【第一章・第三十八話】心優しい彼女
ときおり文字の上を滑る視線を指先で固定しながら読み進めていたら、ふと外の気配に気を取られた。
______ティアが、帰ってきているような気がする。
自分の顔がとても憂鬱そうな顔をしていることを悟られたくなくて、ティアには特に必要のないおつかいを頼んでしまった。……本当に、あの子には迷惑ばかり掛けてしまっている。私よりもずっと幼い彼女になにもかも任せっきりなのは、さすがに危機感を持った方が良いだろう。
ぱたぱたと青銅を叩く雨音は健在だ。ざぁざぁと壁を流れ落ちる水音もする。こんな日におつかいだなんて、相当濡れてしまっているのではないだろうか。もしそうなら、とても申し訳ないと思う。引き出しを開けて栞を取り出し、まだ数ページしか読めていない本へそっと挟んで、私は椅子から立ち上がった。
立ち上がることすら、億劫な気分だった。扉にティアが触れる前にそっとこちらへ引いた。案の定、濡れ雫になってしまった彼女が、目を丸くして立っている。だが、すぐにその顔を柔らかい表情に変え、それは無邪気な喜色に溢れていた。
「ただいま帰りました、お師匠様」
「おかえり、ティア。こんな雨の中、急に悪かったな」
レインコートを着ているとはいえ、フードの先から滴った水がティアの前髪を濡らしている。玄関先でそれを脱いでいる彼女に少し待て、と告げてタオルを取りに行った。
私のせいでティアに風邪を引かせるわけにはいかない。念のため、大きめのタオルを持って店内へ戻った。律儀に外で待っていたティアにタオルをかぶせて受け取ったレインコートから雫を払う。
入っても大丈夫でしょうか、と尋ねてくる彼女の背を押して、店内へ素早く入れた。端に寄せてあったコートハンガーを引っ張り出してレインコートを掛けていると、申し訳なさそうな顔がタオルの下から覗いた。足元のレインブーツが、床と擦れて微かな音を立てる。
「すみません、床が濡れてしまいました」
「気にするな。そもそも、非があるのは私の方だからな」
「きちんと、頼まれたものを買ってきましたよ。それにしても、急にサファイアが必要だなんて、いったい何に使うのですか?」
「ちょうど今、製作中の魔道具に使う予定だったんだ。だが……考えてみれば、別に翌日でも良かったな。すまない、ティア。買ってきてくれて、ありがとう」
ぽふ、ぽふ、と効果音が聞こえてきそうな仕草で髪に滴った雨を拭っていたティアは、少し困ったような表情を浮かべていた。
「雨の日は……」
「ん?」
「あまり、よくないことを考えがちです。わたしはさほど雨音が苦手ではないので、そういった経験はあまりないのですが……お師匠様はそういうタイプでしょう?」
「……どうして、そう思うんだ?」
「声が、普段よりも少しだけ沈んでいますから」
気遣うような、伺うような優しい声だった。タオルから外したティアの手が、ごく自然に私の頰に触れる。する、と撫でていく指先を、私はよく知っている。知っているから、それが今どういう意図か図りかねて動くのをためらってしまった。
仕草が、少し不自然になっていただろう。そして、ティアはそれに気づかないような人ではない。ふと、苦笑した気配がする。目が合ってしまえば、なにもかも見透かされてしまいそうで、視線が上げることができない。
「ここは雨音がよく響きますね」
「……屋根が、青銅だからだな」
「やはり、青銅でしたか。実は最初にこの店を見たとき、とても美しいと思ったんです。ミセリア地区の路地は暗いでしょう?なのに、こんなにも神秘的な建物が薄暗い路地の奥にあるのがなぜか綺麗に見えたんです」
「……いいだろう? 『ミラージュ・ドゥ・シュヴァルツ』らしくて」
「ふふっ、そうですね」
少しだけ遅い返答を許すかのように、穏やかな優しい声が返ってくる。珈琲の香りが立ち込める店内でぽつぽつと話をしていたら、いつの間にか雨音は聞こえなくなっていた。




