【第一章・第十六話】ススピーリウム
「では、行って参ります。日が暮れるまでには帰る予定ですので」
「ああ、行ってらっしゃい。気をつけて帰ってくるんだぞ」
「はい!」
お師匠様に見送られながら、わたしはミラージュ・ドゥ・シュヴァルツに背を向ける。昨晩は深く曇っていた瞳は、翌朝になると既に普段の輝きを取り戻しており、いつもよりお師匠様の表情も柔らかくなっているように感じた。
やはり、あの時のわたしの選択は間違っていなかったのだろう。悩みや不安、苦しみや悲しみは時間が解決してくれると言うけれど、時間はそう簡単に作れるものではない。誰にだって平等に、決して止まることなく、不可逆的に過ぎ去っていく。
永遠は無限でも、人生は有限だ。だからこそ、それは誰かが用意してあげなければならない。
慰めの言葉を掛けることでお師匠様の悲しみが軽くなるのなら、わたしはそうする。隣で手を握っているだけでお師匠様の苦しみが止むのなら、わたしはそうする。
けれど、きっと、お師匠様はそんなことを望んではいない。
「まあ、分からないことをずっと悩んでいても、仕方ありませんからね」
なんといっても、今日はフォルトゥナへ行く日なのだ。出かける際に、お師匠様から多すぎるほどの硬貨を渡されたときはかなり困惑したが、お師匠様から頼まれたおつかいもある。少し羽目を外してみても構わないだろう。
「ふふっ、城下町へ行くなんて、いつぶりでしょうか?」
暗闇の中で静かに在り続けるミラージュ・ドゥ・シュヴァルツの雰囲気はもちろん好きだが、活気のある賑やかな皇都もたまには悪くない。お師匠様から認識阻害魔法を掛けてもらったため、余程のことがない限り、民衆の中で浮くことはないだろう。
この薄暗い路地を抜ければ、あっという間に大通りへ出る。初めてミセリア地区を訪れる者は、よく道に迷ってしまう人が多いらしい。入り組んではいるが、あまりにも分かりにくいというわけでもないので、一度覚えれば、そう迷うことはなくなるのだとお師匠様は言っていた。
「たしか、この道沿いに……」
お師匠様から渡された地図を見ながらしばらく道を歩いていると、目的地である店を見つけた。今にも落ちてきそうな頭上の看板には、『ススピーリウム』とだけ書かれている。おそらく、これが店の名前なのだろう。
お師匠様は、この古書店にある書籍を手に入れたいのだという。だが、どうやら少し変わった店のようで、「必ず装飾品を持っていくように」と何度も警告された。
廃墟と呼ぶに相応しいと言えるその建物に、わたしは恐る恐る足を踏み入れる。固く閉じられた扉を精一杯の力でなんとか開ければ、そこは薄暗い部屋で、時計の針だけが銀色に光っていた。




