【第二章・第三十話】彼女の横顔
「サングイス嬢、怪我はないかい? 衣服が濡れてないといいけど……」
焦ったようなドクトリナ様の声をどこか遠くで聞きながら、僕はじっと目の前のサングイスの横顔を凝視していた。おそらく取り落としたのだろう。サングイスは右手を軽く上げ、ちょうどティーカップを傾けるような格好のまま固まっていた。
身に付けていたスカートはそれなりに濡れていて、商談後とはいえそのままでは寒くて不快だろうと思う。けれど……深紅の下に浮く、ぽっかりとした双眼。冬の日差しに充てられて、宝石のような瞳には濡羽色が宿っている。
サングイスはまるでその惨状に気付いていないように、呆然とした顔でどこか一点を見つめていた。顎だって濡れているのに拭いもせず、ただ呆けたように小さく口を開け、丸くした目を瞬いている。
驚いているような、理解が追いついていないような。とにかく不自然に抜け落ちたその表情に、なぜかぞくりと不安が走る。
「……サングイス?」
たまらず呼びかければ、彼女はハッと肩を揺らして僕を見た。そのまま思い出したようにパーカーの袖で口元を拭う。先程の表情が嘘だったように、そこにはいつものサングイスがいた。
「……すみません、手が滑ってしまいました。お気遣いありがとうございます。怪我はありません」
変わりのない様子にほっとしつつ、足元に転がっていた空のティーカップを拾いあげる。ドクトリナ様からタオルを受け取りつつ、濡れたスカートを処理しているサングイスを横目に、僕も密かに胸を撫で下ろす。
いつも溌剌とした顔を見せてくれる恋人だ。その差のせいか、あまり見ない表情に少し戸惑ってしまったが、おそらくあれはただ驚いただけだったのだろう。
勝手にそう結論づけ、僕も床に溢れた紅茶をハンカチで拭こうとする。が、ふとそこに滲んでいる血に気が付いた。途端、思い出したように切れた唇が痛み、口の中にわずかな鉄の味が広がる。
「……ともかく、怪我かなにかではなくて良かったです」
紅茶を拭うのをやめ、取り出した予備のハンカチを口元に当てる。思いのほか深く切れているのかもしれない。なかなか止まらない血を煩わしく感じつつ、なぜか脳裏に焼きついて離れない先程のサングイスの横顔に顔をしかめた。
今思えばこの時にはもう既に、僕はもちろん、当の本人だって気付きもしない変化が、彼女の中で始まっていたのだと思う。




