【第一章・第五十三話】運命と贖罪
人には、戦わなければいけない瞬間がある。抗うことの出来ない運命を前にして、それを突き破ることは不可能に等しい。
だから皆、己の正義を掲げ、悔いなくその命を燃やしてゆくのだ。しかし、その命の灯火が消える度に、嘆く声は大きくなる。
赫く染まる血の海も、殴り怒鳴る人々の声も。どんどん膨れ上がり、やがてそれは、私に悲観的で悲痛で色褪せた世界を見せ続けてきた。
そしてもう一度、自分の運命を憐れむ。だが、どこかで私は、これが世の理だと悟っていたのかもしれない。
この世界を平和にしたい、とあの御方は言った。まだ幼い彼が口にしたそれは、所詮は子供の夢物語だと一蹴されてしまうようなものだ。だが、今では私にとっても、それは守りたい理想郷で叶えたい夢になった。
幼い頃から、自身で培ってきた戦術。それは、誰かを傷つけるためではなく、誰かを守ることに使うものだということを教えてくれたのは、他でもないあの御方だった。
目を開いて、下を向く。剣から、一滴の血が時を刻んで滴る。周りのありとあらゆる屍が目に焼き付き、その前で赫く染まる己の手が見えた。
血腥く、得体の知れない震えと恐怖。それはまるで、あの回顧にも似た光景だった。
「っ……!」
ガバッと勢いよくベッドの上で身体を起こした私は、随分と細く荒い呼吸をしていた。慌てて周囲を見渡して、目に映る見慣れた自室に、あれが夢であったことを確認する。慣れた手つきで近くのサイドテーブルに用意していた小さめの布を掴み、自身の口を覆ってゆっくりと深呼吸を意識した。
何度かそれを繰り返せば自然と呼吸が落ち着いてくることを、幾度となく繰り返された夜に覚えた。やっと呼吸が安定してきた頃に布を口から離して、冷えて痺れた手足の先を軽くマッサージする。汗で濡れた体を用意していたタオルで拭き取り、畳んで隣に置いていた替えの服に着替えた。
ティアには風邪を引いたと嘘をついてしまったが、病という点ではあながち間違いではない。もうすぐあの子の誕生日を迎えるというのに、こんな調子で大丈夫なのだろうか。
「……グラディウス」
ぽつりと魔法を呟き、手に魔力を集める。眩しい光に思わず目を細めれば、私の手には使い古された短剣が握られていた。その刃を、そっと前腕に当てる。
ぷつ、と皮膚が切れる感覚。肉と血管が切れて、じわりと滲む血液。鈍い痛みを主張する腕。その痛みもまた、どこか懐かしいもので。かつての記憶を何度も何度も思い出して、自分の罪を忘れないように、その記憶を刻みつけるように、何度も刃を腕に走らせた。
荒い呼吸が室内に響く。新しく刻まれた幾つもの切り傷からは血が溢れ出していて、痛みを通り越して腕が痺れている。
怖くて、寂しくて、懐かしくて。そう思うことが、どうしようもなく苦しくて。耐えきれなくなった涙が溢れて頬を伝う。
ああ、気持ち悪い。私はこんなにも、気持ち悪い。
大切な人を傷つけ、数え切れないほどの命を奪ったこの身体と魔力は、こんなにも穢れている。傷つけば、愛されることを許されると思っていた。赦しを乞えば、愛することを許されると思っていた。
自分は酷く勘違いしていたのだ。罪を償えば、罰を受ければ、いずれ消えてなくなるのだと。だが、それは違った。贖罪は、自身の罪に対する罪悪感を薄めるだけで、そのすべてを清算してくれるわけではないのだ。
「え……」
刹那、私の耳に届いたのは僅かな扉の開閉音と微かに震えている彼女の声。
「お師匠、様……?」
急激に冷めていく気持ちに焦りながら後ろを振り返ると、青褪めた表情を浮かべているティアと視線が交わった。




