孤児のフラー②
フラーは成長するにつれ、さまざまな仕事を任されるようになっていった。その多くはあくまでも他の従業員たちの『手伝い』ではあったものの。
例えば、洗濯物を回収してくるだけでなく、それらの洗濯をしたり、掃除をしたり、といった下男たちの手伝い、野菜のしたごしらえや皿洗いといった料理人たちの手伝い、娼婦たちの着替えやメイク、髪結い、入浴の手伝い、などである。
もちろん、フラー一人に任される『仕事』も存在した。ウォーゲンを訪れる客たちが自身の馬でウォーゲンに来館したら、彼らの馬を娼館の厩舎に留め、水や餌を世話するといった仕事である。また、もし彼らが馬車に乗ってきた場合は、その御者や従者たちを厩舎まで案内して馬車を留めてもらった後、専用の控え室に案内し、お茶や軽い食事を給仕したりもするようになった。彼らは平民だったり貴族だったりもするため、その都度、控え室を分ける必要があるための、その聞き取りまでもフラーがする。彼女はそのための言葉遣いも、娼館の店主や娼婦たちに仕込まれた。当然、男児の丁稚ぽい口調を、である。
ウォーゲンは貴族を相手にする娼館だ。そこで働く彼女たちは、奴隷と言えど、客である貴族たちに失礼のないように、かつ彼らに十二分に満足してもらわねばらなない。そうすることで彼らに大金を落としてもらうことができるのだ。常連になってもらえばしめたもの。
そのために彼女らは読み書きも計算も、そこそこの政治情勢すらも話題にできるように叩き込まれていたし、彼女たち自身も、そうすることで自分たちの給金が上がり、より贅沢することも可能な上、自身を身上げ(※奴隷や娼婦としての負債を返済して、奴隷や娼婦から抜けること)する時期を早めることができるとあって、張り切る場合がほとんどだった。
というのも、娼婦、特に奴隷娼婦は娼館から逃げ出そうとは考えない。奴隷娼婦が娼館から逃亡することはご法度。万が一逃げ出して捕まろうものなら、最悪、殺されるほどのヒドイ罰が与えられることを、彼女たちは知っているからだ。
それでも娼館によっては、そこで働く娼婦たちに給金を与えず、外出することも身上げすることも許さない、彼女たちが老婆になろうとも下女として、その一生を飼い殺しにすることもあるのだと言う。そういった場所で働く娼婦たちは、一か八か命がけで逃げ出そうとすることもあるのかもしれない。だが、ここ、ウォーゲンや近隣の娼館ではそういったことは皆無であったため、フラーがそういった性風俗業界の闇を知ることはなかった。
かくして、ウォーゲンの恵まれた環境にいる娼婦たちは、自身の身上げを目指し、より上客をつかもうと、あわよくば彼らに身受けしてもらおうと奮闘するのである。彼女たちはそのための努力を惜しまない。
毎朝、表通りに出される新聞売りまでフラーを走らせ、新聞を買って来させると、それを読み漁り、その日来館してきた貴族の客に話題を提供したり、彼らがふと口にする話題に必死でついていこうとする。また暇さえあればウォーゲンに出入りする商人たちから流行りの物や噂話を常に仕入れようとし、ウォーゲンの外へ出掛ければ、街の人々の何気ない会話にすら常に目と耳を尖らせた。
そんな彼女たちに育てられたフラーにも、その恩恵が余すことなくもたらされていた。もちろん、それは『男児』としての程度に留まったが、それでも並みの孤児よりは遥かにありがたいものだった。フラーは読み書きもできるし、計算もできる。娼婦たちが読み終わった新聞でさえ読むことができる。とは言え、フラーが読むのはもっぱらゴシップ欄ばかりなのだが。それでも、この国の名前、王や王妃の名前、領地の名前や大きな街の名前ぐらいは知っている。近隣国の名前ですら知っている。政治情勢に関してはチンプンカンだが。
そうやってフラーのできる仕事と知識はどんどん広がっていったのだが、世界はまだウォーゲンの中だけだった。新聞売りはウォーゲンの表通りのすぐ目の前にやって来るだけだったし、流しの馬車だってそこを頻繁に走っていたからだ。
そういったおつかいの先が少しづつ増え、その距離も長くなるにつれて、フラーの世界は色鮮やかに広がっていく。娼館の店主やそこで働く男たち、娼婦たちから、手紙を届けろだの、買い物をしてこいだの、あれを急ぎで買ってこいだのといったおつかいを頼まれたり、客の馬や馬車を彼らの屋敷まで呼びに行ったり。
残念なことに、それらの仕事はすべてタダ働きだった。フラーは衣食住を娼館に頼っているため、店主や男たちから給金などは出ない。だがそれでも孤児として身寄りのない男児たちに比べたら、はるかにマシだった。一般的に身寄りのない男児は、よほど運がよくなければ、孤児院に送られるか、浮浪者になるか、どこかの大人たちにこき使われるか、最悪は拐われて人身売買で奴隷に落とされることもある。孤児院は基本的には寄付で運営されている。スフォードにあるならまだしも、それ以外の地方で孤児たちに食べ物や衣服、医療が十分に行き渡ることは稀なのだ。
加えてフラーは、娼婦たちからたまにお小遣いがもらえた。彼女たちはそこいらの平民よりも高給取りだが、フラーに与える小遣いが『たまに』というのには理由がある。彼女たちも奴隷娼婦。自身を磨くためや自身を身上げするために使うならまだしも、フラーにそこそこの金額をあげているとなれば、娼館の店主や男たちはいい顔はしない。曲がり間違って幼いフラーが追い出されないとも限らない。ウォーゲンではきちんとした量の食事をフラーに与えていたが、それでも成長期で日夜働きづくめのフラーがお腹を空かせている姿を見かけることがよくあり、それを見かねた彼女らが、ウォーゲンの店主や下男が見過ごせるであろう程度の少額を、適当な頻度で与えていたのだ。
ほんの少しのお小遣い。フラーはそれらのお金を貯めることはせず、娼館の外での飲食に使っていた。おつかいの途中や帰り道で小腹が空くことが多かったからだ。もっとも屋台ばかりで店に入るようなことはしなかった。フラーのような汚くて臭い子供が店内に入ることに、店主や店員たちはいい顔をしなかったし、それにそもそもフラーにはそういった店で悠長に食事を取れるような時間はなかった。だから彼女はもらったお小遣いは、泡銭よろしく、速攻で使ってしまっていた。それがフラーのちょっとした贅沢でもあり、息抜きでもあった。
けれども、そんなフラーがお金を貯めようと決意するに至る出来事が起こる。
フラーを育ててくれた娼婦たちの中にも少しずつではあるが、身上げをして、あるいは稀に貴族や出入りの商人たちに身受けしてもらって娼館を去っていく者たちが出始めてきた。ある日、フラーは娼婦たちの中でも一番彼女を可愛がってくれていた娼婦、エビータの部屋に呼ばれたのだ。
娼婦たちには客を取る部屋の他に、プライベートな部屋があてがわれている。それはここが貴族向けの娼館だからだろう。一般向けの娼婦たちには自室はないと聞く。あってもせいぜい他の娼婦たちとの相部屋まで。ウォーゲンの娼婦たちは奴隷ではあったが、非常に恵まれた部類に入っていた。
フラーは彼女たちの身支度の世話をしていたし、彼女らの部屋の掃除から洗濯から担当していたので、そういった彼女らの私室に出入りすることも頻繁だった。加えて、彼女たちはフラーの母親も同然だったので、たまに彼女らのストレス発散のために愚痴話や世間話につきあったり、『客からお土産にもらったから、お菓子を食べにおいで』とか、『お小遣いをやるから、後で部屋においで』、などと、仕事以外でも呼ばれることが度々あった。
そんなフラーが、エビータに改まって呼ばれたのである。『改まって』と言うのは、いつもの気安い雰囲気ではなく、ひどく真剣な面持ちをしたエビータに呼ばれた、という意味である。そういった表情をエビータや他の娼婦たちから向けられたことがないわけではないが、それはフラーが仕事の手伝いで何かドジを踏んでしまった時にお説教される時だ。だが、ここ最近、フラーはドジをやらかした覚えがない。自身が知らないうちに何かやらかしたんだろうか?とも思ったが、それと同時に強烈な不安がフラーを襲った。
エビータはこの娼館の娼婦たちの中で一番長く在籍している娼婦で、娼婦たちのリーダー的存在だ。フラーを一番可愛がってくれたのも彼女だ。聞けば、エビータはフラーの死んだ母親とほど同時期にこのウォーゲンに売られてきて、二人は親友だったのだと言う。自然、エビータはフラーを特別視するし、フラーも他のどの娼婦たちよりも彼女を母親のように慕っていた。
エビータはウォーゲン一の稼ぎ頭だった。というのもエビータの容姿は他の娼婦たちの中でも群を抜いて美しかった。容姿だけではない。フラーにはどこがどう他の人と違うのかは分からないし説明することすらできなかったが、エビータのあらゆる動きが、フラーにとってはどうしてだか『美しい』と思えたのだ。エビータのあらゆる動きが。頭の先から爪先まで。とにかくフラーには美しく見ててしょうがなかった。特に指先の動きは格別で、フラーの目を惹きつけて止まなかった。
だが美しいだけの娼婦など、いくらエビータが抜きん出て美人だとは言え、それだけで、懐と目の肥えた貴族の客たちから長く贔屓にしてもらうことなど叶わなかっただろう。そう、エビータには他にも武器があった。平民たちとは比較にならないほどの、教育を受けてきた貴族の客たちをもてなすに十分な知性と機知に富んだ話術、加えて下品になりすぎない程度のジョークを言う柔軟性を持っていた。
それは彼女の持っている魅力の全てではないにしても、とにもかくにも、そういったことを含めたいろいろな要素が、彼女をウォーゲン一、ともすればスフォード一の娼婦たらしめていた。もっとも、そんなランキングを実際に取って回った者などは存在しないため、実際の売れっ子ナンバー1がエビータなのかどうかは定かではない。ただ、スフォードの性風俗業界でそういった呼び声が高かったのは事実だった。
そんなエビータも、もう40歳。貴族娼婦としては高齢の域に差し迫っていたし、フラーは彼女が自分を身上げできるほどの蓄えをとうに持っていることを知っていた。具体的な金額は知らないが、エビータほどの高給取りなら身上げなどとうにできるのだと思っていた。というのも、既に身上げしていった娼婦たちはエビータよりも薄給だったのだ。にも関わらず、身上げできたのだから、エビータも当然、できるに違いない、フラーはそう信じて疑わなかった。
そんなエビータからの改まった呼び出しなのだ。もしかしたらエビータが身上げするのではないか?この娼館からいなくなるのでは?と危惧してしまうのも当然のことだった。
フラーがエビータの部屋を訪れると、彼女は自室のベッドに腰を下ろしていた。
短く借り上げられた茶色の髪のフラーに比べ、見慣れているとは言えエビータは息を飲むほどに美しかった。フラーはマジマジとエビータを見る。
フラーは男装はしているし、口調も男児っぽいが、心根はきちんと女性として育っていた。ほとんど育児経験がない娼婦たちにしては上出来だった。フラーは自分がエビータのようにはいかないとしても、年頃の少女の装いをできないことを少しばかり憂いていたのだが、それはできないし、口に出してはいけないことだと重々理解していた。だから娼婦たちがこうやって美しく着飾った姿を見る度に、ついつい羨望の眼差しで見てしまう。エビータに対してはため息まででる始末だった。
娼婦たちがなぜ奴隷娼婦になったのか、フラーはまったく知らない。娼婦たちは親しくなれば互いに事情を打ち明けあったりもしているようだが、まだ幼いフラーには娼婦たちは決して話すことはなかった。だからなぜ、これほど美しいエビータが奴隷娼婦になったのかは、フラーは知りたくてもエビータたちから教えてもらうことはなかったのである。
それでもフラーは彼女たちが大好きだった。なぜなら彼女たちはフラーの母親たちだったからだ。
エビータはもう少ししたら客を取る時間になるのか、すでに客を迎え入れるためのドレスに身を包み、夜会巻きにした金髪に宝石が散りばめられた髪留めをさしていた。エビータの素肌は元々白くきめ細かい。そのせいか彼女はあまりおしろいをはたかない。気持ち、ほんのわずか、はたく程度。だがその代わり頬紅と口紅はしっかり付ける。
エビータに見とれていたフラーは、エビータが困ったように笑ったのですぐに我に返った。フラーに緊張が走る。
(ああ、ついにエビータもここを出て行くって話なのかな?)
フラーの不安を他所にエビータが口を開いた。
「あたしは、この仕事が好きだし、この年齢でも客がついてくれるから、もうしばらくはこの仕事を続けるつもりだよ。」
それを聞いた瞬間、フラーはホッと胸を撫で下ろした。
【作者より】
【更新履歴】
2024. 5. 5 Sun. 20:23 再投稿