炎上商法
「小野さぁん。君あてに電話だよ」
「わ、私にですか?」
「そうだよ。櫛名田モデル事務所だってさ。まったく、電話は来るわ、決まったシフトを休みに変えるわ。バイトは気楽でいいよなぁ」
「すみません……」
伊邪那美町の郊外にあるコンビニ。小野千秋は昼夜を問わず働いている。
モデルの仕事は不定期だが、決まればそちらを優先せざるおえない。安定したシフトに入れない千秋は、どこに行ってもやっかみがられる。
とはいえ、千秋のモデルとしての仕事は決して多い訳ではない。掛け持ちしなければ到底生活などできないし、おまけに彼女は借金すらも抱えている。
辛くても、居づらくても、決して逃げることなどできないのだ。
そんな彼女に事務所からの電話。それほどの急用。
よもや大役の抜擢を期待する千秋は、勤め先の店長から電話の子機を受け取った。
「かわりました。小野で――」
「お前さぁあああ! 何してくれちゃってんだよ!」
この時点で、千秋の淡い期待はガラガラと音を立てて崩壊する。
何が何だか分からない。しかしこの怒号が良い知らせである訳がない。
「え、えっと、何の……」
「電話見ろや! おめぇのだよ!」
一体何がと、千秋は恐る恐る自身のロッカーから鞄を取り出す。
震える手は掴んだ端末を滑り落とし、床に当たる液晶は、獲物を絡めとる蜘蛛糸のように白く細かなひびが入る。
「まだかよッ!」
「す、すみませんすみません!」
慌てて端末を拾い上げる千秋。
そして映し出された画面の先には――
夥しい数の着信件数とメッセージ、そのほぼ全てが事務所関連のもの。
途端に血の気が失せていくが、まるで心当たりがない。怒号を飛ばされて、これほどまでに呼び出される心当たりが。
しかしその答えは同じく、手に取る端末の中にあった。
恐ろしい着信件数を更に超える通知の数、それはSNS。手に取るほんの僅かな時間にも、更に増していく通知の件数。
日常ならば喜びこそすれ、この場においては最早恐怖の報せでしかない。
しかし子機の電話口には事務所の担当、このまま目を背ける訳にもいかない。
震える千秋のか細い指は、ひびの網目に引っ掛かるSNSのアイコンをタップした。
『●ね。●●が』
『ちなこれ、中学の卒アル』
『俺の●●●も●●●』
『伊邪那美ラブ学院勤務、ヨシコ。今日も出勤。予約はここから』
「な、何よ。これ……」
目に映るのは正視に堪えない誹謗中傷。そして秘匿されるべき個人情報の数々。
小野千秋の生きる世界は小さく、モデルとはいえ雑誌に少々載る程度。この程度のスキャンダルは記者も大きく取り上げることはしないだろう。
しかしSNSは違う。たとえそれが一個人であろうが、目に留まれば吊るし上げ罵倒し、完膚なきまでに叩きのめす。
彼女の小さな世界は一気に燃え広がり、それを見ようと、あらぬ者までが集まってくる。
「何よ、じゃねぇんだよッ! てめぇが何しようがてめぇの勝手だがな、こうなると事務所のイメージにも傷が付くんだよッ! どうしてくれんだよッ! コラァ!」
炎上。商法としての利用価値はあるかもしれない。
しかしそれはただならぬ精神の持ち主だけが為しうる捨て身の技であり、小野千秋にはそれを活かす知恵もなければ、耐えうる精神も持ち合わせてはいなかった。
「あ……あ……」
「これが嘘か本当かなんて関係ねぇ。こうなっちまった以上は手遅れなんだよ。お前の処分はこれから決める。違約金も覚悟しとけよ」
「あ――――」
受話口からは不通音がこだまして、ぱたりとその場に崩れ落ちる千秋。
頭の中は真っ白で、生気の抜けたその顔は、端から見ればマネキン人形にすら思えてしまう。
「電話終わった――って、何? 今度は体調不良だとでも言いたいの? ほんと勘弁してくれよ。もう帰っていいよ。次から来なくていいからさ」
(あ……あぁ……なんで、なんでこんなことに。れ、恋治は……恋治はこのことを知っているの?)
絶望の淵に立たされる中、千秋の心に残るのは恋治だけ。
それだけが最後の灯火で、僅かな正気を蘇らせた。
(電話しなきゃ。恋治に電話しなきゃ。これは何かの間違いだと恋治に伝えなきゃ)
操られるように動き出す千秋。その様はマネキン転じて、さながらマリオネットといったところ。
ひび割れた画面の中から、愛しい者の名を探し出す。
もし今ここで話せなければ、きっと心が壊れてしまうと、千秋は一縷の望みをかけて早乙女恋治に電話を掛けた。
一コール、二コール。
千秋の微かな心の火は次第に次第に衰える。
三コール、四コール。
頭の内がぼやけ、コール音は徐々に耳から遠のいた。
●コール、●コール、●コール、●コール……
もはや分からない。何コール目かも分からない。
それでも千秋は掛け続ける。止めればそれで全てが終わってしまうから。
「もしもし、千秋?」
果てしないコール音の先、早乙女恋治は電話に出た。
微かに残る命の火種に再び火が灯る。
「れ、恋治……恋治っ! 出てくれた、私の為に出てくれた! 良かった、良かったよぉ……あのね、聞いて! 私は!」
「落ち着いて、千秋。落ち着いて……」
千秋の瞳からは安堵の雫が溢れ出す。
「恋治! 聞いて! あのね……聞いて欲しいの! 私は……」
「落ち着くんだよ、千秋。落ち着くんだ。事務所から事情は聞いたさ。びっくりはしたけど、何かの間違いだと思っているし、仮に本当だとしても、僕は君を軽蔑したりはしないよ」
「恋治ぃ……」
夢が破れるのは悲しい。素性が知れれば、この先ずっと生き辛い。
それでも恋治がいれば救われる、そして生きられる。千秋の荒んだ心に一筋の光が差したのだった。
しかし人は欲の深い生き物で、与えれば与える程に次を求める。声を聞ければと願った千秋だが、その心には次なる願望が宿りはじめる。
「恋治、今どこ? 会いたいよ。会って話したい……」
「千秋……」
話したい、会いたい、抱きしめて、キスして。
欲望は果てしなく、限りなく続いていく。
どこまでいこうが、人が満足することなど決してないのに。
「ごめん、残念だけどそれは出来ない。千秋とは会うなと言われているんだ。イメージダウンに繋がるからと、社長からも厳しく言われてしまった。だから会えないよ。電話をするのだって本当は良くないんだ。だからほとぼりが冷めるまで、しばらくは距離を置こう」
想い人からの悲痛な返答。絶望に打ちひしがれる千秋。
だがそれでも諦めない。会えないことは仕方がないが、それでも恋治との繋がりを欲してしまった。
「ま、待って……恋治。恋治は私のことをどう想ってるの? こんなことになっちゃったけど、恋治は私のことを、どう想っていたの?」
告白の呈は為していないが、最早これは告白と同じ。今の時点では想いを打ち明けるには早すぎる。
しかしこれを逃せば次はないと、千秋は直感的に感じた。
「千秋、君は僕にとって大切な――」
一瞬の間のこと、その間千秋は強く願った。
モデルとしてのステージは幕を引いたが、恋の表舞台に立てることを信じて。
「仕事仲間」
小野千秋の片想いは、喜劇にも悲劇にもなることなく、緞帳すら上がることはなかった。
千秋の恋の灯火は消え去った。
しかし同時に、新たな炎が燃え上がる。
「恋治ぃぃぃいいい?」
豹変する千秋の声質。ねっとりとへばりつくような寒気を催す奇怪な声。
「恋治ぃぃぃ。あなた、愛子という女が好きなんじゃないのぉぉぉ?」
「ち、千秋? 一体何を?」
千秋は気付いた。今ようやく気付いたのだ。
一連の災いをもたらした、許されざる女の存在を。
「やめといた方がいいよぉ。愛子はとんでもない怪物よぉ? この私を騙すような、薄汚い女なんだからぁぁぁ」
「君と愛子が? いつどこで? 適当なことを言っちゃ駄目だ」
確かに恋治の言う通り、愛子がやったという証拠はどこにもない。
しかし千秋の裏の仕事を知っているのはごく僅かで、その中で千秋を陥れて得をするのは愛子のみ。
死なばもろとも、せめて己を地獄に追いやった愛子だけは、道連れにせねば気が済まなかった。
「つい昨日のことだよぉ。昨日の十六時前後、私は愛子と話したんだからぁぁぁ。そこで愛子はこの私に――」
「待て、千秋。昨日愛子はずっと一緒だったよ? 放課後からずっと、サッカーの練習を見てたんだ。マネージャーを志望して、その見学にって」
「へ?」
千秋の思考は再び止まるが、しかしそれは今までの比ではなかった。
なぜならそれは不可解なことではなく、絶対にあり得ないことなのだから。
「なぜ、千秋が愛子のことを知っているのか。そして逆恨みともいえる感情を抱いているのかは分からない。だけど千秋の言うそれは間違いなく出鱈目だ。残念だよ。僕は嘘を吐かない、君の素直な心が好きだったというのに……」
消えたと思っていた恋の灯火。
なのに愛した者から出る拒絶の言葉は、荒野の如き千秋の心を更に深く抉り取る。
「う、嘘じゃない。私の言うことは嘘なんかじゃ……」
「もうやめよう。これ以上連絡を取るのはお互いにとって良くない。切るよ千秋。どうか、自暴自棄にはならないで」
「お、お願い! 恋治! 切らない……で……」
そして後には無機質な不通音が繰り返される。
いくら待とうが、最早その先に愛しい者の姿はない。
「あ、ありえない。ありえる訳がない。じゃなければ昨日会ったあの女は、一体誰だと言うの? た、助けて恋治……私を助けて……」
暗闇に取り残される千秋。
しかし闇には闇で、そこに生きる者たちがいる。意味のない生などなく、そんな千秋に一つのメッセージが届いた。
「まさか……れ、恋治っ!」
『ヨシコさ~ん! 指名の電話がいっぱいだよ。今から出勤できないかな~?』
あ、あはっ、あははは……
――――――――
『このページは存在しません』
う、うぷッ、くくくく……
たかがこんな文章が、アカウント消滅のお知らせが、笑いを堪え兼ねるほどに腹をくすぐる日が来ようとは。
「さぁすがラヴァーソウル! まさか私の姿を演じてくれるとは!」
薄く控えめな微笑みを返すラヴァーソウル。
声真似程度と思いきや、これはなんとも使える能力じゃないか。これで万一千秋が漏らしても、その言葉は恋治先輩には届かない。
あなたの唯一の美点、嘘が吐けないという美点すら、今のあなたには残らない。
何もかも失った千秋に残るのは借金だけ。その借金すらも、違約金やら慰謝料が重なれば、更に大きなものになるかもしれない。
でも、安心して。すぐに返せるよ。
あなたを求める人間は、きっと今まで以上に多くなるのだから――




