過去の清算
「と、友香……友香ぁあああ!」
居ても立っても居られなかった。寝台に縋り付いて、必死に友香に呼び掛けた。
私はなんて馬鹿者なんだ。嫉妬に狂い、あわや殺そうとするなんて。
なんて愚か、なんて薄情、なんて残酷。
友香はかけがえのない、大切な親友だというのに。
「愛子ぉおおお……愛子ぉおおお……」
床を這いずり早乙女恋治が迫り来る。
しかし私は待てない。ラヴァーソウルを待つことはもうできない。友香は今すぐにでも、病院に運ばなければならない。
それに今になって改めれば、ラヴァーソウルという存在は――
もはや次に近付いた時には戦わざる負えないだろう。
しかし恋治は、私の攻撃の間合いの少し手前で動きを止めた。急がなければならないが、失敗だけは許されない。
慎重に間合いを計る内に、恋治の顔は悲しみから苦悶の表情へと移り変わる。
「や……やっぱりできないよ! 僕には君を殺せない! 愛子の嫌がることなんて、一つもしたくないんだ!」
今さら何を……嫌がることなら、既に十分しているじゃないか。
「絶対に君を振り向かせる! 僕はもう一度、愛子に好きになってもらうんだ」
正々堂々とした告白だが、それだけは絶対にない。金輪際、永久に早乙女恋治を好きになることはありえない。
私の愛は偽物だった。それは憧れ故に盲目となった、愛に似た別の何か。
しかし恋治の愛は歪でありながら本物だ。だから殺せない。私がどんな態度を貫こうと、恋治に私を殺すことはできない。
だが彼の母親のことを聞く限り、殺されなければ安全ということもないだろう。
「愛子、一緒に住もう! 僕の家で一緒に住むんだ! 外に出なくても不自由しないよう頑張るよ! 君の為に全てを捧げるつもりだ!」
「私を監禁するつもりね?」
「監禁なんて言わないでくれ……同棲だよ。僕と愛子の愛の巣だ!」
もはや何を言っても通用しない。これまでの私が頑なだったように、愛に盲目な人間には何を言ったところで聞く耳を持たない。
分かっていたが、やはり強行手段に出るしかない。
「あ、愛子……大丈夫……」
恋治と対峙する傍らで、絞り出された掠れ声。
その聞き慣れた親しい声の主は――
「と、友香! 良かった! 意識を取り戻したのね!」
「愛子……大丈夫だから。本当にもう……大丈夫」
しきりに大丈夫と呻く友香を見て、恋治はまるで時を止めたかのように、ぴたりと動きを静止する。
ただ一つ、こめかみに浮かぶ青筋の脈動を除いてだが。
「津雲ぉ……なぁにが大丈夫だって言うんだ。たかだかケーキの分際で、僕と愛子の会話に口を挟みやがって」
「そりゃあ挟むわよ……愛子は私の大切な……親友なんだから!」
恋治の言うところのウェディングケーキの反論に、無表情の仮面は瞬く間に憤怒の面にすげ変わる。
「自分がどういう状況か、分かって言ってるんだろうね。僕の気一つで、直ちに君の命は断たれるというのに」
「残念ながら、直ちの間もなく終わりは来るわ。助けはもう、すぐそこまで来ているのだから」
助け? というより友香の口調。思いの外はっきりとしてる気が……
「そんなものは来ないよ。いつどこで助けを呼ぶ暇があったというんだ。君の携帯端末は来る途中に廃棄したし、位置情報だって分かりはしない」
「あら、案外馬鹿なのね。時代は進化してるのよ。一昔前の推理トリックなんて通用しない時代になったのよ。さっきと今とで、私に違いがあるのが分かるかしら」
そういえば、バッグから転がり出た友香に感じた違和感。
磔になる友香の捲れる袖。その手首には寝台の皮ベルトとは太さの違う、微かなベルト跡が残っている。
「君の時計、まさか……」
「そのまさかよ。スマートウォッチをバッグの中で操作するのは難儀だったけど、通信も位置情報も、全ての動向は筒抜けだわ!」
その直後、上階で何者かが床を踏み鳴らす音が響き渡った。
「なっ……騙したのか!?」
「人聞き悪いわね。途中まで意識が混濁していたのは本当よ。だけどお陰で確たる証拠まで辿り着けた。これであなたはチェックメイトよ!」
恋治はすぐに立ち上がるが、次の行動に出る間際――
「オラァ! 開けんかいッ!」
凄まじい怒声と、扉を叩く衝撃が部屋を揺らす。
恋治は恐怖に固まり、その隙を見た私はすかさず扉へと駆け出した。
気付いた恋治は私を追い、その手が肩に掛かると私を後方に引き戻す。
だがその時には既に、扉の鍵を開くことができていた。
「コラァアアア! てめぇかぁあああ! 早乙女恋治はぁあああ!」
怒号と共に土石流のようになだれ込んでくる大男。柄の悪いその者たちは、決して正義に動く警察には見えない。
そんな荒くれ者たちの波の奥で、戸惑う一人の少年がいた。
「愛子!」
「きょ、京介っ!」
私を見るや否や、京介はすぐに駆けて来て、震える私を胸の内に抱き寄せた。
「京介、この人たちは……」
「大丈夫だ、愛子。この人たちは俺らの味方だ」
一見すれば悪者に見える者たちだが、私には誰だか理解できた。京介は過去の貸しを、今ここで清算したのだ。
扉の奥からは大男たちに続いて、いかにもといった風貌の初老の男が姿を現す。
彼は落ち着いた様子だが、目の奥に光る眼光はこの場の誰よりも鋭いものだ。
「愛子さん、もう安心したまえ。あとは我々に任せるんだ」
ドスの利いたしゃがれ声、身の内に紋々を刻む、この者はヤクザの長だった。
なぜ闇に生きるこの者たちが、私たちに力を貸してくれるのか。それは子の命という大きな借りが京介にあるから。
「京介くん、これで過去の貸し借りは清算された。例え顔馴染みとはいえ、今後はヤクザを頼ってはいけないよ。私たちには面子があり、例え恩人といえども、今後頼るようなことがあれば、相応の見返りを求めなければならない」
「分かってます。お願いするのはこれっきり、今後は関わることも控えます」
恩人に対しての決別ともいえるが、社会の表と裏。京介の出した答えに、男は満足げに頷いた。
しかしここで一つ疑問が残る。餅は餅屋に。犯罪は警察に。なぜ京介は警察に通報しなかったかという点だ。
「京介は、なんでこの人たちにお願いしたの?」
「友香から送られたのは位置情報だけだったんだ。明確なSOSではなく、たったそれだけ。それだと警察もすぐに動いてくれるかは分からない。でも俺は一刻を争うことかもしれないと感じた。だからすぐに動ける、この人たちにお願いしたんだ」
京介は過去、助けた恩を受け取らなかった。だが友の為となれば、プライドもかなぐり捨てて助けを求める。
昔から京介はそれができる男の子。
「は、離れろぉおおお! 愛子の側から離れろぉおおお!!」
取り押さえられもがく恋治は、己の身の危険より私の名を叫ぶ。
異常な執着に身震いしたが、それも大の男数人の前ではどうすることもできず。
最後まで私への愛を叫びながらに、早乙女恋治は何処ぞ闇の世界へと連れていかれた。




