【第二章・第四話】蜃気楼のような店主
「美味しいわね、この珈琲……」
フルーティーな風味に、まろやかなコク。酸味の効いた、繊細で芳醇なテイスト。自身の舌が肥えているという自覚はあるが、一口飲んだだけでも上質な豆を使っているのが分かる。珈琲は今まであまり好んで飲んだことはなかったのだが、これを機にお母様に頼んでみるのも良いかもしれない。
「……それにしても、本当に不思議なところだわ」
店の扉を開けるなり、ふわりと漂ってきたのは、嗅ぎ慣れた紙とインクの香り。入口には、繊細な装飾が施された美しい呼び鈴や花が一輪挿してある花瓶があった。
月明かりが小さな明かり取りの窓を通して差し込んでおり、天井からは温かな琥珀色の光を放つ装飾の凝った灯りがいくつも吊り下げられていた。
だが、なによりも目を惹かれたのは、正面の奥まった場所にて佇む一人の美しい女性。
遠目でも明確に見える白銀の髪は、月の光を浴びて煌めいている。こちらに気付いたように手元から視線を上げた彼女は、鮮やかな色の瞳をしていた。
第一印象は、随分と儚げな人だと思った。どこか掴みどころのない人で、確かに目の前に存在しているのに、本当はそこにいないかのような。そう、まるで……蜃気楼、のような。
「……ああ、そういうことなのね」
だからこそ、ここはミラージュ・ドゥ・シュヴァルツと名付けられたのだろう。
あまり意味が分からなかった店名の理由を、ようやく知ることができた。もちろん、それが正しい答えであるかどうかは分からないけれど、自分なりの解釈としては満点と言える。
ふふ、と一人で満足気に微笑んでいると、目の前に例の店主が現れた。
「随分と早かったわね、ミラージュ」
少しの間だけ固く閉ざされた扉から姿を現さなかった彼女は、こちらを見るなり、胡散臭いものを見るような目つきでをする。
「なんだ、その呼び名は。マスター、ではなかったのか?」
「あら、ただの愛称よ。やっぱり、こちらの方が貴女に相応しいと思って。それとも、この店には店主の呼び方に関する規則でもあるのかしら?」
「はぁ……そのような規定などない。勝手にしろ」
「ふふっ、なら、そうさせていただくわ」
遠回しに嫌味を伝えてきているようなミラージュの言葉に、わたくしは満面の笑みを向ける。それこそ、嫌味なほどに。その表情を目にしたミラージュは、軽くため息を吐く。そして、手に持っていた小瓶をわたくしの前へ置いた。
「ほら、ご依頼の品だ。コロクルム・ドクトゥスの喉元の血で間違いないな?」
「ええ。本当に用意できたのね……ミラージュは、どうしてこんなものを望むのか、とは聞かないの?」
「なんだ、聞いてほしいのか?」
「いえ、断じてそういうわけではないのだけれど」
ただ、単に気になっただけなのだ。人の血を欲しがるだなんて異質な発言をしても、まったく動じずに対応してみせるこの店主のことが。お金のためなら、どんなものでも売るというのならまだ分かる。人々は貪欲で、それは際限のないものだ。
なのに、対価を必要としないなんて。相変わらず余裕そうな笑みを讃えるミラージュは少し癪に障るけれど、育ちのせいなのか疑問を抑えることができない。
「私の記憶であれば……イクェス家の人間は、特別な血を引いていたはずだ」




