泥沼の様相
「あの……ありがと。私を助けてくれて……」
ラヴァーソウルの助けがなかったら、きっと取り返しのつかないことになっていたはず。こればかりは私に非があって、彼女は命の恩人と言っても過言ではない。
素直に頭を下げるものの、ラヴァーソウルは厳しく眉を吊り上げる――といっても元が垂れているのだ。これでようやく常人並みか。
「一体どういうつもりぃ? 愛美の恋のお相手は東条江恋じゃなぁい。私は浮気には、とぉっても厳しいんだからぁ」
「そ、そうは言っても……」
だって江恋は結婚していたんだもの。
仮に江恋と関係を持ってしまえば、それこそ不倫になってしまう。
「……何か、訳ありかしらぁ?」
落ち込んだ心持ちが顔に表れていたのだろう。俯く私を覗き込むラヴァーソウルの顔から険が取れていく。
目尻を垂らして心配そうに――といっても元から垂れているのだ。単に戻ったが正解か。
「実は……」
私はラヴァーソウルに事情を話した。
認めたくはないが、江恋には妻がいること。悔しいが、毎朝弁当を作る仲で、冷えた関係でないことを打ち明けた。
歳の差や身分差や男女差であろうとも、いかにハードルが高かろうが、法で裁かれる訳ではない。恋愛はあくまで自由であり、非難される謂われもないだろう。
しかし不倫はそうはいかない。恋人関係の浮気なら取り入る隙もあろうものだが、不倫は不法行為で裁かれてしまう。
先に挙げた格差とは次元の違う領域だ。
「――ということで、江恋は既に人のものだったの」
全てを語り終えると、私は力なく項垂れた。なんだかもう気力がなくって、仕事も美の追求も、全てに於いてやる気が出ない。
そんな私を見たラヴァーソウルは懇ろに腰を折ると、慰めの言葉を――
「えっとぉ……今回の浮気の理由はぁ、何時になったら話してくれるのぉ?」
……は? これだけ説明してもまだ分からないというの?
「あのね、東条江恋は既婚者で、恋愛対象から外れたのよ。だから今回のこれは浮気ではなくて、単なる私の自暴自棄ということで――」
「待って待ってぇ、ちょぉっと意味が分からなぁい。既婚者であることとぉ、恋愛対象から外れることがぁ、どうしてイコールに結びつくのぉ?」
り、理解できないって……
そうか、ラヴァーソウルは神様だからそういう法を知らないのか。一夫多妻が許される国もあることだし、その逆だって見てきたのかもしれない。
「あのねラヴァーソウル、この国では不倫は不法行為とされるのよ。だから既婚者との恋愛は許されないの」
「法律なんてぇ、そぉんな下らないことどうでもいいわぁ。神に人法なんて無意味だものぉ。恋の女神が認めればぁ、そんなものは無視しておっけぇ」
いやいや……お前が良しでも、この社会がそれを許してはくれないんだって。
「そんな簡単じゃないのよ! それに仮に付き合えたとして、その後の生活はどうするのよ。多額の慰謝料に加えて社会的信用も失っちゃう。バレずに逢引だなんてもっての外だわ。それともまさか恋人さえいれば、その他の地位や財産はどうでもいいなんて、社会を舐めた発言をするつもりじゃないでしょうね」
そんな話は夢物語。どれだけ愛し合っていたところで健全な環境が愛を育む。
おまけに多額の慰謝料を抱えては美容にお金も掛けられない。綺麗になるべきと言ったのはラヴァーソウルの方なんだ。
どうだ見ろ! 論破してやったぞ! 言い返せるなら何か言ってみろ!
「どぉして……」
「ん? なぁに?」
ふふ……項垂れちまって、上手く言葉が出ないのか?
神だからって偉そうにしやがって。
「どぉして話が偏る訳ぇ? 極端過ぎよぉ」
「え……と……それを私に向かって言うの?」
「だって愛美の頭が固いからぁ」
「あんたのは考え足らずって言うのよ!」
ラヴァーソウルの俯きは呆れからくるものだったようで、次に肩を竦めると、憐れむように私を見下す。
「そりゃあ究極の選択ならばぁ、愛する人を取るべきだわぁ。でも愛美の選択はまったくもってぇ、切羽詰まっていないものぉ」
「え?」
これのどこが追い詰められていないだなんて、もはやチェックメイトだ。
諦めか破滅か二つに一つ、もはや手の打ちようのない負け戦のはず。
「んもう、鈍いんだからぁ。東条江恋も社会的信用もぉ、どちらも取ればいいじゃなぁい! たった一度の人生なのだからぁ、もぉっと欲張っちゃえ☆」
いや……いやいや……いやいやいや……
「どぉおおおっやって、両方を取るって言うのよ! 裁判でもして私の愛が正しいと立証する訳? そんな判例ある訳ない! 無理無理、絶対無理に決まって――」
「殺せばぁ?」
「え?」
「裁判って何それぇ。ちょぉぉぉ面倒くさぁい」
「面倒って……いや、それよりその前にとんでもないことを……」
「もぉっと欲張っちゃえ☆」
「その後!」
しばしの間考えるラヴァーソウル。
閃いたかのように手を叩くと、満面の笑みを咲かせてみせた。
「殺しちゃえ☆」
「それよ!」
両手に握り拳を作り、小さくガッツポーズのつもりなのか。
当たって嬉しいってか……あざとい女め。
「無理に決まってるでしょ! 殺せるかどうかは別として、江恋の妻は何もしてない。いじめた同僚やさっきの男たちは死んで当然だけど、彼女は無罪だわ。罪なき人を殺すだなんて、犯罪か否かのそれ以前に良心が許す訳がないでしょう!」
「えぇぇぇ。何もないならぁ、余計に死んだって構わないと思うのだけどぉ」
な、なんて思考なの。こいつ本当にどうかしてるわ。
「でもでも、自分がされたら嫌でしょうが! さっき浮気は許せないって言ってたし、仮にラヴァーソウルが奪われる立場なら、あなたはそれを許せるの!?」
これまでのおちゃらけた雰囲気は、私の一言で吹き消された。
「 」
口元が微かに蠢き、きっと呪いの言葉だったのだと思う。
仮に囁く怨念が耳に届けば、私の心は灰になっていた。
「でしょう……そうでしょう! 自分がされたら嫌でしょう! 東条江恋の妻は恋を競ったライバルでも無ければとうに先約。そこに私が付け入るなんて……」
「あのぉ……お言葉だけどぉ、自分がされたら嫌だから諦めてしまうなんてぇ、ちょぉぉお馬鹿げてるわぁ」
ああ言ったらこう言う。本当にこの女神ときたら……
「例えば愛美に好きな男がいまぁす。だけどその男が好きな女は、愛美の他にも沢山おりましたぁ。愛美より先に好意を抱く女もいるけれど、愛美はその女たちの顔も名前も知りませぇん」
「いきなり何を……」
「でもぉ、愛美は諦めるのよねぇ? 優しい愛美は見ず知らずの女の恋を応援するのよねぇ? だって先約なのだしぃ、自分がされたら嫌だからぁ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 見ず知らずの女に譲るだなんて、そんな訳あるか! それに結婚してるとそうじゃないとでは、話が全然――」
「違わなぁい。結婚なんて人が決めた契でぇ、私にはなぁんの関係もないものぉ。自分が奪われるのは許さない、けど自分が奪うのは構わなぁい。恋ってそういうものでぇ、理論で解そうなんて愚かだわぁ」
譲り合いの精神はとても大切。
与えれば与えられ、分け合えば分けて貰える。綺麗ごとでなく常識で、そうすれば世界は救われる。
しかし恋心ばかりはそうはいかない。人にあげることは出来なくて、分けることだってできやしない。
恋愛だけはいつ何処の世界に於いても、貪欲非情な泥沼の様相だ。
「いぃい? 愛美の運命は東条江恋に繋がれてるのぉ。だ・か・らぁ、勇気をもって、自信をもって――江恋の妻を殺しなさぁい」