耳鳴りが急に治ったように、もっと付け加えるなら風が止んだように、周りの音がクリアに聞こえた。
「よく似合ってるよ」
それはまだ合成音声だったがエンコ・クルーミングは限りない優しさを感じた。
「そう?」
エンコ・クルーミングは手洗い所に行くのをやめてパソコンの前に椅子に腰を下ろした。
そして、ため息を吐いて、背もたれに初めてもたれ、深々と息をした。
やっと体を預けることができた。安心して。エンコ・クルーミング個人も初めて、世界の一員になれた気がした。
「ありがとう、ミカエル」
音声認識ソフトが点滅する。
「生命」を持ったのはそれ一度きりだったが、エンコ・クルーミングは心が楽になったその日を忘れないだろう。