【第二章・第十三話】それを望む者
コロクルム様が、立っている。白く、開けた場所にいる。
酩酊する頭をなんとか持ち上げれば、目の前の人影は陽炎のように揺れて輪郭を無くす。なにもままならないが、それも仕方のないことだった。目を閉じることも出できず、眩暈に身を任せる。あの日から幾度となく見てきたから分かる。
ここは、夢の中だった。
「コロクルム様。離れてください」
遠く、しかし存外とはっきりした自分の声が聞こえる。言葉通りに距離を取らなければと思うのに、頭が酷く重く、どうしても顔を上げることは叶わなかった。いや、自分が今どんな体勢でいるのかさえ、わたくしには分からない。
ただ、彼がそこにいることだけは分かった。その証拠に、辺りは苦しくなるほど優しい花の香りに満ちている。身体を巡る血だけが熱く、頭の芯は冷たかった。視界には自分の素足、そしてもうシミとは呼べないほど溢れてしまった赤が映る。
汚れのないその水面に、ポタリ、と。また自分の口から涎が落ちる。
「サングイス」
短く名を呼ばれる。それだけで歪んでいた視界が嘘のように定まった。指一本触れられていないのに、まるでそうすることが正解みたいに、わたくしは自然と顔を上げている。
目の前にいたのは、やはり彼だった。片膝をついて、顔を上げているわたくしと目を合わせるようにコロクルム様はしゃがみ込んでいた。凛と澄んだ白菫。彼は確かな微笑みを湛えたまま、ただただわたくしを見つめていた。
_____その腕が、頬が、足が、大切な指が、痛々しい無数の切り傷で覆われているにも関わらず。
足元から充満する花の香りに、じわりじわりと思考が侵されていく。目の前の微笑みに縋ってしまいたくなる。彼をこうさせたのは、きっと他でもないわたくしなのに。
もうこんなにも傷だらけなのに、コロクルム様はまだナイフを持っていた。今、わたくしの部屋にあるはずのナイフだ。危ないから手を離してくださいと、そう言いたいのに言葉は出ない。わたくしが止めないから、まるで神聖な儀式でもとり行うように、彼は綺麗な顔のラインに沿ってナイフの刃を首に当てた。
誰よりもその先を望んでいるのは、紛れもないわたくしだった。
「……サングイス」
こちらの底を見透かしたように、彼は一層優しく微笑む。そのまま眉一つ動かさず、まるで音楽でも奏でるように。
わたくしの目の前で、コロクルム様はゆっくりとその銀色の刃を引いた。




