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孤児のフラー①

夜の(とばり)も下りた頃、とある建物の裏口から一人の少年が顔を出した。


少年は大きな酒樽(さかだる)を斜めに(かたむ)けて器用に転がしていた。酒樽は木製で中は(から)で軽くはあったが、まだ幼い少年が持ち上げるには、いかんせん、大きすぎて、そう易々(やすやす)とは持ち上げることができなかった。


酒樽運びは少年のここでの仕事だ。少年が出てきた建物はこの街にある酒場の一つで、彼の仕事はここでの雑用である。ただし給仕を除くが。


少年の身なりは非常に貧相なもので、彼はたいそう薄汚れていた。長いこと風呂に入っていないのか、強烈な異臭をも放っていた。そんな者を酒場が雇うのも衛生的にどうなのかと疑問に思われるかもしれないが、この街ではそういった者がチラホラいたし、(わり)と普通に見かけられる光景だった。


ここはレッセンシア王国の王都(おうと)スフォード。現在、建国400年を祝うお祭りの期間中で、街にはいつも以上に喧騒(けんそう)があふれ返っていた。


そうはいっても、祭りを楽しむ者ばかりではない。ここぞの稼ぎ時だと、酒場や食堂、宿や賭場(とば)、劇場といった(あきな)いに精を出す者たちは働き、財布と気が(ゆる)む人々の(ふところ)を狙うスリや強盗たちも横行し、また彼らを取り締まる王都の警備兵たちも、祭りの祝賀ムードで沸き立つ人々をよそに、(せわ)しなく働いていた。


そういった人々たちがいる一方で、先の少年のように、貧しさ(ゆえ)に祭りの有無などには関係なく、ただその日その日の食事にありつくためにわずかな賃金で必死に働く者たちも存在した。それは大人だけではない。この国では、いや、この世界には、少年のように幼くしても働いている子供が山ほどいるのだ。


さて、少年は(から)酒樽(さかだる)()き場の前まで行くと、転がしていた酒樽を止めて起こした。


「ふぅ。」


少年は(ひたい)に流れる汗を腕で(ぬぐ)った。別に酒樽を転がしただけでこれだけの汗をかいたわけではない。彼は(はな)から薄汚れて悪臭を放ってはいたが汗はかいていなかった。彼は昨日も同じように働いて汗をかいたが、その汗は半日経ってすっかり乾いていたのだから。彼の今、この汗は、今日、酒場にやって来てから息つく暇もないほど走り回ってかいた汗だ。


酒場は祭り期間とあっていつもの倍以上と言わんばかりの大入(おおい)りだった。祭りの有無には関係ないのは少年の懐具合(ふところぐあい)だけであって、彼の仕事量は何倍にも激増したのだ。


少年はチラリと横目を向けた。


酒樽置き場は、(ひと)2人がやっと並んで歩ける程度の狭い裏通りに面していて、普段は真っ暗で、表通りほどの賑わいもなければ人通りも少なかった。人通りなど皆無だったと言った方が適しているだろう。それでも今は祭りの期間中。普段は(とも)されないガス(とう)(とも)され、人影もチラホラ見える。


少年が目を向けた先には、(すで)にベロンベロンにできあがった男2人が肩を組んで「もう一軒行くぞぉ~」とご機嫌で歩いていた。


「ちぇっ、お気楽でいい気なもんだ。」


少年は口をすぼめると、まっすぐに立てた酒樽の下方をコツンと()った。それで少しばかりの()さを晴らしてみようとしたのだが、たいした効果はなかった。だが、それはいつものこと。少年はさして気にも留めかった。


少年は(かぶ)っていたツギハギのベレー帽の位置を整えると、「よし!」と自身に気合いを入れた。彼は口をぎゅっと引き結び、噛み締めた奥歯に力を込めると、酒樽の(たが)の端と端をつかんで、えいやっと持ち上げた。樽そのものを持ち上げようとすると、少年の両腕を伸ばしても(つか)みきれないのだが、箍を掴めば少年でも一瞬であれば持ち上げることができた。


彼は箍越しに持ち上げたその樽を、横置きで積まれている空樽の最上段に放り投げた。酒樽は建物の壁やら空樽やらにカツカツとぶつかりながらも、うまいことキレイに樽と樽の間に落ち着いた。少年にとっては慣れた作業なのでコントロールは朝飯前だ。


少年はうまく積み上がった酒樽を見上げて少しの間ご満悦だったが、すぐに表情を引き締めた。


「で、こっからが大変なんだよなぁ。」


彼が大変だと(のたま)うのは、次なる作業を思ってのことである。それは今、空樽を積み上げた場所の、裏口を(はさ)んだ反対側にもう一ヶ所、樽置き場があって、そちらにはタップタップに酒が入った樽が積まれていた。さすがに大人でも重いのか、酒で満たされた樽は空樽とは異なり1段だけで縦置きだった。それはこの酒場の酒の消費速度が早いことを示していた。


酒樽がコルク栓の場合、縦置きするとコルク栓が乾燥した際に縮み、わずかに隙間ができるのだが、そこから空気が入り、中の酒の味や室が変化してしまうため、通常は横置きであることが多いのだが、少年にとってはそんなことはどうでもいいことだった。ただ、起こす手間がないだけありがたい、その程度の認識であった。


そう、少年の次なる作業は、空いた樽の分、その満杯の樽を店の中へ運ぶことだった。(から)の樽と同じように傾けて転がしていけばいいのだが、何せ重い。なぜなら、その少年、いや実は少年の格好をした少女だったからである。


少女の名はフラー。名字はない。ただのフラーだ。名字があるのは王族や貴族、そして大商人と呼ばれる非常に裕福な商人ぐらいだろう。孤児であるフラーには名字などあるはずもなかった。ただ幸いなことに、孤児とはいえ、フラーには住む家があったし、そこで一緒に暮らしている家族もいた。もっとも、その家族はフラーとは血のつながりはおろか、縁戚(えんせき)ですらないのだが。


フラーは現在、10歳だ。10年前、スフォードにいくつかある娼館(しょうかん)の一つ『ウォーゲン』で生まれた。彼女の母親はそこの娼婦だった。


娼館にもいろいろあって、王族だけを相手にする娼館、貴族だけを相手にする娼館、大商人だけを相手にする娼館、騎士といった国や領地の特殊業務に()く者たちを相手にする娼館、一般人を相手にする娼館と多岐にわたる。


一般人向けの娼館にも、さらに底辺、つまりは貧困層だけを相手にする娼館などがあったり、船乗りや港で働く者たち向けの娼館や、鉱山などで働く者たち専用の娼館といった一定の職業人(しょくぎょうじん)()けの娼館などが存在した。そういった娼館は、どの国のどの街に、どんな場所の近くに立地しているのかにも多少は左右されるのだろう。


そしてそういった娼館で働く娼婦たちも、通いの者から、そこで暮らす者、奴隷として(なか)ば監禁されているような状態で働く者などと様々(さまざま)だった。娼館には属さない、流れの娼婦すら存在した。


ウォーゲンは貴族向け娼館で、フラーの母親はその奴隷娼婦だった。奴隷娼婦とは言え、貴族を相手にする娼館だけあって、さすがに奴隷焼印(どれいやきいん)をされるようなことはなかった。


焼印は、高温に熱した鉄鏝(やきごて)を商品に押す行為なのだが、そうすることで生産者だったり、製造年月日だったり、ロット数だったり、輸入許可等を記すのだ。残念ながらこういった焼印は、この世界では、生きている動物や犯罪を犯した者、そして奴隷に対しても行われる行為だった。当然ながら、この行為は、される側の動物や人間たちにとっては、尋常ではない痛みに耐えねばならない悪習(あくしゅう)だったのだが。


奴隷ではあるが焼印されることがない一部の娼婦たち。彼女たちは貴族に花(※身体)を売る商品だ。その身一つに傷がつかないよう大事に扱われる。その代わり、その身、その美貌を(みが)くことが常に求められる。幸運なことに、焼印されることのないウォーゲンの娼婦たちは、それに加えて、店にある程度の売り上げを貢献すれば外出も自由だった。


彼女らの客がウォーゲンに落とす金は莫大だったし、稼ぐ金額は並みの平民をはるかに超えていた。彼女たちには給金が支払われ、その額も並みの平民よりもはるかに高額だった。娼館によっては娼婦たちにタダ働きを強いるような店も存在したが、王都スフォードにある貴族向けの娼館とあって、ウォーゲンはその点はきちんとした店だった。


フラーの母親はウォーゲンの娼婦という、奴隷娼婦にしてはマシな(ほう)の店で働いていたのだが、残念なことに、フラーを産んだ直後に亡くなってしまった。だからフラーは母親の顔を知らなかった。もちろん、父親の顔すらも。


フラーの母親が亡くなると、彼女はウォーゲンの娼婦たちに育てられた。それも男児として。もしフラーがウォーゲンの店主やそこで働く男たちに女児であると知られてしまうと、彼らはフラーを娼婦にしようと目論(もくろ)み、フラーを育てはするが、その代わりに早いうちから彼女に客を取らせようとしただろう。娼館で生まれた女児はそうなることが(つね)だった。だが、フラーは幸運なことに、そのことを危惧(きぐ)した娼婦たちの手によって男児として育てられた。


通常、娼婦が男児を産んだ場合、その娼婦が自身の子の育児を望まなければ、その子は娼館の店主にその後の対応を暗黙の了解として(ゆだ)ねられる。


男児の場合、貴族や金持ちの商人、あるいは労働力を欲している平民などに養子に出されたり、孤児院の前やその他の場所に捨てられたり、あるいは奴隷商に売られたり、フラーのように娼館の丁稚(でっち)としてこき使われたり、といった選択肢がある。ごく(まれ)にだが、男娼(だんしょう)にされるという選択肢もあったが、男娼館(だんしょうかん)の数そのものが絶対的に少なかったため、その選択がなされることはほとんどなかった。


フラーの場合は、生前の母親の人柄もあったのだろう、他の娼婦たちの後押しと庇護(ひご)もあって、男児の丁稚(でっち)としてそのままウォーゲンで育てられることになったのだ。


もちろん、赤子や幼子のうちは仕事をすることができない。フラーがある程度成長するまで、そこで働く娼婦や下男たちが手が()けば面倒をみるといった感じで共同で育てられた。とは言え、フラーはほとんど手がかからない赤ん坊で、放っておかれることがほとんどだった。


それでも、首が座り、言葉を発し、よちよち歩きをするようになるにつれて、娼婦やそこで働く男たち、さらには娼館の店主にまで、そこそこは可愛がってもらえるようになっていった。


そんな環境で育ったフラーは、物心つく頃には(すで)に自身の置かれた状況を十二分に理解していた。


自身の母親はウォーゲンの奴隷娼婦であったこと、彼女を産んですぐに亡くなってしまったこと、このまま行けばここで娼婦にさせられてしまうこと、そうらなないように娼婦たちが協力して彼女を男児と偽り、ここで育ててくれていること、娼婦たち、そして店主や下男たちはフラーとは一切血が(つな)がってはいないこと、フラーの亡くなった母親の身内の有無やその消息などは一切不明だったこと、フラーの父親も不明であること、そしてこのままウォーゲンを追い出されずにフラーが暮らしていくためには、男児とバレないようにすること、そして子供のうちからここでの仕事を手伝わねばならないこと、そういったことを、である。


(なか)でもフラーにとって今現在、差し迫ってはいないものの、いずれは彼女の人生を左右するであろうと娼婦たちから何かにつけて(さと)されていたことがあった。それは、ここはフラーの家ではあるが、あくまでも『仮の家』であって、フラーが娼婦になりたくなければ、女児とバレる前にいずれはここを出ていかねばならない、ということだった。


フラーはそれが自分にとってとても大事なことだとは分かっていても、それはどこか遠く朧気(おぼろげ)で他人事のように感じていた。だから彼女は、(もっぱ)ら店主や下男たちの仕事にばかり目が向いてしまい、幼い自分でも彼らの仕事の中で何かできるものはないか?と日々彼らを観察することに明け暮れていた。


そうして少しずつ仕事をするようになっていったのだが、始めのうちは、せいぜい娼婦と客たちの事後に、()いた部屋を回って、使用後の寝具や娼婦たちの衣服を集めて洗濯場の男に渡したり、貴族向けに取り(そろ)えられた銀食器を(みが)いたり、ゴミを屋外に捨てに行ったりする程度の簡単なものばかりだった。


その一方、ウォーゲンの娼婦たちはフラーを男児として育てることに奮闘していた。そもそも彼女たちのほとんど全員が子育て経験がないのだ。フラーが彼女たちにとっての初めての子供だったと言っても過言ではない。娼婦たちはフラーのことを常にどこかで気にかけてくれていた。フラーの、ともすればあっとい間に伸びてしまう髪も、こまめに短く切ってくれたし、大人と違って成長が(いちじる)しいフラーのために、彼女の男児用の下着から何からを、そこで働く下男たちに頼み込んで、彼らの子供のお下がりをもらったり、ウォーゲンの外で入手してきてもらっていたりした。


幼いフラーの世界はウォーゲンの中がすべてだった。娼婦やそこで働く男たちと同じ物を食べ、同じ場所で働き、そこで暮らす娼婦たちに混じって眠る。その生活の繰り返しだった。けれどもその世界は、フラーが成長するにつれて急速に広がっていった。

【作者より】



【更新履歴】


2024. 5. 5 Sun. 20:15 再投稿

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