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あいのものがたり。  作者: 羽結
【第二章】
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【第二章・第十七話】水彩画の林檎



 血液。内臓、肉。内側の、命の色。


 今にも滴りそうなその赤に、醜い自分の顔が反射する。怖くはなかった。だって、今はだけはどんな醜い顔をしていていたって赦されている。


 我慢した、辛かった、よく耐えた。もうわたくしは赦されているから。隠さなくていい、ぶつけていい。熱病に侵されたように不快で、それでいて心地よかった。だって、わたくしは喉が渇いている。とにかく喉が渇いている。……喉が、渇いている。


 すっかり赤に赦された視界で、ゆっくりと手を伸ばす。


 受け入れられている。包み込まれている。まるで母のような温度の色に、右手、中指の先が触れた。……その時だった。



「_____お前っ! なにしてんの!?」



 突如、金切り声が思考を裂いた。


 同時に強い力で手首を握られる。無理やり現実に引き戻された感覚に、思い出したようにぐらりと視界が揺れた。とっさに目を閉じ、どうにか身体を硬くして立ち尽くす。


 ぐるりと回る世界の中、しかしまるで魔法でも解けたように急速に、嗅覚や聴覚、そして冷静な思考が返ってくる。



「え……? お、おい! 大丈夫か?」



 焦ったようなお兄様の声、右手首に感じるそれなりの握力に、だんだんと何が起こったのかを悟る。眩暈が治っていく気配にゆっくりと目を開ければ、狭まりすぎていた視界がようやく戻ってくる。


 明かりの下、転がったクッションや絵筆、黒色のカーテンに、机に並ぶ絵の具。ここは、お兄様の部屋だった。


 二、三度瞬きをして、目の前のキャンバスに目を映す。おそらく、次の依頼の絵でも書いていたところだったのだろう。イーゼルに立て掛けられていたのは林檎の絵だった。それも、淡い水彩画の。


 あれだけ惹かれていた赤は血でも何でもない。ただの絵の具だった。


 理解した瞬間、信じられない己の行動にさっと血の気が引いていく。改めて見れば随分とやわらかいタッチで塗られた林檎だ。わたくしはこの優しい赤色の、どこをどう見間違えたというのだろう。


 そもそもお兄様の、命よりも大切な絵に対して、わたくしはいったいなにを思っていた。


 目も当てられない現実に後ずさった瞬間、追い打ちをかけるようにぼた、と重たい音がした。反射的に左手で口元を擦る。少し視線を下げれば、案の定、服には涎が滴っている。最悪の気分だった。



「なあ、サングイス……」



 不安げなお兄様の声に、弾かれたようにして掴まれた手を振り解く。そのまま指先を確認するも、すでに絵が乾いていたのか、それとも最初から触れていなかったのか、とにかくそこに絵の具はついていなかった。少しだけほっとする。


「……ごめんなさい。汚しては、いないと思うのだけれど」


 もう一度、痛いくらいの力で口元を拭い、うつむいたまま踵を返した。とてもじゃないが、もうお兄様の顔を見ることはできなかった。後で、またきちんと謝ればいい。とにかく今、ここに居続けるのは不味い。汚してしまうと思った。


 焦りを悟られないよう、足早に自室へ戻ろうと一歩踏み出す。



「っ、サングイス! 待てよ!」



 ところが、避ける間もなく再び後ろから左腕を掴まれ、ヒヤリと背筋が伸びる。


 口元を拭った袖だ。それに、その下にはまだ塞がっていない傷があった。

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