【第二章・第十八話】憂わしげな瞳
「いい加減にしろよ」
低く唸るような声。いつもなら触りもしないだろうに、こういうときに限ってお兄様は汚れた袖をがっしりと掴んで離さない。逃がしてくれない。
ああ、駄目だ。舌打ちしたい気持ちを噛み殺して顔を上げる。光の下、その瞳は射抜くようにこちらを見ていた。いつになく深刻そうなその表情に、たまらず唇を噛み締める。
きっと、お兄様は絵を触ろうとしたことに対して怒っているのではない。昔からお兄様には目敏いところがあった。さっきわたくしがなにを考えて、なぜ絵に手を伸ばしていたのか。多分、お兄様は分かっているのだろう。
目が合った途端、お兄様はくしゃりと鼻根に皺を作り、眼光を鋭くさせる。
「お前、ずっとこのままでいるつもりなのか?」
耳を塞いでしまいたくなる衝動を抑え、耐えきれず目を逸らした。分かっている。お兄様の言わんとすることは正しい。あいにく自殺願望はない。だったら、このままくよくよと悩んでいるわけにはいかなかった。
「……分かってるわよ」
それでも納得できないのか、わたくしの返事にお兄様は一層腕を握る力を強めた。神経を走るような痛みに思わず息を止める。意図せずその隙をつくように、お兄様は声を出す。
「今、絵の具食おうとしてたんだろ。本当に分かってるなら、いつものお前なら、こうなる前にどうにかしてるはずだ」
「……それは」
「それともなんだよ、お前、まさか飲まないつもりなのか? 血が怖いから? 喉だから? 相手がアイツだから?」
「っ、やめて……!」
遠慮なしに畳み掛けられ、強く腕を振り解く。距離を取って睨みつければ、同じ勢いでお兄様はこちらを睨んでいた。どこまでも真っ直ぐに見据えてくる双眼。コロクルム様と同じだ。これはわたくしの問題なのに、なぜかお兄様は怒っているようだった。
我ながら余裕もなく、ぎりと奥の歯を噛み締める。
「そんな単純な話じゃないのよ! 簡単にできるなら、とっくに解決してる……!」
掠れた声ですら腹立たしい。それでなくとも喉が渇いているし、頭は重く体もだるい。加えてお兄様の苛立ちに触発され、お腹の底が落ち着かなかった。
こっちだって何も考えていないわけじゃない。見てくれは無様だろうが、むしろ自分が納得できる道を探し続けているつもりだった。……なのに。
「じゃあ、どうするんだよ? そんなのになるまで逃げたって、どうにもならないだろ」
ざらりと神経を逆撫でされたような感覚。お兄様は正しさを主張するように大きく腕を組んでわたくしを見ていた。
わたくしだって、馬鹿じゃない。死にたくなければコロクルム様の喉を切らなければならないこと、血を飲まなければならないこと、そのために全て話さなければならないこと、そしてここまで事態を引き延ばしたのはわたくし自身だということも、とっくの昔に分かっている。
____ただ、それでも逃げたと言われるのは心外だった。




