【第二章・第五話】ミラージュが望む対価
「……っ! どうして、それを……!」
「貴殿の母上と面識があるのだ。彼女はもう、私のことを覚えてはいないだろうがな」
「……」
「話してくれるか? イクェス卿が、この血を欲しがる理由を」
手元にある小瓶をゆったりとした動作で横に揺らしながら、ミラージュはわたくしへそう声を掛ける。……お母様と面識がある? けれど、お母様はこの店を紹介してくれただけで、店主の情報は何一つ知らないようだった。
記憶力に長けているお母様でさえも、もう覚えていないとは、いったいどういうことなのだろう。ミラージュの言葉の裏に隠された真意を探るが、彼女はその美しい瞳に仄かな温もりを灯している。
_____なるほど。ミラージュ・ドゥ・シュヴァルツの店主が魔導具と引き換えに望む対価は、『情報』なのね。
「今からわたくしが話す内容は、他言無用でお願いね」
「ああ、契約魔法を結んでくれても構わないぞ。イクェス卿が、私の言葉を信じないと言うのなら」
「いえ、その必要はないわ。ミラージュの言葉はあまり信じてはいないけれど、貴女のその誠実さだけは信用しているもの」
「……それは、光栄なことだな」
「特別に話してあげるわ。けれど、利益のない取引が成立しないように、対価のない情報なんて考えられない。この話が終われば、その血をくれるのよね?」
「もちろんだ。ミラージュ・ドゥ・シュヴァルツの店主は必ず約束を守る」
「では、話すわね。わたくしがコロクルム・ドクトゥスの喉元の血を欲しがるのは……わたくしが『血塗れた悪魔』だからよ」
「コロクルム、様……!」
刹那、落下した感覚に目を開ける。同時に空気が喉に張り付き、慌てて飛び起きて咳き込んだ。胸を庇うように身体を折り曲げつつ、ずるずると足でシーツを掻く。そのままベッドボードへ背を預け、できるだけ身を縮こまらせた。
荒れ狂ったように、心臓が音を立てている。思考は焦るばかりで一向に纏まらない。しかし、口を塞ごうと手を持って行きかけたその瞬間、暗闇の中、ふと煌めく鏡が目に映る。そのまま、ピタリと動きを止めた。
若干散らかったテーブル、ほとんど使わない勉強机に、話術に関する本だらけの棚、生温いベッド。いつも通りの風景。――わたくしの、部屋。
数秒間考え、ゆっくりと強張った肩の力を抜く。長く息を吐き、先程まで見ていたあの景色が夢だったことを理解した。
「っ、なんなのよ……」
若干まだぼんやりとする頭を両手に抱える。額が、嫌に湿っていた。段々と収まってくる鼓動を感じつつ、壁に掛けられた時計を確認する。深夜二時。まだ寝ついてから一時間も経っていなかった。
「水……」
適当に汗を拭いつつ、ため息と共にベッドサイドのグラスに手を伸ばす。一気に半分ほど飲み干し、冷たい水が身体を駆け抜けていく感覚に目を細めた。物音一つない夜の部屋に、水が体内に染みる音が小さく響く。
あれだけ汗をかいていたのだから、水分を欲していたのも当たり前かもしれない。……ただ。
「……喉、が」
一息ついた途端、溢れ落ちそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。突き刺さるような喉の渇きに苛立ち、もう一度水を煽る。喉が渇いているのなら、水を飲めばいい。水で満足すればいい。できる、はずなのに。
例えば水を飲んだとき、身体に入ってくる感覚はあるのに満たされない。しっかりとご飯を食べているのに、全く力になった気がしない。別に、戻してしまったり味がしないわけではないのだ。食事という行為に対する感覚は変わらなかった。
ただ、体力がついたり頭が冴えてきたりと、本来食事で得られるはずの効果が一切なくなってしまった。強いて言うなら、胃が重いと感じる程度。食事管理は怠っていないはずなのに、身体が栄養を吸収してくれない。
思い通りにいかない身体の不調に、わたくしはため息を吐いた。




