拝啓、かつて私が恋した近くて遠いあなたへ。雨音が響いていますね
『Never give up』、『七転び八起き』、『諦めたらそこで試合終了』。世の中に溢れるたくさんの【諦めるな】を意味する、幼い頃からよく耳にする言葉。何事も諦めてはいけない、何も諦めなければいけないことなどない、ずっとそう思っていた。――あの十四歳の夏までは。
* * *
ある日の放課後、どうしてもわからない問題があった私は職員室を訪れた。私のクラスで数学を担当している高橋先生の席を見ると、彼女の姿はそこにはなかった。
「高橋先生に何か用?」
高橋先生の隣の席でプリントにハンコを押していた先生に声を掛けられた。確か、育児休暇中の教師の代わりに最近うちの中学に赴任してきた先生だ。名前は忘れたが、二十代半ばの親しみやすそうな先生だという印象を抱いた覚えがある。
「わからない問題があって質問に来ました」
「じゃあ、僕が教えようか? 一応数学教師だし」
「いいんですか? お願いします」
彼はプリントの山を脇に移動させ、机にスペースを作ってくれた。私は教科書の一次関数のページを見せ、
「このグラフから式を読み取る問題がさっぱりわからないんです」
と、グラフを指差す。
「どういう風にわからないの?」
「y軸上の切片が確定しているときは求められるんですけど、それが不確定のときはどのようにして求めたらいいのか……」
「なるほど……」
先生はしばらく考え込んでから、グラフを指し示しながら説明を始めた。
「一次関数の式の基本の形はy=ax+bだろう? で、この式はy=ax+bを満たす点の(x,y)しか通らないんだよ。そして、この①のグラフは(1,2)と(0,-3)の二点を通っている。つまり、この二点はy=ax+b満たすんだ。だから、この二点のx座標とy座標をそれぞれ式に代入して連立方程式を解けばいいんだ。あ、ちなみに代入する点はどこでもいいよ」
「授業で習ったやり方と違って、先にaの値を求めなくてもいいんですね」
「そうだね、人によってやりやすいやり方って違うから、授業とは少し違うやり方を説明してみたんだ」
「とりあえず今日帰ってからこのやり方でやってみます」
「じゃあ、明日解けたかどうか教えてよ。もし、まだわからなかったらまた教えるから」
「はい、ありがとうございました」
家に帰ってから早速、先生に教えてもらったやり方で問題を解いてみた。さっきまでさっぱりわからなかった問題がスラスラ解けた。初めて数学を、わからない問題を解けるようになることを面白いと思った。
次の日の朝、私はいつもより早く学校に登校し、リュックを担いだまま職員室に行った。そして、挨拶もせずに、
「先生! 解けました!」
と言いながら問題を解いたルーズリーフを先生に見せた。先生は驚いた顔をした後、
「おめでとう」
と、笑って答えてくれた。私は先生の笑顔を初めて見た。
「あら、渡野さんそんなに喜んでどうしたの?」
隣に居た高橋先生が驚いた顔をしていた。
「わからない問題が解けるようになって、嬉しくてつい」
今更ながらうるさかった事を反省する。
「寺脇先生に教えてもらったの?」
この先生の名前は寺脇というらしい。
「はい」
「さすが寺脇先生。渡野さん、良かったわね」
「そんなことないです、渡野さんの理解が早かったからですよ」
そう答える寺脇先生の顔は赤い気がしたのは気のせいだろうか。
「おはよ」
教室に入ると隣の席の顕木君に声を掛けられた。陸上部の朝練のせいか、または夏の暑さのせいか、日焼けし引き締まった首元に汗が滲んでいた。
「……なんかいいことあった?」
「なんで?」
「なんとなくそんな顔してた」
「なにそれ。別になんでもないよ」
なんとなく秘密にしたくて笑って誤魔化した。
休み時間、廊下で寺脇先生に会った。背のあまり高くない先生は生徒に紛れていて近くに来るまで気が付かなかった。
「先生、朝はお騒がせしてすいませんでした。それと、昨日は教えていただいてありがとうございました」
「どういたしまして。役に立てて良かったよ。でも、朝一番に『先生! 解けました!』って来たときはびっくりしたよ」
先生はあまりモノマネが得意ではないらしい。断じて私はそんな気持ちの悪い言い方はしていない。
「……忘れて下さい」
「いや、大人しい子だと思っていたのにまさかあんな一面があるとは」
「あまり親しくない人とどういうテンションで話せばいいかわからないだけです」
「じゃあ、朝ハイテンションだったのは?」
「勢い余っただけです」
その時、予鈴が鳴った。そんな時間が経っていたことに気が付かなかったのも、教師とこんなに話したのも初めてのことだった。
それからも、休み時間や放課後、廊下で会う度に先生と話をした。今思えば、どうでもいい内容の話ばかりだったのに時間の経つのが早く、何故かとても楽しかった。
* * *
ある休日、私は服を買いに一人でショッピングモールに来ていた。
気に入った服が見つかり、帰る前に本屋に行こうと映画館の前を通ったとき、一組の男女が出てきた。寺脇先生と高橋先生だった。二人は楽しそうに手を繋ぎ、私に気付かないまま目の前を通り過ぎて行った。たった数秒の出来事が何時間にも感じられ、周りの音が何も聞こえなくなった。あんな先生を私は知らない。彼女に向けられた笑顔は、私や他の生徒に向けられるものとは全く別のものだった。たった数メートル先にいるのに、何故先生をこんなにも遠く感じるのだろう。
* * *
ショッピングモールから逃げるようにして帰って来た私は、家の近所の公園のブランコに腰掛けていた。公園には私以外誰もいない。これが少子高齢化か、と意味のわからないこと考えながら、ただブランコに揺られていた。
ポツリと雫が一粒頬に落ちた。雫の数は増え、それはやがて雨に変わった。傘は持っていないが、私は動かなかった。雨は段々と強くなり全てを濡らしてゆく。でも、今の私には買ったばかりの服が濡れようと、鞄が水でいっぱいになろうと、そんなのどうでもよかった。二人は何故一緒にいたのか? どういう関係なのか? 答えを知りたいのに知りたくない。そんな矛盾した考えだけが頭の中を占めていて、他の事を考える余裕なんてなかった。
服や靴があまりに濡れ過ぎて、濡れているという感覚がなくなった頃、急に頭上で雨が遮られた。
「大丈夫?」
見上げると私に傘をかざした顕木君がいた。
「何があったの? とりあえず風邪引くからこっち」
腕を掴まれ、拒む間も無く半ば強引に公園の屋根のある場所まで連れて行かれた。
「このタオル使って。それ使ってないから」
「あ、ありがとう」
彼の言い方があまりに真剣で思わずタオルを受け取っていた。
「何でここに?」
「部活帰り。そっちは何でずぶ濡れだったの?」
「……雨に濡れたかったから」
別に嘘はついていない。雨に濡れるのは嫌いではないから。
「……変わった趣味だな」
誰も話さず、ただ雨の音だけが響いている。
「で、本当は?」
しばらくの後、雨音の中顕木君が口を開いた。
「別に嘘ついてないよ、私」
「でも本当のことも言ってない」
顕木君は時々鋭いことを言う。自分でも気付かないような些細なことに気付いてくれる彼だから、話してもいいのではないかと思った。
「今日、買い物に行ったら、女の人と一緒に歩いてる知り合いを見かけた。それだけ」
本当にそれだけ。言ってしまえば一言で終わるような簡単なこと。なのに、何故私はこんなに考え込んでいるのだろう?
「その知り合いのこと、どう思ってるの?」
考えたことがなかった。私は寺脇先生のことをどう思っているのだろう? 私は答えられなかった。
「……好き、何じゃない?」
『好き』という言葉を聞いて、今まで名前を付けられなかったモヤモヤとした感情がくっきりとした形になった気がした。
「……私、あの人のこと好きだったんだ……」
私はこの感情を寺脇先生に抱いてよかったのだろうか? 良いはずはない。私は生徒で、寺脇先生は教師なのだから。これは許されない、叶わない恋だ。何故、あなたなのだろう。この世に数多いる人類の中で何故あなたなのか。もっと違う出会い方がしたかった。教師と生徒ではなく、一人の男性と女性として。初恋は甘酸っぱいというけれど、どこが甘いのだろう。むしろ苦いではないか。
「……こんな感情知りたくなんかなかった」
私は顕木君の前で泣きたくなくて、泣きたい気持ちを誤魔化すように笑いながら言った。
「何で自分の気持ちを否定しようとするの? 誰を好きになってもいいじゃないか。自分の気持ちを笑うなよ」
私は自分に正直になってもいいのだろうか?
「じゃあ、気を付けて」
雨が止み、顕木君は帰っていった。
私は空を見上げ自分の気持ちと向き合うことを決めた。
* * *
「先生、昨日ショッピングモールに行かれませんでしたか?」
次の日の放課後、廊下で捕まえた先生に問いかけた。
「……」
先生は何も答えない。
「チラッと先生が高橋先生と歩いておられるのを見てしまって」
「あはは、見られちゃったか」
先生はしばらくの間の後、諦めたように答えた。
「……まあ、君になら言ってもいいか。彼女は僕の恋人なんだ」
コイビト? 思考が停止した。
「実は、育児休暇中の先生がもうすぐ戻ってこられるから、他の学校に異動するんだ。別々の学校になると、会う時間がどうしても減ってしまうから、プロポーズしようかなと思ってるんだよね。あ、これは他の生徒にも高橋先生にも秘密にしておいてくれよ。プロポーズはサプライズでしたいし、ちゃんと結婚してから皆に報告したいからさ」
何か答えなくてはいけないのに何も答えられない。すると、突然放送がかかった。
『寺脇先生、職員室までお越し下さい』
「呼ばれたから行くな。気をつけて帰れよ。くれぐれも皆には秘密にな」
私の返事を聞かぬまま、先生は去っていった。予想してはいても認めたくなかった答えが重く私に圧し掛かった。
一学期の終業式の日、学年集会で寺脇先生と高橋先生の結婚と、寺脇先生の異動が報告された。同級生も先生方も皆、二人の結婚を祝い、彼の異動を悲しんでいた。私は隅で涙を堪えながら騒いでいる人々をただ見ていた。とてもあの輪の中には入れなかった。
放課後、教室でボーとしていたら、先生がやってきた。
「渡野、元気か?」
「え?」
「いや、なんか、学年集会中元気なさそうだったから」
泣くのを堪えていた顔を見られたと悲しむべきか、自分を見ていてくれたことを喜ぶべきか。
「そんなことないですよ。ちゃんと元気です」
できるだけ明るい声を出すようにしても、先生の顔をちゃんと見られなかった。
「う~ん、そうか? 気のせいだったか」
先生が鈍くてよかった。
「渡野と話すのも今日で最後か」
もうすぐ夕日が沈んでゆく。
「そうですね。全然実感湧きません」
お願い、もう少しだけ待って。
「しょうもない話ばっかだったな」
いっそ今すぐ時が止まってしまえばいいのに。
「でも、私は楽しかったですよ」
そうしたら、先生とずっと一緒にいられるのに。
「僕も楽しかったよ。ありがとう」
寺脇先生が右手を差し出す。私も右手を差し出し握手を交わした。先生は真っ直ぐ、迷いのない目で私の目を見つめてくれた。
「こちらこそありがとうございました。どうかお元気で」
弱気になりそうな心を奮い立たせ、先生の目を見つめ返した。
「勉強頑張って、学生生活楽しめよ」
「先生もお仕事頑張って下さい」
「さようなら」
「さようなら」
まだ先生と一緒にいたい。
「待って!」
私は叫んだ。これが最後のチャンスだ。
「大事なこと、ひとつ言い忘れてました」
泣くな、私。硬くなった表情筋を必至に動かし、今できる精一杯の笑顔で。
「寺脇先生、ご結婚、おめでとうございます」
限界が来て涙が出てきたので頭を下げて誤魔化した。
「ありがとう」
小さく呟き先生は教室を、この学校を去った。
あの時私は上手く笑えていただろうか。
* * *
拝啓
桜花の季節となりました。お元気でお過ごしでしょうか。
私は、志望していた高校に見事合格することができました。今から高校生活がとても楽しみです。
これは今だから言える話ですが、私は先生のことを一人の男性として好意を寄せていました。生徒が教師に恋愛感情を抱いてはいけないのに。私は愚か者ですね。もう少女漫画の主人公を馬鹿にできません。それでも、一度は自分の思いを伝えようと考えました。しかし、先生に迷惑を掛けたくない、先生の背中を押したいというという思いが私にブレーキをかけました。また、私では高橋先生には敵わないと思ったのもひとつの理由です。未熟者の私より、高橋先生ははるかに大人でしたから。そして何より、先生が高橋先生を愛してらっしゃることを知っていしまったからです。でも、これらの理由は建前で、本当は先生に自分の思いを伝える勇気も覚悟も私が持っていなかっただけです。
これから先、私は先生以外の人に恋をすると思います。運がよければ結婚もできるかもしれませんね。そしてこれから、先生と過ごした思い出は、私の記憶からどんどん薄くなっていくでしょう(私は記憶力が良い方ではないので)。でも、私が先生を愛していたことは、雨音が響いていたことは変わりません。初めての恋を教えてくれてありがとう。
どうかあなたの未来が、多くの愛と祝福を受け、幸福に満ち溢れたものでありますように。
敬具
四月八日
渡野稔未
寺脇克成様
私は書き終えた便箋を折り、何も書いていない封筒に入れ糊でしっかりと封をした。
「稔未、入学式遅れるわよ!」
「うん、すぐ行く!」
母の催促に答えながら手紙を引き出しの奥に仕舞い込んだ。そして、私がその手紙を開くことは二度となかった。
お読み頂きましたことを感謝申し上げます。
何もかも未熟な作品ですが、感想やアドレスを頂けると幸いです。