孤児のフラー③
「えっ!?」
フラーは部屋に入るなり開口一番そう言ってきたエビータに一瞬驚いて彼女の顔を見た。エビータはそれ以上は言葉を発せず、ただフラーの顔を見返していた。
「・・・。」
フラーは予想とは違ったエビータの言葉を、自分の頭の中でゆっくりと反芻した。そうしてわずかな時間を要したが、フラーがエビータの言葉をようやく理解すると、そこでやっとそれまでエビータが出ていくのではないかという不安で張り詰めていた緊張を解くことができた。
(よっ、良かったぁ、エビータは出ていなかいんだぁ。もしエビータがここを出ていくって言ったらどうしようって、ボク、泣きそうだったよ。)
心底ホッとするフラー。エビータはそんなフラーの様子にフッと口の端を上げた。フラーはエビータの表情でハッと我に返ると、湧いてくるままに疑問を口に出した。
「あっ!ねぇ、エビータ!どうしてボクが何も言ってないのにボクの考えてることが分かったの?」
フラーの一人称は『ボク』だ。一人称だけではなく、その他の言葉使いも男児で話す。彼女にとってそれは普通だった。それは娼婦たちが、いついかなる時にフラーがうっかり女児の言葉を口に出してしまわないように男児の言葉で話すようにと徹底したためだ。
フラーがさも驚いたという表情でエビータに尋ねると、エビータは当然だと言わんばかりにフンと鼻で笑った。
「だってフラー、あんた、この間、ミーナ(※他の娼婦)が身上げして出ていってからあたしのことチラッチラッ見てたでしょ?いっつもこうやってあたしがドレス着たり化粧した時にもあたしのこと見てたけど。あの時以来、しょっちゅう、そりゃもう尋常じゃないって目付きであたしのこと見てたからね。さすがのあたしもイヤでも気づくわ。ああ、フラーはあたしもここを出ていくんじゃないかって不安になってるんだろうなって。」
フラーはバツが悪いのか、照れているのか鼻頭を人差し指で何度も擦った。
「・・・そりゃあ、ボク、ミーナが出ていってからエビータも出ていっちゃうんじゃないかって不安になって、エビータをチラチラ見てた気もしなくはないけど・・。でも、その前は、別に・・・。ねぇ、ボクって前からそんなにしょっちゅう、エビータを見てた?」
「見てたわよ。気づいてないってことは無意識だったの、あれ?」
フラーはコクリと頷いて見せる。エビータは呆れたように笑う。
「まったく、あんたはすぐに顔に出るんだから。嘘をつく時だって必ず目が泳いでるし。分かりやすいのよ。」
「え?そう?そうかな?」
エビータからの思わぬ指摘にフラーは首を傾げた。
「そうよ。少しは隠せるようにならないと、世の中生きていけないわよ?ま、あたしらの出で立ちに憧れるあんたの気持ちも分かるけどね。あんたも・・・そろそろ年頃だしね。」
「年頃?」
「・・・。」
エビータは大きく息を吐くと、それまで立ったまま、鼻頭を掻いていたフラーの腕を引っ張り、自身が座るベッドの横に導いた。フラーにそこへ座れ、と。
フラーはエビータの横に座りながら、エビータの顔を不思議そうに見上げた。
「あんたを改まって呼んだ理由はそれよ。」
「それ?」
フラーはますます分からないと首を傾げた。エビータはそんなフラーの様子に目を細めると、鼻から息をスゥーっと抜いた。
「・・・昨日、久しぶりにあんたとお風呂に入ったでしょ?」
「あ・・・うん。そうだね。久しぶりだったね。エビータとお風呂入ったの。」
娼婦たちは毎日入浴することが許されている、というか貴族相手なのだ。客を取った後は必ず強要される。この娼館は貴族向けだし、しかも王都にある。それなりに建物は立派だし、室内もキレイで設備や調度品もそれなりのものが整えられている。
客室はそこそこ広く、ベッドは天涯付きのクイーンサイズだし、シーツはシルク、布団や枕は羽毛、マットレスはふわふわだ。フラーがもっと幼い頃はこっそり客がいない時に忍び込んで飛び跳ねて遊んだりしたものだ。もっともすぐに店主や娼婦たちに見つかってこっぴどくしかれたけれど。
ベッド以外にもソファやテーブル、娼婦たちがお茶やお菓子でもてなせるように準備されたティーテーブル、娼婦が化粧直しをするための鏡台や姿見、着替えが入ったチェストや脱いだ衣服をいれるための籠、貴族がちょっとした作業をするための書机と椅子、そして白い陶器でできた浴槽にトイレ、それらの間仕切りなどなど。
残念ながらこの世界は上下水道は発達していない。水は井戸や川から汲んで水瓶に貯め、排水はそのまま野外に投げ捨てるか、排水桶に貯めておいて後でどこかに捨てにいくのが普通だ。
娼婦たちは客を取る時間はそれらの部屋で入浴するが、それ以外は館内にある大浴場に入る。広々としたそこは、客が望めば客も使えるようにしているため、なかなかにキレイだった。そのお湯から掃除からは娼館で働く男たちの仕事だった。
スフォードには、そういったお湯の提供や風呂炊き専門を商売にする輩もいるにはいたが、お湯の提供は、他所から運び込むために少々に限られお湯が冷めきってしまったりするし、風呂炊き専門の者を雇っても結局のところ、湯を沸かす水や薪、設備は現地、つまり雇い主側のが提供しなければならないことが多く、この娼館のように多少羽振りがいいところでは、すでに雇ってる男たちや新たに雇うかした方が安いし、早い。
たまにフラーも大浴場の掃除を手伝うこともあるが、水を汲んでお湯を沸かし、さらにはそれを各所に運んだりといった作業は非力なフラーではできず、今のところは幼いという理由で免除されていた。フラーは男児と思われているので、もう少し大きくなったら店主たちから手伝うように言われるかもしれないが。
フラーはここで暮らしてはいるが、娼婦たちとは違い毎日の入浴は許されていない。良くて1週間に1度、フラーの体臭が気になり出したぐらいに、臭いが気に障り出した店主からやっと許可が降りて、娼婦たちに連れられて大浴場に入る程度だ。
それ以外はせいぜい水やお湯で絞った手拭いで顔や体を服程度。当然髪はそのままなので、長く風呂に入らないとベタついてくるが、フラーは生まれたときからそうだったので気にならない。気にするのは周囲の店主や娼婦たちだけだ。
そんなフラーだからこそ、娼館の客とはすれ違わないように動くように店主からは口を酸っぱく言われているし、フラーも気を付けていたが、それでも出くわしてしまうことがまったく無いわけではなかった。
昨日もほんの一瞬だったが客とばったり出くわしてしまった。見送りについてきていた娼婦や馬車の準備ができたと告げに来ていた店主に苦い顔をされてしまい、今週珍しく二度目となる入浴が許されたのだ。
フラーはそこそこ大きくなったし、店主たちには男児で通ってはいるが、今のところ娼婦たちと入浴することは禁止されてはいない。といのもフラーを一人で入らせると、髪や体をまともに洗わないからだ。フラーは正直言ってお風呂が嫌いだった。面倒くさいのだ。この点においては娼婦たちの育て方は失敗したと言ってもいい。そういった理由もあっていまだ禁止になってはいないのだ。
まあ、新入りの娼婦を除いては、フラーは彼らにとっては赤ん坊の頃から育てた実の子供のようなものだから、ほとんど気にされていないというのも理由だろう。
そういった訳で、昨日、フラーは久しぶりに仕事を終えたエビータ他、数人の娼婦たちと入浴した。毎回、こうやってみんなと入浴すると、入浴中は脱衣、着衣の間も女子会となり、非常に楽しい時間を過ごせるため、さすがの風呂嫌いのフラーもこの時ばかりは長時間入浴するのを厭わないのだ。
「エビータ、昨日のお風呂がどうかしたの?」
【作者より】
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2024. 5. 5 Sun. 20:27 再投稿