【第二章・第十四話】悪化する症状
______勿体ない。
花でも散るような景色の中、とっさにそう思う。安らかなその香りに、舞い散る赤に、勝手に身体が動いてしまう。一瞬逸れた視界の後、軽やかな水音が耳を刺す。
気づけばわたくしは、彼を押し倒す形で仰向けに寝転ぶコロクルム様を見下ろしていた。彼の呼吸に合わせて、喉の傷が蠢く。赤が下へと流れていく。白菫は真っ直ぐにわたくしだけを見ているというのに、わたくしは流れる一筋の鮮血から目を離せない。
ぼたぼたと、彼の白い頬に唾液が落ちる。痛いだろう。汚いだろう。なのに、彼は変わらず笑っていた。
「サングイス」
名前を呼ばれる。その声があまりにも穏やかだから、思い出す。
この状況はわたくしが作り出したものじゃない。彼の傷だってわたくしが手を下したわけではなかった。ならば、これを赦しと言わずしてなんと言うのだろう。
わたくしは喉が渇いていた。警告は何度だってした。十分、わたくしは我慢した。なのに、なのにこんなことをしたのは、こんなことになったのは、コロクルム様。
「______貴方のせいですよ」
刹那、視界が移り変わる。
目の前には頭上の光源を遮る朱殷。顔に落ちる彼女の影に、頬に滴ってくる透明な雫に、自分が今、コロクロム様の視点にいることを知る。爛々と瞳を光らせたまま、彼女は喉に近づく。逆光になった己の表情が、それでもしっかりと目に入った。
鋭い漆黒。開いた瞳孔、引き攣った目元に、醜く歪んだ口元。
______自ら喉を傷つけた彼を前に、わたくしは笑っていた。
「……っ!」
浮遊感に目を開ける。寸でのところで悲鳴を飲み込み、毛布を蹴散らす勢いで上半身を起こす。途端、血の気が引いて視界がぐらついた。揺れる身体に重く、心臓が早鐘を打っている。苛立ちに任せるまま湿った前髪を持ち上げた。
「どうして……!」
点滅する視界の中、体内で歯ぎしりの音が響く。最悪の目覚めだった。しかも、彼との夢はだんだんと濃くなっている。限界の足音に手元の毛布をきつく握る。もうずっと、喉が渇いていた。
荒々しくベッドサイドのテーブルに手を伸ばすも、目当ての水がないことに気がつく。そういえば眠る前に飲み干してしまったのだと思い出し、さらに苛立ちが増す。水を取りに行くために立ち上がろうとして、一瞬、仕舞ってあるナイフのことが頭をよぎった。
しかし、今は寝起きも相まって酷く頭がぼんやりしていた。深く切りすぎたら洒落にならない。それに先程の夢の後で、ナイフを握る気にはどうしてもなれなかった。なけなしの理性に従ってベッドから降りる。さすがに貧血気味なのか、立ち上がっただけでまた少し視界が揺れた。足を止められているようで煩わしい。
重い身体を引きずるようにして無理矢理足を動かす。やっとの思いで部屋の扉を開ける。途端、真冬の夜にひやりと冷たい空気が心臓を撫でた。新しい刺激に目を閉じて立ち止まる。
「喉、渇いた……」
冷や汗と共にドアノブを握り締め、しばらくの間、わたくしは眩暈に耐え続けた。




