【第二章・第二十八話】穢れのない恋人
ぬるりと、待ち望んだ花の香りが舌に絡まる。
途端、びりりと痺れるようないつかの感覚。どくどくと、濃く重い液体は力強くこちらへ流れ込んでくる。その度に、神経が帰ってきて、五感が目を覚ました。みるみる力がみなぎってくるのが分かる。血液がまるで直接心臓に注がれているようだった。
頭の声が消えたこと、ようやく取り戻したことを遠くで理解し、目を閉じたままゆっくりとそこから口を離す。彼の血は熱を冷まし、身体を温めてくれた。
それは、涼しくて熱い、命の味だった。
一方、急に起こされて驚いたのか、不意に身体の制御が効かなくなる。足の力が抜け、必然的にコロクロム様へ全体重を預ける形になった。
そのままずるり、ずるりと二人して情けなく地面へ座り込んでしまう。
「……サングイス」
優しく、名前を呼ばれる。どうにか首を持ち上げれば、明らかに色づいた景色が目に入る。霞んでない世界の鮮やかさに感心しつつ、目の前の白菫に焦点を合わせる。コロクルム様は、心配気な顔でわたくしのことを見ていた。
白い首筋。そこを割るような鮮明な赤がないことに、心の底から安堵する。
「ごめんなさい。少し、力が抜けました」
「……お身体は大丈夫ですか?」
「ええ。とても、調子が良いです」
ぱちりと、不意にコロクルム様と視線がぶつかる。一瞬、驚いたような表情。穏やかな白菫がそっと綻ぶと同時に、わたくしも口を開く。
「……あまり、顔色が優れないようですが」
「それはおそらく、お互い様ですよ」
解けた緊張と疲労に、互いに軽く笑い合う。足もめちゃくちゃなまま、二人して青い顔で地べたに座り込んで。
なんてみっともない。これでは格好がつかない。けれどわたくしは、わたくし達は二人、酷く満たされた気持ちでいた。
「一応、皇城の医務室で安静にしておきましょうか」
「そうですね……あ、少し待ってください」
立ち上がって一歩踏み出した彼に、先程放り投げた小瓶の存在を思い出す。幸い、それはすぐ側の壁際に転がっていた。誰かが安易に触れてはいけないと、身を屈めて拾い上げる。あんな位置から投げたのに、よく割れなかったなと思った。
硝子とはまた少し違う、柔らかい質感。その底でゆらりと光る、僅かな深みのある真っ赤な深紅色。その鋭さに咎められるように、一度、喉を鳴らしてみる。ようやく満足してくれたのか、もうあの渇きは訪れない。
命に支障がないとはいえ恐ろしかったし、なによりコロクルム様になるべく痛い思いをしてほしくはない。大したことがない、とは口が裂けても言えなかった。出来ればもう二度とこんなことはごめんだ。……けれど。
「サングイス?」
名前を呼ばれる。
ゆっくりと背を正せば、振り返った彼がこちらを見ているところだった。仄かに明るい路地。それでも、コロクルム様の先……通りの奥には、ここよりももっと開けた光が満ち溢れている。
「コロクルム様」
名前を呼ぶ。
白い光を背負ったまま、彼は瞬きを落とした。真白な肌と、そこにはない赤い傷。その中心で、白菫がこちらに温度を分けてくる。……ああ、やっぱり。
「____ありがとうございました」
心を割って差し出せば、コロクルム様はふわりと微笑を浮かべる。
仄かに残る花の香り。目に映るのは穢れのない、綺麗なままの恋人だった。




