【第二章・第三十九話】勿忘草と月白の少女
「……あ」
シスター・アンゲルスと共にカフェを出た僕は、皇都やフォルトゥナなどの大通りから離れた道を歩いていた。鼻先を擽る微かな甘い香りに、思わず声が洩れる。
辺りを見渡すと、あまり人の多くない道の向かい側から、大きな紙袋を抱えた女性が歩いてくるのが見えた。中身が零れ落ちそうだと思いながら見ていると、突然強い風が吹いた。その強風に、思わず僕も目を瞑る。
「___きゃっ!」
案の定、あの女性は手に持っていたものを落としてしまったようだ。風に攫われるように紙袋から顔を出したのは、今の季節にピッタリの赤い果実___マールムだった。先程の甘い香りはこれかと僕は心の中で納得する。
早速周りに転がったマールムを拾い始めたシスター・アンゲルスに倣って、僕も地面に屈む。そして、目の前にあるマールムを手に取った。
_____おかしいな。
このマールム、結構な高さから落下したにしては、一切傷が付いていない。それこそ、不自然なほどだ。ちょうどいい色合いに熟しているし、手触りからして実が硬いというわけでもない。ならば、なぜ……。
「あの、拾ってくださって、ありがとうございます」
僕の思考を遮るようにして、柔らかな声が頭上から降ってくる。見上げると、そこには先程の女性がこちらを見つめていた。近くで見てみると、思っていたよりも幼い顔立ちをしている。女性ではなく、少女と言った方が正しそうだ。
「わたし達が勝手にしたことですし、お気になさらないで下さい。どうぞ、あまり傷んではなさそうでしたよ」
黙って立ち尽くす僕に代わって、シスター・アンゲルスが返事をする。なんの翳りもない眩しいまでの笑みを湛える彼女に、その少女もまた笑顔を返した。
「お礼、というわけではないのですが……実は、この通りを少し進んだ先にある『ヘリアンヌース』というお花屋さんで、綺麗な一夜草が店先に並んでいるんです」
「一夜草、ですか?」
「はい。季節外れなのに、随分と珍しいですよね」
一夜草の花が開花するのは、春の季節だ。たった今、秋の陽がもうすべての影を長く横たわらせて街を夕刻の色に染めている最中だというのに、そんなことがあり得るのだろうか。
「その店の店員さんが狂い咲きという言葉を教えてくれました。通常では春にしか咲かない一夜草が秋に咲くことがあるようなのです」
___狂い咲き。
聞いたこともない言葉だ。そんな単語、僕が今まで読んできたどの本にも載っていなかった。その狂い咲きというものは、いったいどういう条件下で成り立つのだろうか。水分量や温度、日光を浴びる時間、考えられるものは様々だ。
「本当に綺麗に咲いていたので、見るだけでも楽しめるではないかと思いまして……いかがでしょうか?」
勿忘草色の髪を靡かせ、月白の瞳を輝かせた少女の言葉に、僕は無意識に頷いてしまった。




