その者、恋愛成就率100%!
鳥居を抜けた先、本殿に続く道のりは薄暗い。
陽の傾きはさしたるものではないのだが、この怪道だけが一枚フィルターを隔てたかのように、異様な赤黒さに包まれている。
肌をなぞる生暖かい風は人肌のようで、それが全身を這い回ると凌辱されているようで吐き気がする。
けれど暑苦しさはなく、気色悪さは悪寒に変わり、寒気に体の震えは止まらない。
さざめく竹並木は嘲笑に似て、連なる”のぼり”の切れ端は血だまりのように点々と道に染みている。
「ここって……本当に恋の神社なんだよね……」
まるで暴いてはならない禁忌を冒しているようで気が引ける。
そんな不安を押し殺し、私は確かめるように問いかけるのだ。本音はすぐにでも逃げ出したいが、私の恋心は普通をしていたのでは為し得ないと、強く自分に言い聞かせる。
震える脇を両手で抱えて、息すらも殺し、必死に耐えて堪えて、本殿までの道を歩み続ける。
一歩足を踏み出すごとに何かが起きそうで、でも何も起きなくて。そうしてようやく本殿の前まで辿り着き、面を上げて全貌を見渡す。
旧きと言えば良い表現だけれど、事実は劣化して腐った木柱が支える。今にも崩れ落ちそうな本殿だが、迫るような尋常ならざる迫力も湛えている。
見上げた視線を落とすと、朽ちた賽銭箱に解れた鈴緒が目に入る。奥は淀んだ黒だけが続いていて、何故だが正視を憚れた。
改めて辺りを見渡してみても、建物はこの本殿のみで、あとは紫焔に盛る小町草が広がるのみ。
絵馬やおみくじはなさそうだし、とりあえず賽銭を投げて、お祈りをすれば良いのだろうか。
賽銭といえば五円玉、財布を開いて小銭を探る。
だが今回は突然の参拝で予定にあった訳ではない。あいにく財布の中に五円玉はなくて、仕方がないので他の硬貨で代用することに。
五十円でも大丈夫かなと、そう思った矢先のこと。ふと私は五円玉のありかを思い出した。
それは”とある”有名な縁結びの神社のお守りで、恋治先輩の写真と共に真心こめてしたためられていたはず。
格式高い神社のご縁を抜くのは気が引けるが、わざわざこんな恐ろしい思いをして本殿まで訪れたのだ。使うべき場所はここしかないと、胸に決意を固める。
鞄の奥底に眠る、新品同様に綺麗なお守り。それを取り出すと、次に中の五円玉を抜き出した。
だけれど恐怖に包まれる中、震える私の指先は誤って、恋治先輩の写真をも引き抜いてしまった。
そしてなんと風に乗って何処へやら、空の彼方へと飛んで行ってしまったのだ。
「そ、そんな……嘘でしょ……」
縁結びのご利益のある五円玉はおろか、大切な恋治先輩の写真まで失ってしまうなんて。
これで写真のスペアの残りが、たったの五百十一枚になってしまった。
ここまでやって効果がなければ堪ったものではない。なんとしてでも叶えて欲しいと、その切なる想いで、私は霊験あらたかな五円玉を投げ入れようとした――間際のことだった。
凶。
不吉の念が頭を過った。
これが最後の選択で、投げてしまえば後戻りはできない。身の危険を察知するかのように、体はぴたりと動きを止める。
本当に投げ入れてよいのだろうか、今なら何事もなく帰ることができるのではと、固く目を瞑り思考を巡らす。
そして私が出した結論は――
からん……ころん……
空の掌を広げ、賽銭箱の前に立ち尽くす。
もう後には戻れない。私は恋に生きるが故に愛子の名を授かったのだ。恐れてなどいられない。
ちぎれてしまいそうな鈴緒を握り、力強く左右に揺らす。
がらがらと乾いた音が鳴り、最後には両手を合わせて、恋治先輩への尊き想いを深く深く祈るだけ。
「どうか……どうか恋治先輩と結ばれますように――」
何千回、何万回と祈り続けたこの想い。
恋の神様……もし存在するのであれば、どうか私の願いを聞き届けて!
…………
…………
…………ふ……ふふ……
後には静まりかえる境内。聞こえるのはただただ自嘲する私の嗤いだけ。
願いの返事など、未だかつて返ってきたことは一度もない。
残酷な神様……きっと恋の神様は選ばれた者にしか微笑まないのね。
体感では何時間もの間、祈り続けたような気がする。あるはずのない返事に期待して、期待の分だけ裏切られ、落胆に落胆を重ねていく。
自虐が不幸を呼び込んで、精神の地獄に堕ちた私は、現実を見るべく重い瞼を開いたのだった。
ひ――
「ひぃぃぃぃぃぃ」
陰気で陳腐な私の人生で、初めての悲鳴だと思う。
そんな私のバージンを奪い去った、視界の先に映るものは――
紅蓮の瞳は燃え盛り、銀の髪が冷たく輝く。
血の気の薄い白肌と、枯れ枝のように痩せた肢体。
死者のようだが麗しく、神々しくも艶やかな、そんな矛盾した女が吹く息すらも届く眼前で、猥らで淫らな、乱れた笑みを張り付ける。
「こんにちはぁぁぁ、びっくりさせちゃってごめんなさぁぁぁい……」
初対面での挨拶は大事だけれど、今の私にそれを気にしている余裕なんか到底なかった。
「あ、あなたは……誰……?」
「あらぁ、誰とは失礼しちゃぁう。あなたぁ、私を訪ねてきたんでしょぉ?」
「私が……あなたを?」
女は寄せた顔を離すと、くるりと回って背を向けて、三歩進んで立ち止まる。
ぴたり揃えた踵を返し、そして痩せた両手を天に掲げた。
「私は神様なのぉぉぉ。恋を司る女神、ラヴァーソウルよぉおおお」
その立ち振る舞いはまるで演劇。
薄暗い境内は演出で、天上世界から注ぐスポットを、一身に浴びる神を際立たせる。草木の怪しいさざめきは、万雷の喝采へと移り変わった。
「恋の神様が、この私に?」
「そぉそぉ、そのあなた」
「なんで私に……」
「いやん、同じこと言わせないでぇ」
「じゃあ私の願いは……」
「ぱんぱかぱぁん、叶いまぁす! 私の恋の成就率はぁ、100%だものぉ。それってぇ、あなたの恋が成就されるってぇ、それが決定したということなのぉぉぉ」
目の前の女は神だと言った。
それは恋愛の女神で、私の恋が叶うと言う。
やったぁ
やったぁやったぁ
やったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったったぁああああああははははははぁあああ!!!
遂に! 遂に私の祈りに神様が応えた!
私の今までの万の祈りは、決して無駄じゃなかったんだぁあああ!!!
「あはっ、とぉっても嬉しそぉ。私もとぉっても嬉しいわぁ。こんな所まで訪れるなんてぇ、あなたの恋はきっと本物でしょうからぁぁぁ」
「こんな所って、ここはただの縁結びの神社じゃないの?」
私の問い掛けにラヴァーソウルは口端を歪ませる。
それを笑顔と呼べないのは、彼女は先程から常に笑みを浮かべていて、それがつまり普段の表情。
これもある種のポーカーフェイスで、だからこそ感情の底が読み取れない。
「この神社はねぇ、探しても見つけることはできないのぉ。愛だけしか眼中にない、恋に盲目になった人にしか目にすることはできなぁい――って訳。それにせっかく見つけてもぉ、こわぁい雰囲気に吞まれて逃げちゃう人だっているのよぉ」
これで合点がいった。だからこの神社は突然に姿を現したのだ。
人目にはつかず、周りが見えなくなることで初めて見える。
そんな矛盾した恋の幻想。
「でもさ、恋心を見分けるのには便利かもしれないけど、何故わざわざ避けられるような雰囲気にしたの? 恋する人を見つけても、台無しになってしまうのに」
「わ・ざ・と・よぉぉぉ。あ・え・てぇ。その程度で逃げ出すようでは駄目ぇぇぇ。本物の恋とは言えないわぁ。私だってぇ、こぉんな小汚い神社よりバロックの絢爛豪華とかぁ、ロココの繊細な建築の方が好みだものぉ」
なんだろう、このラヴァーソウル。フレンドリーと言えば聞こえはいいが、私の大事な恋心をこの女に任せて良いものかと、不安になるような危うさを感じる。
「では早速、あなたの恋する早乙女恋治を見に行ってみましょうねぇ」
「な、なんで恋治先輩のことを知ってるの!?」
「自分で拝んでおいてお馬鹿ちゃぁん? 私は恋の女神なのよぉ、そんなことはお見通し☆――って、罵りたいのだけれどぉ、残念ながら心の中までは読めないのぉ」
舌先をちろりと出して片目を閉じる。好意を向けるのならウィンクと言いたいが、癇に障るのならこれは煽りだ。
「だったらなんで! 恋治先輩のことを!」
「写真よぉ、さっき手放しちゃったでしょぉ? 裏にはご丁寧に名前まで書いてあるじゃなぁい。仄かにうっすら甘ぁい香りも……あぁぁぁん、可愛い子ぉぉぉ」
片手に写真をチラつかせ、ラヴァーソウルは身を捩る。気色悪いが、しかしそれは大事な大事な五百十二枚目の写真なのだ。
「しゃ、写真を返してッ!」
奪い返さんと詰め寄るも、ラヴァーソウルはもう片側の手で私を押さえる。
かと思えば冷えた掌を私の頬に添えると、五指を這わせてうねらせて、なぞるように絡みつかせた。
そのあまりの悍ましさは全身を瞬時に粟立たせ、私の足を一歩退かせる。
「なんで意地悪をするの!? 返してったら!」
もう、この女に近寄りたくない。だが写真は返して欲しい。懸命に訴えてみるもラヴァーソウルは聞く耳持たず。
しかし次にラヴァーソウルが口にした言葉は、そんな些細な奪還欲を遥か上回る、大いなる欲求を刺激するものだった。
「どうしてぇ? もう必要ないでしょぉぉぉ? あなたはこれからぁ、触れもできない写真ではなくてぇ、早乙女恋治そのものを手にすることができるのにぃ?」
「れ、恋治先輩……そのもの……」
な……なんて……なんて魅力的な言葉だろうか。
もはや偶像崇拝と言っても過言ではない、恋治先輩そのものを手に入れることができるなんて、想像しただけで思わず自然と喉が鳴る。
「切ない想いに馳せてぇ、いたいけに体を慰めるんじゃなくぅ、あぁんなことや、こぉんなことだってぇぇぇ」
「そ、そんな下品なことを私は!」
「興味ある癖にぃぃぃ、うふっ」
「う……」
片手に摘まむ写真にすんすんと鼻を鳴らし、残る芳香に悦する女神。
このラヴァーソウルという神らしからぬ淫らな女。真に恋の女神であるならば、絶対に手放す訳にはいかない。
だけど気が合うかどうかと言われれば、私の生涯において絶対に交わることのないキャラクターだ。
「あはっ、意地悪しちゃってごめんなさぁい。でもねぇ、恋愛成就100%は嘘でも偽りでもないのぉ。何があろうと……絶対に……あなたと早乙女恋治を繋ぎ合わせてみせるわぁ」
変わらぬ笑みを張り付けながら、手を差し出すラヴァーソウル。
果たしてこの手は聖なる神のものか、はたまた穢れた悪魔のものか。目に見えるその手は友好を示す右手だが、傾く夕日が映す影は――