キルタイム&ディストピア
江恋の妻の殺害方法はいたって単純だ。江恋が仕事へ行った後、一人で家にいる妻の下へと訪問。出て来たところを問答無用で刺し殺す。
あとは全てをラヴァーソウルに任せてしまえるお手軽仕様。
「殺す覚悟だけ見せれば、それでラヴァーソウルは十分なのよね?」
「そぉそぉ」
「まったく、ほんと七面倒臭いことをやらせるわ」
「でもでもぉ、自分の手で殺しておくとぉ、とってもいいことがあるかもっ」
「何よ、いいことって」
「殺ってからのお楽しみぃ」
会話の雰囲気だけは明るいが、内容は物騒そのものだ。本日の私の予定は殺人。平日の真昼間から東条江恋の妻を殺す。
便利な世の中にはなったものだが、人を殺す予定を含めたスケジュール帳だなんて、どこの店にも売ってないのは確かなことだ。
「そういえばぁ、今日は変装も何もしないのねぇ」
「かえって怪しくない? 万一職質されたら懐には包丁よ」
「確かにぃ。そう思うと今までの子たちは危なかったのかもぉ」
「……まるで初めてじゃないみたいな言い種ね」
「初めてって……いやん」
「そっちじゃないから」
昨日の道筋を辿って江恋の家を目指して歩く。伊邪那美駅までは電車を使うが、特定されやすいバスに乗ることは控えることにした。
例え証拠が隠滅できても、余計な疑いを掛けられるのは癪だから。
「こっちだったかしら……住宅街って似たような景色でよく分からないわ」
「携帯はぁ? 地図を見れば一発かもぉ!」
「位置情報が残るから使えないわ。家を訪れたのが分かったら厄介でしょ」
「ふぅん。便利なのか不便なのかぁ」
なんて、ここまでは割と余裕はあったのだが、そうこうしている内に、本当に道に自信がなくなってきてしまった。
「やばい……迷ったかも」
「嘘でしょぉ!?」
「ラヴァーソウルは覚えてる?」
「もう……仕方ないわねぇ」
ラヴァーソウルが先導し、迷いなく道を進んで行くと、先には覚えのある公園が見えて来る。
「良かった……ラヴァーソウルが道を覚えててくれて」
「私もぜぇんぜん覚えてないけどぉ」
「まじ? じゃあ適当に進んでたってこと? さすが神ね、すごい奇跡」
「というよりぃ、道の方が気を利かせてくれたのよぉ。私が左右で右を選べばぁ、じゃあ右を正解にしますぅ――ってね!」
「……阿保らし」
「嘘じゃないもぉぉぉん」
ぶりっこラヴァーソウルを無視して進み、そうしてようやく決戦の地へ辿り着く。
「着いたわね……妻は家にいるかしら」
「どうかしらねぇ。でもまぁ、いなかったらいなかったで次の機会にすればいいじゃない」
「それもそうね、だるいけど。じゃあ行ってくるわ」
「はぁい、楽しんできてねぇ」
手を振るラヴァーソウルに見送られ、敷居を跨いで玄関へ。取り立てて変装をしている訳でもなし、配達員などに誤魔化すこともできない。
チャイムを押してしばし待つ。
駐車場付きの戸建て三階。伊邪那美町の地価からすると、宝くじの高額当選で買えるくらいの物件か。
素直に出てきてくれれば良いものだが……
『はい』
インターフォン越しに妻の声が流れてくる。
ちっ……分かってはいたけれど、易々と表には出てこないか。セールスの真似事では余計に突っ張ねられかねない。
ここは一つ、善良な市民の振りでもしてみるかな。
「すみません。飼い猫がお宅の敷地に入ってしまったみたいで、上がらせて頂いてもよろしいでしょうか」
「……ご勝手に」
ご勝手にって……あんたの家の庭に入るんだぞ。
様子を見に来ないのかよ。
「じゃ、じゃあ失礼します……」
くそ……
たかが面と向かうだけと高を括っていたが、こんなところで躓くとは。
「え、えぇと……タ、タマァ……タマァ、出ておいで~」
タマって……自分で呼んでおいて古臭い。
さて、ここからどうするべきか。
「ここかな~、いないか。タマァ、どこ行ったの~」
いねぇんだよ、タマなんて。
ここはうんと長引かせて、痺れを切らして出て来させたところを狙うことにしよう――って……
ふと顔を見上げた先。
カーテンの隙間から覗く仄暗い瞳が、私をじっとりと見つめていた。
「ひ……」
思わず腰が抜けてしまって、その場にぺたんと座り込む。
なんだこいつ、気味が悪い。
だがしかし……これはいい機会だ。
「すみません……腰が抜けてしまったみたいで、引っ張り上げてくれませんか?」
窓越しの妻と思わしき女に手を差し出し、善意に縋ってみるものの。
「…………」
み、見てんじゃねぇよ……助けろよ。
なんつう意地の悪い女だ。
こんな……こんな……
「こんな女が……江恋の妻だなんて……」
自力で立とうとしたその矢先、唐突に窓の開く音がした。
ざすざすと地面を鳴らす足音に、はっと顔を仰ぎ見れば、目先には怒り狂う形相が迫り来る。
「アバズレがぁあああ! 江恋を狙うゴミムシめぇえええ!」
女に首根っこを掴まれて、そのまま地面に押し倒される。
女の目は血走って、完全に我を忘れている。
まずい……息ができない。
それよりも……意識がもたない。
早く腕をひっぺがさなきゃまずいのだが、あえて掴まれる首から手を離し、懐の包丁の柄を握ると、渾身の力で振り回す。
「ぎゃっ!」
刃を掠めて飛び散る血飛沫。
腹を押さえる女は背を向けると、家の中へと逃げ去った。
「げほっ……ま、待てぇ……」
女に騒がれて、そして叫ばれてしまった。
こうなってしまったら一秒でも早く、速やかに殺さなくては。
後を追って家に飛び込むと、扉から廊下に逃げこむ女の姿が見えた。その背中を追いながら、私は片手に持つ包丁を振り上げる。
「あはは……殺してあげるぅ! めった刺しにしてあげるぅううう!」
必死に逃げ惑う女だが、突き当たりの扉を開く隙に更に距離は縮まった。
通報の隙など与えるものか。次に足を止めた瞬間に、背中を串刺しにしてやる。
続く部屋は寝室で、部屋の中央には癇に障るダブルベッドが置かれている。
女はベッド越しのクローゼットまで駆けつけると、取っ手を掴み扉を開け放つ。きっと中に逃げ込むつもりなのだろうが――
狩りという野蛮なジャンルがなぜこの世から廃れないのか。それが今、分かった気がする。
獲物を追い詰めた際の高揚感は何物にも代え難く、駄目だと分かりつつも叫ばずにはいられない。
「甘いわぁあああ! 死にさらせぇえええ!」
あとちょっとで正義の刃が女を貫く。
死に間際に振り返る女は歪に醜く、邪悪な笑みを浮かべていて――振り向き様に一閃、刃が掠めて髪が舞い散る。
「……え?」
まさに間一髪。
女が手に持つものが直撃していれば、私の頭は砕けていた。
「な……なんで……クローゼットの中に斧なんか……」
「形勢逆転んんん♪ 護身用に入れておいたの、キャンプ用の巻き割り斧をね」
や、やばい……リーチが全然違う。
私の包丁はせいぜい刃渡り三十センチがいいところだが、女の斧は七~八十センチはありそうだ。
女は斧を両手にじりじりとにじり寄ると――
「このぉおおお……泥棒猫がぁあああ!」
慄き飛び退くと、目先で振り下ろされた斧が容易く床板を叩き割った。
「ひぃぇぇぇ……」
「よくもビビらせてくれたわね。こんな程度じゃ済まさない!」
女は闇雲に斧を振り回し、刃は壁を裂いて床を砕く。
大振りなので素人目にも避けやすい。しかし当たれば即死か、少なくとも重傷は免れない。
「た、助けて……死ぬ……死んじゃう……」
「旦那に手を出す輩は……全員ぶっ殺してやるぅううう!」
やばい……この女はいかれてる。私以上にいかれてる。
荒れる女から逃げ惑い、扉を抜けて廊下を走ると、続く部屋はリビングだった。
「な、何か使えるものは……」
ざっと部屋を見渡すが、斧に勝る武器は何もない。
振り返ればすぐそこまで女は迫ってきていて、咄嗟にダイニングテーブルの花瓶を掴むと、女の顔に思い切り投げつけた。
「うぎゃ!」
額が割れたのか、床には鮮血が飛び散った。
女は痛みに蹲り、その隙に私は包丁を振り上げる。
「死ねぇえええ!」
女の斧には重みがある。今から振り上げたところで間に合わない。
これで勝ったと――そう思った次の瞬間には、私の目はいつの間にか天井を見上げていた。
勢いよく後頭部を打ち付けて、ぐわんと視界が大きく揺らぐ。
ぼんやりと二重に見える女の手は、床に敷かれた絨毯を握っていた。
「引っ張ったのか……絨毯を……」
絨毯から手を離すと女は立ち上がり、私も包丁を握り直すが、掌は空しく空を握った。
「な……ない……包丁はどこ!?」
転んだ時に手放していたのか。目先三メートルの位置に転がる包丁。
変わらぬ距離には斧を手に持つ女が見下ろす。
「あ……あぁ……」
「私の勝ちね」
床に刃を擦りながら歩み寄る女。側に来ると立ち止まり、両手で斧を掲げた。
「し、死にたくないの……殺さないで……」
「私だって殺されたくない。でもあんたを殺すのは構わない」
やだ……やだやだ……やだやだやだやだ……
隙だらけのところを一突きして終わりだったはずなのに。
なんでこの私がこんな目に。
身に迫る恐怖に堪え切れず、遂に私は目を閉じた。
斧が頭に振り下ろされてしまえば、二度と開くことのない瞳を。
…………
………………あれ?
待てど待てど、その瞬間は訪れない。
怖がる私を見て楽しんでいるのか。
恐る恐る目を開いてみると、そこには依然として斧を振りかぶり、小刻みに腕を震わせる女の姿がまま残っている。
なぜ振り下ろしてこないのかと、しかし改めて思う。
私も決意するのに時間が掛かった。ならばこれは、良心の呵責なのでは?
人を殺すのには勇気がいる。女は私を殺すことに、殺人に手を染めてしまうことに、躊躇いを感じているのでは?
女が躊躇う隙に、私は女の足に体をかました。
バランスを崩した女は床に倒れて、手放した斧が顔に迫ると――
「ぎゃああああああ!」
おでこから顎にかけて、女の顔面に深々と刃が食い込んだ。
床の上でじたばたともがく女。
その隙に私は手放した包丁を拾い上げると、女の腹の上に跨った。
私を殺すことを躊躇ってくれた優しい女。最後のチャンスを手放した、愚かな東条江恋の妻。
両手に柄を持ち直して、高々と腕を振り上げると、鋭い刃を思い切り、女の肩に振り下ろす。
「うぎぃぃぃ……」
この私は躊躇わない。なぜなら女と違って私の行いは罪ではない。
人の法に触れない、神の法の許しを得た、正当な裁きなのだから。
痛みに震える女は血の混じった涙を流し、縋るように手を伸ばす。
「お願い……痛くしないで……」
死ぬことは確定的で、それが女の望みだった。
そしてその答えは――
「駄目ぇぇぇ……」
再び刃を振り下ろすと、傷口からはどくどくと血が溢れ、口からもげぼげぼと血を吐き出す。
そんな憐れが楽しくってしょうがなくて。
でもこれは裁きなのだ。後悔と懺悔の時間を与える為にも、私は何度も何度も、泣き叫ぶ女に包丁を突き立てた。