【第二章・第十六話】喉の渇き
薄く、生暖かい空気。まるで羊水に包まれたようだった。
真っ白な電灯の下、部屋の中央の四角い枠の中。生まれたての水々しい赤がわたくしを待っていた。
その先を期待するように、どくんと鼓動が大きく鳴る。続けて一歩、一歩と、まるで浮かされたようにその色へと近づいていく。不思議となんの音も聞こえなかった。
まだ喉は渇いているのになぜか酷く心地が良い。その理由を考えようとするけれど、上手く思考の破片を掴むことができなかった。さっきまでなにか、そう、彼について、コロクルム様について考えようとしていたはずだった。
喉が渇いた。彼を食べ物にしている自分がおぞましい。飲みたい、食べたい、害したい。彼に、こんな汚いものは見せられない。
けれど、この空間に美しい彼は居なかった。目の前の赤は逃げもせず、ただじっとわたくしを待っている。つまり、咎めるものは何もない。抑えていたものだって抑えなくていい。
そう理解した瞬間、一層足取りが軽くなる。柔く、心臓を撫でられているような感覚だった。煌々と、四角の中の赤色がこちらを見ている。
「喉、渇いた……」
ずっと。ずっとずっと、ずっとだ。
皇城での商談のとき、昼飯を食べているとき、皇城から帰るとき、僅かな休憩時間のとき、移動中の馬車のとき。
少し視線を動かすだけで目に入る、口に含みやすそうな喉仏。優しい人肌に滲みだす花の香り。その全てに、わたくしが何度生唾を飲み込んだことか。どれだけ我慢してきたか。
コロクルム様は、いつだってわたくしの隣にいた。本当は、いつだって良かったのに。
少し汗ばんだ、白くて長い首。薄い皮膚の下に蔓延る青みがかった血管、そこにはきっと幾筋もの宝石のような赤が流れていた。
想像するだけで頭に、目に、鼻に、喉に、くらくらと焼き付いて離れない。今すぐそこを割って裂いて、きっと暖かなその血潮を味わうことができたなら。
ずっと喉が渇いている。もう、まともに仕事などできない程に。
ぴちゃぴちゃと、水の中を歩いているような音が聞こえた。それが幻聴なのかそうでないのか、もうわたくしには分からない。ただ近づいてくる赤と、誰もいないこの空間だけが正しくここに在った。
______喉が、渇いた。
いつの間にか目の前に迫っていた赤色に、うっそりと笑う。湧き出る高揚感を抑えられない。いや、抑える必要はなかった。真っ赤な色は逃げやしない。鏡みたいにてらてらと、煌って煌ってわたくしを映す。わたくしを受け入れてくれている。そう、わたくしは赦されていた。




