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運命の人

 翌朝に目覚めて真っ先に目に映るのは、ベッドに腰掛けるラヴァーソウルだった。

 目蓋を擦って見返しても、やはり姿が消えることはない。


「おはよぉ、愛美(まなみ)

「はぁ……夢じゃないのね」


 大学までは真面目一辺倒だったが、働きはじめてから三年の内に、私はお酒を嗜むようになった。

 過酷な社会に解き放たれ、生き辛さを痛感し、そして酒の味は世の憂いを紛らわしてくれる。

 毎夜の晩酌が日課となり、昨夜も私は酒を飲んだ。目の前で微笑むラヴァーソウルを前に、これは疲れからくる幻覚かと、そう思っていつもより深めに飲んだ。

 少しだけ饒舌になった私の話をラヴァーソウルは静聴し、ただただ相槌を打つのみ。

 これが幻覚なのであれば、私は一人で語り続ける頭のおかしい人間になってしまう訳なのだが、こうして日を跨いでもラヴァーソウルはそこに居て、依然変わらぬ微笑みを湛えて私の寝ぼけ顔を見下ろしている。


「酷い顔してるわぁ。これから恋を実らせようというのにぇ、ぜぇんぜん相応しくなぁい。私が化粧の一つくらい教えてあげてもよくってよぉ」

「えと……うん……じゃあお願いしようかな」


 勢いで同意してしまったが、まずは眠気覚ましに洗面台へ向かう。

 顔にばしゃばしゃと水を叩き付ける私を見るなり、ラヴァーソウルは大きく溜め息を漏らすと、泡立て方からすすぎ方まで逐一私に指摘をしてきた。


「駄目よぉ、駄目駄目ぇ。ぜぇんぜん駄目ぇ。強く擦り過ぎよぉ。もっと優しくぅ、乙女の秘密に触れる様に――」

「ぶはっ」

「あららぁ、愛美はしないのぉ? オn――」

「言うな!」


 ななな、なんて破廉恥な女なの。

 そりゃあまあ、慰めの一つもしない訳ではなかったり……なんだったりではあるけども。


「うふっ、愛美はとぉっても可愛いわぁ。二十半ばにしてとても初心。化粧を怠るのは感心しないけどぉ、お陰で肌は美しいものぉ。ちゃあんとお手入れすればぁ、もっともっと輝きを増すのだからぁぁぁ」

「そ、そうかな?」

「そうよぉ。通った鼻筋に少し吊り気味の意志の強い眼。すごぉく私の好みぃぃぃ。知的で端正な美人さんだわぁ」


 褒められるのは嬉しいけど、ラヴァーソウルの好みというのは些か疑問だ。

 女が女に好みって……単に理想の話なのだろうか。それとも神には性別など関係ないのかな。


「洗顔も済んだし、化粧をして早く家を出ないと。会社に遅れちゃう」

「駄目よぉ、まだ洗顔してばかりじゃなぁい。お化粧までは時間を置かないとぉ」

「え? そういうものなの?」


 社会のマナーレベルの薄化粧ならさすがの私もやってきた。

 だが今までは顔を洗ってすぐに化粧をしていたんだけども。


「本当、今まで美に疎い生活をしてきたのねぇ。これはそもそものぉ、食生活から見直さなきゃ駄目だわぁ」

「そこまでやらなきゃ駄目? でも今からやったら会社に遅れ――」

「会社なんてどうでもいいわぁ、美の方がよほど大切。それでも遅れたくなければぁ、もっともっと早く寝てぇ、早起きすることが大切ねぇ」


 私の唯一の楽しみである晩酌。今後はあまり楽しむことはできないようだ。

 そうしてラヴァーソウルの言うがまま、私は人生初めての遅刻をした。

 学生時代すら無遅刻の皆勤を続けてきたというのに、まさかはじめての遅刻が、単に美容の為だとは笑えない。

 幸いにして普段から真面目を通す私は、それほど大きな叱咤は受けなかった。やれやれ、次からは気を付けなさいよと、その程度の注意で事なきを得た。

 遅刻を挽回する為に必死にデスクに齧りついていると、私に近づく一つの影は、パソコンと画面を睨む私の間に割って入って、爽やかな笑みを咲かせたのだった。


「蓬くん、今日も一段と頑張っているね」

「と、東条さん……」


 東条(とうじょう) 江恋(えれん)。私の会社の上司だ。

 一流企業のこの会社の中に於いても、ひときわ才に溢れて社内の注目を集める者。

 普段は彼と接することはほとんどない。部署は違うし、上司と言えど直属ではないからだ。

 社内で会えば礼儀としての挨拶を交わす程度であり、そんな東条江恋がなぜ私のデスクに?


「君の話はかねがね聞いているよ。とても真面目な社員と聞いている。そんな君が今日は遅刻をしたと聞いてね」

「す、すみません。本当に。今後は絶対にないように努めますので」


 わざわざ遅刻の注意をしに来たというのか。

 であれば評判を覆す、意地の悪い男であるのだが。


「いやいや、叱りに来たという訳じゃないんだ。ただ悪気はないんだが、今までの君は遠目にもお堅く見えてね。部下とは皆、フレンドリーに接してきたつもりなのだが、君には今まで少し敬遠していた。しかし良いこととは言えないが、今日初めて君にも人間らしいところが見えてね。それで声を掛けてみようと思い立った訳だ」


 部下とのコミュニケーションを大事にする気持ちは殊勝だが、とはいえこのタイミング。

 才ある者は、やはり変わり者が多いのだろうか。


「は、はぁ……それはどうも」

「ふふ、やはり君は面白そうだ。それに遅刻した割にしっかり化粧をしているね」

「あっ! これは……その」


 確かに江恋の言う通り、遅刻した癖に化粧ばっちりとは可笑しい話だ。

 慌てて顔を覆い隠すものの――


「似合ってるよ。とても綺麗だね」


 え?

 私が……綺麗?


 ラヴァーソウルもそう言ってくれた。

 そして目の前の男、東条江恋も同じく綺麗と。

 私の心は舞い上がるが、真実は単にお世辞であり、それこそ世を生きるマナーであって、そしてコミュ障の私には無縁だったもの。

 だから私にはその言葉が、心にもない愛想と区別する判断材料を持ちえなくって。


 私は綺麗、本気になれば更に。

 確固たる信念に近い思い込みと共に、私は決意する。

 二十半ばにして、私は美の頂点を目指しはじめる。

 そして私を綺麗と言ってくれた東条江恋、彼の心をきっと掴んでみせる。

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