それぞれの終焉 (2017x)
●登場人物
■ランス・リューベック(36)惑星探査隊員
□バハ・シュヴェット(34)同上
□ダルボ・エバース(35)同上
◇セザンヌ エバースのクローン
◇レイチェル 水族館で出会った女性
□シオン クローン
プロローグ
ランス・リューベックは天を見上げた。
絶対的な存在感で赤い縞模様の巨星がある。その迫力に押し潰されそうだ。故郷の星を発ち、遥々ここまで来た。人類史上初の快挙……
しかし、目の前の巨星に降下することは叶わなかった。地球の2・5倍の重力と激しい大気活動が人類の侵入を阻んでいる。
その代わりに降り立ったのが、衛星エウロパだ。
表層は厚い氷に覆われているが、一面の銀世界を想像してはいけない。下層から滲み出てきた物質が広がり、随分と汚れていた。
それでも、ここはオアシスだ。貴重な水を得ることができる。
「昔、南極の氷を高く売る商売を考えた人がいたそうだ。知ってるか?」
同じ宇宙服姿のダルボ・エバースが近付き、無線を介して言った。
「いや、初耳だ。何に使うんだ?」とリューベックが尋ねる。
「オン・ザ・ロックだよ。ロマンがあるだろ」
「なるほど、ロマンねぇ……。それで儲かったのか」
「いや、温暖化で南極の氷が溶けているのに、何を考えているんだと顰蹙を買ったそうだ」
リューベックは笑いを返した。
「エウロパの氷でひと儲けを考えているのか」
もう一人の隊員、バハ・シュヴェットが口を挟む。彼は無骨な降下艇の中で地表活動をする二人を支援していた。早く交替し外に出たいとウズウズしている。
「そうじゃないよ。オン・ザ・ロックのほうだ。だが、氷は売るほどあるのに、ここには酒がない」
シュヴェットの笑い声が響く。
「汚れているよ。エウロパの氷でウィスキーを飲んだりしたら、きっと腹を壊すな」
「心配ない。アルコールが清めてくれる」
とエバースが返し、笑い声をあげた。皆、ご機嫌だ。
人類初の木星到達!
その偉業を成し遂げた三人の隊員が衛星エウロパに足跡を残す。その模様は遠く離れた故郷の星へと伝えられ、人々は新たな宇宙進出に熱狂していた……
リューベックはもう一度顔を上げ、大赤斑の渦を見詰めた。この地に立てた幸運を噛み締める。しかし、なぜか実感が薄い。どこか夢心地だった。
一
淡い光り……
スリープマシンの中で膝を抱え込むように体を丸め、漂っていた。腕の静脈注入口にはチューブが繋がり、栄養や薬液を体内に送り込み長期の冬眠を支えていた。
ランス・リューベックは手足を動かし、大きな伸びをした後で腕のチューブを引き抜いた。股間の排泄装置と宙吊りハーネスを取り外し、のろのろとスリープマシンを抜け出る。裸で薄暗いゼロGの船内を浮遊し、壁に組み込まれたパネルを操作してディスプレイの表示を確認した。
順調だ。
惑星探査船は予定通り土星に接近していた。安堵する。
木星の幾つかの衛星を巡り、調査や土壌サンプルの採取を繰り返した後、船は地球へ帰還するのではなく、その外側を公転する土星を目指した。もう一つ、初めてとなる星を訪ねることになる。
三名の乗員は再びスリープマシンに潜り込み、土星到着までの長い冬眠に入った。生命活動に欠かせない備蓄品を温存し、その搭載量を減らすことが第一の目的だが、退屈な移動期間の暇潰しに悩むこともない。
リューベックは、船内システムを冬眠から活動モードに切り替えた。照明が明るくなる。他の二人の乗員も順次目覚め、土星探査に向けて準備を進めることになる。
「目覚めないのか……」
バハ・シュヴェットが起きたばかりの顔を更に強ばらせた。
「ああ、何度か覚醒処置を施しているが、一向に目覚めない」
とリューベックが答える。もう一人の乗員、ダルボ・エバースが冬眠から目覚めていなかった。
「生きては、いるんだな?」
「脈拍や呼吸、体温は、冬眠状態での正常値だ。生きている」
この惑星探査計画で採用されたのは冷凍睡眠ではなく、冬籠もりをする熊の生体研究から得られたより安全性の高い人工冬眠の技法だった。だが、安全性は一〇〇パーセントではない。
「どうするんだ?」
「地球に報告を入れた。返事が届くのは、もう少し先だ。それに、対応が決まるのは何日か後になると思う。おそらく、このまま冬眠を続け、地球に帰ってから対処することになるだろう」
「そうだな……」
「ともかく、君が目覚めてくれてホッとしてるよ。一人で旅を続けるのは寂しいし、気が重くなるからね」
シュヴェットは呆然とした表情で頷いた。まだ完全に覚醒していないのだろう。
「何か飲むか?」
「そうだな……。その前に顔を洗って、うがいをするよ。少し、しゃっきりしないといけない。できれば、熱いシャワーを浴びたいところだが、それは無理だな」
そう言ってシュヴェットは宙を漂い、グルーミングスペースに向かった。
人工冬眠の危険性は事前に説明を受けていた。しかしそれは、この計画で想定される幾つものトラブルの一つに過ぎない。そこで尻込みしていては惑星探査に出掛けることなどできない。危険を承知し、覚悟をもって挑んだ。
そしてそれは、目覚めないエバースも同じだ。割り切るしかない……
「他に問題はないのか?」とシュヴェットが尋ねる。
「細かいのが幾つか報告されている。体調を整えてから、順番に当たっていこう」
土星到着まで一カ月。長く寝ていた分、小忙しく働かなくてはならない。それに欠員一名だ。
それでも、環を持つ星を間近から見ることができる。じわじわと気持ちが高ぶってきた。
二
船外カメラを最大望遠にすると、土星の環がはっきり見えた。
環の厚みは平均で一五〇メートルほど。厚い部分でも五〇〇メートルを越えない。土星を包み込む環の広がりからすると、ペラペラした薄さといえる。
その環が太陽光を反射し鋭利な刃物のように見えた。美しさとともに人の侵入を拒んでいるような印象は、この前に立ち寄った巨大な木星と通ずるものがある。惑星探査船の隊員は、この星にも降りることはない。
船外カメラの向きを変えると、環の向こう側に一際大きな星を捉えた。水星より大きな衛星、タイタンだ。最初に降り立つのは、濃い大気を持つ興味深いタイタンとなる。
「降下艇からの支援はなし、ということになるな」
とバハ・シュヴェットが言う。ダルボ・エバースが目覚めない今、降下活動は二人だけで取り組むことになる。
「大きな支障はないだろう」
とランス・リューベックが答えた。
ここに船長の肩書はなかったが、乗員三人がそれぞれの役割を担い惑星探査に取り組んでいた。リューベックは探査の計画主任だ。船の状況や不備・トラブルに対応対処し、乗員の意見を集約して探査計画の実施、変更、中止といった判断を下すことになる。人工冬眠も一番最後に眠りにつき、最初に目覚めて細々とした仕事をしていた。
シュヴェットは、降下機の担当だ。操縦訓練を一番多く熟していた。未到の星に降りることになるため瞬時の判断、対処が求められ、安全な降下着陸と母船への帰還を担うことになる。
目覚めないエバースは、降下時の活動を取り仕切っていた。どの衛星のどこの場所に降下し、どのような活動をするか、そのプランの作成と現地での判断が任されていた。彼が参加できない土星では、リューベックとシュヴェットの二人が協力して降下活動を実施することになる。
三人体制で訓練を重ね、木星の幾つかの衛星でそれを実践してきたことを思うと、寂しさを覚る。それが根拠のない不安を呼び起こしていた。
それでも計画を推し進める。そのために、危険を承知してここまで来たのだ。やめるわけにはいかない。二人は長期冬眠後の体調回復に努めつつ、船の点検・修理を行い土星への接近に備えてきた。ただ、シュヴェットの体調は優れなかった。作業が手に付かない。ほとんどの準備作業は、リューベックが一人でやっていた。
間も無く、土星周回軌道に移るための減速を行う。二人は壁にあるハーネスを使い、体を固定した。減速、周回軌道への移行作業は船に搭載されたコンピューターの役目だ。二人は、それを壁にへばり付き眺めることになる。
カウントダウンが進行する。
その数値が小さくなると二人は沈黙し、それをじっと見詰める。
5…4…3…2…1…ゼロ。
???
何も起きない?
メインエンジンが作動しない!
コンピューターが異常を報告し、メインエンジンの再始動を試みる。しかし、ピクリとも動かなかった。
船は減速できないまま、土星を掠め、外宇宙へ向けて飛行を続けていた。何があったのか? どうしてメインエンジンが作動しないのか……
壁に固定された二人は事態を呆然と眺め、受け入れるしかなかった。一つはっきりしているのは、計画が失敗したということだ。
もはや、故郷の星に帰ることはできない……
三
目が覚めた。
頭が、ぼんやりしている。
ゼロG用の寝袋の中だ。
広い部屋に一人……。壁に組み込まれた設備は、どれも馴染みのある物だが、この部屋が何なのか、どこなのか、思い出せない。記憶が混乱している。
寝袋を出て、部屋の中を漂う。
目に映る物を一つずつ確認しながら記憶を辿った。
惑星探査……木星……土星、メインエンジンが作動しない!
壁の鏡に映った自身の姿を見て驚愕した。見知らぬ男、若い。三十半ばの見慣れた顔ではない。
整形したのか? 顔だけではない。体も別人だ。腕が細く肩幅も狭かった。それに両腕にあるはずの静脈注入口もない。
どういうことだ?
体の違和感は寝起きのせいではない。信じられないが、体そのものが違うのだ。
混乱したまま扉の所まで漂った。扉を開ける。
二重扉が開くと無機質な通路だった。六面の壁が左右に延び、同じ形状の扉が並ぶ。それぞれに番号が振ってある。側面の壁に十二個、通路の端に1つずつ。今、出て来た扉は三番だった。
とりあえず、一つひとつの扉の開閉ボタンを押して回る。だが、どれも開かない。その向こうには施設が接続されていないのかもしれない。
全ての扉を確かめたが、開閉できるのは自分がいた部屋だけだった。六角柱の通路に一つだけ部屋が繋げてある……そんな宇宙施設をイメージした。
仕方無く、目覚めた部屋に戻る。
壁にあるフードディスペンサーを使ってみた。出てきた物を口に入れると、馴染みの味とはちょっと違うように感じる。それでも、ホッと安堵する。少なくとも、食べ物はある……
お腹を満たしつつ、もう一度記憶を探った。
土星を通過してしまい、地球に帰れなくなった。
絶望。
しかし、そうしたリスクは覚悟していた。命を落としたり、地球に帰れなくなることも有り得る。惑星探査は、そういう計画だと承知して志願していた。もっとも、当時、どういったモチベーションだったのかハッキリしない。覚えていない。だがそれも、もう、どうでもいいことだ。脇目も振らず突っ走り、惑星探査船のシートの一つを手に入れた。それを喜んだではないか。残念だが、好ましくない結果になっただけのこと。それだけのことだ。
自分と、もう一人の乗員は、スリープマシンに戻った。眠ったまま最期を迎えるのが最も安らかだ、そう考えていた……
そして目覚めた。
気付くと顔も体も別人で、どこだかわからない施設の中に閉じ込められている。
眠っていた間に何があったのか? 故郷の星に帰って来たのか? なぜ、一人きりなのか……。
疑問は次々と湧き出てくるが、答えを得ることはできなかった。
四
扉が開き、二十歳前後の女性が入ってきた。
細身の体、整った顔立ち、透き通るような白い肌。美人だが、どことなく冷たさを感じる。無重力に馴染んでいない様子だった。
「セザンヌよ。気分はどう?」
「悪くはない。ただ、混乱している」
と平静に答えた。誰かに会えて、ホッとする。
彼女は、全てを承知している顔で頷いた。
「自分の名前を言ってみて」
「ランス・リューベック、三六歳……のはずだが、顔も体も別人だ」
「そうね。精神と肉体は一致してないわ。混乱するのも当然ね」
リューベックは大きな息を吐いた。
「あっさり言うね。何がどうなったんだ、教えてもらえるとありがたいね」
「ええ、話すわ。順を追ってね。その前に最後の記憶を教えて」
リューベックは素直に頷き、話しを始めた。
「惑星探査に出たが土星の軌道への移行に失敗、そのまま宇宙を突き進むことになってしまった。地球帰還が断たれ、スリープマシンに入り、眠ったまま最期を迎えることにした……」
セザンヌが頷き、口を開いた。
「その後、一隻の船が接近したの」
「船?」
リューベックは首を傾げ、目を細めた。
「異星人の船か?」と薄笑いを浮かべる。
「そうよ、他の星の生物の研究を目的とした学術調査船なの」
リューベックは口をあんぐりと開けたまま、言葉を探した。
「……本当の話、なのか?」
「ええ、本当よ。嘘を言っても仕方ないわ」
リューベックはぎこちなく頷いた。とにかく話しを聞くことにする。
「その船が地球の調査に来た時、人類は既に文明を獲得していたの。他の星の生命体には干渉しない、進化には介入しない、というのが彼らの規律で、長いスパンで生物の進化を観察することが目的なの。だから、文明を持つ生命体に遭遇した場合は慎重になるようね。当然、地球への接近には気を遣う……」
「友好関係を築き、交流を深めるような活動はしないのか」
「科学技術に差があり過ぎて、難しいでしょうね。交流ではなく、干渉・介入になってしまう。異星人から見ると地球人類は、戦争すら根絶できない未熟な生き物なの。絶滅の可能性も高い……」
「それを回避する手助けをしてくれないのか」
セザンヌは首を横に振る。
「絶滅の後に新たな進化が始まり、新しい種が繁栄するわ。人類もそうだったでしょう。恐竜が絶滅したからこそ、ひ弱な哺乳類が繁栄の道を歩めた。異星人の学者が関心を持つのは、そっちね」
「絶滅と新たな進化か……」リューベックが顔を顰め唸った。
「ちょっと待ってくれないか。それじゃ、なぜ、私たちの船に接近したんだ?」
「学術的な調査に来たのよ。当然、地球に生息する生物に関心がある。干渉・介入を避けて、何とか調査したいと考える」
リューベックは、なるほどと頷く。
「地球帰還ができなくなった時点で、地球への干渉・介入を避けることができると判断したのか。学者ぽい考え方だな……」
そこでリューベックは、ギロリとセザンヌの顔を見た。
「君も同じ事情から、ここへ連れ去られて来たのかな?」
セザンヌはしばらく間を空けた。
「私たちは、少し違うの」
「私たち……。少し違う?」リューベックは彼女の言葉を繰り返した。
「ええ、でも、その話題は後にして話しを戻すわ。あなたたちが眠った後に異星人の船が接近した……」
リューベックが頷く。その話しが途切れたことを思い出す。
「船内に侵入し、眠っている人を徹底的に調べたの」
「調べた? 助けてくれたんじゃないのか」
セザンヌが首を横に振る。
「今の時点で、あなたの肉体は既に命を終え、当ても無く進む惑星探査船の中で冷たくなっているわ」
「とっくに死んでいる……。それじゃ、これは何だ?」とリューベックは自身の胸を叩いた。
「そうね、それを説明するわ……」セザンヌは、一つ頷いてから話しを続けた。
「異星の学術調査船は、一旦、地球圏を離れ、人類を観察するための施設を整えたの。そこで、持ち帰った生体組織の遺伝子情報を解析し、クローンを生み出した……」
「クローン……」リューベックの表情が険しくなる。
「そうよ、そうした生命科学の分野は得意なようね。でも、固有種特有の子育て法については情報不足だった。クローンとして生まれた子は、何人も命を落とすことになったの」
「人間を対象にした生体実験みたいだな」
「そうね。人類も同様のことを他の動物にしてきたはずよ。そうでしょ?」
「そうだね、随分と酷いことをしてきた……」
セザンヌは少し考えてから、自身の身の上を告げた。
「試行錯誤を重ね試験を繰り返し、クローンを成人にまで成長させることができるようになったの。私のようにね……」
リューベックは、それを察していた。そこで頭に浮かんだ疑問を口にする。
「もしかして、私のクローンなのか」
「私は、ダルボ・エバースのクローンなの。生体組織のサンプルは、隊員三人から採取したのよ」
「エバース……」
「その体は、あなたのクローンよ」
「そうなのか。しかし、顔は全然似てない」
「同一の生体を生み出すことが目的ではないの。遺伝の素性が同じでも、性別や外見は違ってくる……」
遺伝情報を操作すれば、そうしたことも可能なのだろう。ただ、そんな器用なことができるのに、子育てが難しかったということなのか。リューベックには、そうした事柄の難易度の違いが理解できなかった。
「私のクローンに、私の記憶を入れたのか。なぜだ?」
「人間観察の次の目標は、自然なかたちで子孫を残すことなの。成人になり、ペアを組み、子を産み育てる……。でも、上手くいかなかった。何組かペアになったのだけど、どこも妊娠には至らなかったわ。原因の一つは、私たちの仲が良過ぎたことね。幼い頃から一緒に暮らし、成長してきたの。周りは三人の探査隊員から生まれた人しかいないのよ。兄弟姉妹のような間柄なの」
動物園での繁殖は難しい……リューベックの古い記憶が蘇ってきた。狭い檻の中で十分なエサを与えられ、長閑に暮らす動物の繁殖は上手くいかないことが多いようだ。何の危機感もない状況で、子孫を残さなくてはならないという衝動が薄れるのだろう。
この場の環境も似ているに違いない。クローンは快適な施設で、のんびりと暮らしている。そのため生殖への意欲が希薄となる。性欲そのものがないのかもしれない。そうなると、妊娠にまで結び付けるのは至難だ。上手くいかない。
「それで経験のある人物を呼び起こすことになったの。生殖が上手くいく可能性が高まるでしょ」
「私のことか。しかし、経験と言っても私に子どもはいないよ。結婚もしていない」
「でも、何をどうしたら良いのかわからない私たちより、知識や経験はあるでしょ。地球や人類に関する私たちの知識は、異星の調査船が地球から漏れ出る電波を傍受し、解析したものなの。表面的で薄っぺらなものばかりなのよ」
リューベックは苦笑いをして頭を掻いた。
「薄っぺらな知識か……。つまり、この若い体を借りて子作りをしろ、ということなのか」
「そうよ」
「君が、その相手なのか」
「ええ」彼女は無表情のまま頷いた。
「エバースのクローンか……」
奇妙な話にリューベックは戸惑った。他にも気になることがある。
「我々が土星を掠めてから、かなりの時間が経っているようだね」
「ええ、百年が過ぎてるわ」
「百年か……。探査隊の他の二人の記憶を入れた人物もいるのだろう。会って、昔話をしたいね」
三人で話しをすれば、少しは落ち着くはずだ。
「いえ、いないわ。脳情報を取得できたのは、あなた一人だけなの」
リューベックの表情が険しくなる。
「私だけ? どういうことなんだ?」
「惑星探査船と接触し乗員三人の生体情報を収集する際、他の二人は既に脳死状態だったの」
「二人?」
土星に接近した時、人工冬眠から目覚めなかったダルボ・エバースは脳死していたのかもしれない。もう一人のバハ・シュヴェットも脳死したのか……
「あの船に設置された冬眠装置は、あまり性能の良いものではなかったようね。長期冬眠を繰り返すと脳に障害が出てしまう。脳が活動していてその情報が得られたのは、あなただけだった」
「私だけ……」
地球帰還が絶望となった時、死を受け入れスリープマシンに入ったのだ。それなのに自分一人だけ精神が蘇った。素直に喜べない。複雑な心境だった。
「ここは、どこなんだ?」
「どこ?」
「地球を調査しにきた生命体の故郷なのか」
「そうかもしれないわね。私たちも、ここがどこなのか知らないの」
「君は、どこにいたんだ? さっき全ての扉をチェックしたが、どれも開かなかった」
「別のブロックから来たの。あなたが混乱しないように、ここは独立したブロックになってるの」
「十分、混乱してるけどね……」
それにここから出ることができない、幽閉されているのだ。
リューベックは大きな溜め息をついた。
どこにあるのかわからない動物園で種付けをするために起こされた……そういう状況のようだ。
「どうします? 子作りの予行練習を始めますか」
セザンヌが真顔で言った。
「予行練習?」
「ええ、そちらが上手くいっても、私の体は準備ができていません。今日は妊娠しないでしょう」
リューベックは、そういう意味かと頷く。
「だったら、慌てることはないだろう……」
彼女に興味がないわけではないが、とにかく違和感がある。それに彼女の対応は冷淡過ぎる。やはり多少の雰囲気、色気が欲しい。これでは上手くいくものも上手くいかない……
「もう少し、状況を教えてくれないか」
「ええ、いいわ」
「異星の学者さんと話しをするには、どうすればいいのかな?」
「話しをする? 話しなんかできないわ」
「できないって、あれこれ指示を受けているのだろ?」
「ええ、それはこの施設を運用管理するコンピューターの役割になるわ。普通に会話ができるの」
「その異星人が姿を現すことはないのか」
「ないわ」
異星人に会えないと知り残念な気持ちになったが、一方で安堵も感じた。異様な生物が目の前に現れたら、間違いなく悲鳴をあげるだろう。どんな姿をしているのか知らないが、奇妙な異星人を素直に受け入れる自信がない。
「どんな姿をしてるんだ?」それが気になる。
「知らないわ」セザンヌがあっさり言う。
「会ったこともないのか」
「ええ、会ったことも見たこともないわ」
「見たこともない、か……。その異星人の指示に、疑問がある場合はどうするんだ?」
「疑問? 疑問などないわ。指示に従うのが当然でしょ」
リューベックは目を細めた。従順に飼い馴らされている、ということなのか……
「この体の本来の持ち主も、その指示に従って体を提供した、ということか。彼の精神はどうなったんだ?」
「彼の脳情報は保存されてるわ」
なるほど、種付けが終わったら彼の精神に戻すのだろう。他人の体をいつまでも借りているわけにもいかない。素直に返上すべきだ……しかし、無性に虚しい。
人間の心と体を弄んでいる。腹が立った。
しかし、戦争すら根絶できないような下等生物ならば、そうした扱いも致し方ないのか。人類も同じように他の生物の命を弄んできた。文句を言う筋合いではない。
高い知能を持つ彼らが人類の営みに干渉することがないのなら、たとえ人類が絶滅しても、それを一つの事実として受け止めるだけだろう。
宇宙の片隅にある小さな星に生まれた生物として、異星の学者の知識の一つになることは意義深いことなのか……
リューベックは思案を続け、セザンヌはそれを見守っていた。
五
ランス・リューベックはゼロG用の寝袋の中で、女性の肌の温もりを感じていた。心地よい。
ただ、その女性はセザンヌではなかった。
別の女性……同じ惑星探査隊員であるバハ・シュヴェットのクローンだ。ダルボ・エバースのクローンの次は、シュヴェットの生まれ変わりの娘と致す事になった。少々複雑な心持ちだ。
それに二人ともぎこちない。最初は、肉の塊を抱いているような感じだった。緊張しているというより、どう対応してよいのかわからないのだろう。異星の学者が掻き集めたヒトの生態情報には、こうした場合の対応処置まで含まれていなかったようだ。ごちゃごちゃ言わず本能に任せればよいのだろうが、彼女たちはそうした本能も弱まっているように感じた。
ともかく手解きをし、なんとか目的を達した。ただ、セザンヌと何日か過ごすと、いきなり別の女性と替わる。種付けは相手を替えて何人かと行うのが確実というのはわかるが、こうした扱いに腹も立つ。
しかし、ここでの暮らしはこういうことなんだと、リューベックは自身に言い聞かせ自分の役目に取り組んでいた。本音を言えば、嫌いではない。
その一方で、この肉体は自分のものではない、借りものだという事実が気持ちを萎縮させる。こんなことをしてよいのだろうか? 僅かに残っていた倫理観がうずく。
とは言え、この体は全くの他人ではない。非常に近しい関係だ。自身のクローンの子どもは限りなく自分の子、となるのだろうか。二人の女性が産む子は、少なくとも遺伝的関係のある子孫であることは間違いない。そう思っても、心を納得させるのは難しかった。
リューベックは女性を起こさないようにして寝袋から出た。扉を抜け、無機質な通路の壁に身を寄せた。
場所すらわからない状況で二人の若い女性と関係を持つとは……
リューベックは、若い頃に付き合った何人かの女性を想い出す。しかし、それなりに自重していたと思う。明確な目標があったからだ。
誰も行ったことのない星へ行く。その目標に向かって突き進んでいた。その結果が、これだ。
「彼女の次は、私自身の女性クローンと相手をするようなことにはならないだろうね」
独り言にしては大き過ぎる声で言う。
「それは勘弁してくれないか。究極の近親相姦になってしまう。産まれてくる子に障害が出るかもしれない。そこまで確かめる必要はないだろう……」
「二人の女性が男性たちに手解きすればいい。私のやり方が手本として望ましいのか疑問はあるが、目的は達成できるだろう。私は御役御免にして欲しいね」
こうした茶番に付き合うのは終わりにしたかった、終わりにすべきだと思う。自分は既に命を終えている……
「ここでの生活に不満を持っているようですね」
男のコンピューターボイスが響く。
「不満というより、遣る瀬無いね。こんなことを続けて何の意味があるのか、わからなくなってしまう」
「意味はあります」
「そっちにあっても、私にはない。私は死んだ人間だよ。安らかに終焉を迎えたんだ。起こしたりしないで欲しいね」
「それは本心ですか」
「もちろん。茶番は終わりにしよう」
「茶番ですか……。では、他の役目なら協力してもらえますか」
「他の役目? そんなのがあるのか」
「はい。地球の状況や雰囲気に馴染んでいるあなたにしかできないことです」
「どんなことかな?」
と平静を装う。死んだ人間だと言いながら興味が湧いてきた。
「クローンは、地球重力を再現した環境で暮らしています。地球に降り、活動できる体を得るためです」
「ちょっと待った!」リューベックは危険な臭いを嗅ぎ付けた。
「地球に降りて、何をする気だ? 他の星に介入しないのが鉄則じゃないのか」
「もちろんです。介入が目的ではありません」
「じゃあ、何のためにクローンを使って地球に降りるんだ?」
「戦争が絶えない状況では、地球人類の滅亡は遠くないでしょう……」
「随分はっきりと断言するな」
「はい。これは広い宇宙を調査して得た結論の一つです」
「戦争を続けると必ず絶滅してしまうと言うのか」
「直接的でなくても、元を辿れば戦争が影響します。長く生き延びることは簡単なことではありません。争っていては存続の危機が迫った時、適切な対処ができないでしょう。滅んでしまいます」
戦争などに現を抜かしていてはいけない、生存の道を模索しろ、というのか……しかし、そこまでの危機感を常に持っている人間など滅多にいない。
「つまり、地球に降りて人々の危機感を煽れ、ということか……いや、それだと介入になってしまう」
「はい。人類に対して何かの活動をするわけではありません」
「それじゃ、何を……」
「勢力の強い種が滅ぶ時、その種だけが消え去るわけではありません。他の多くの種も巻き添えを食い、絶滅します。地球では既にその傾向が現れていますね。人間の営みによって多くの動植物が消え去っています」
リューベックは眉間に皺を寄せる。
確かに人間のせいで多くの種が絶滅し、その危機にある種も少なくない。
「今、地球にいる生物の情報を記録すべきです」
「記録に残す……」
「はい。生体の情報を集めて、保存したいと考えます。この時代の地球に生息する動植物の情報を集めておけば、勢力の強い種が滅んだ後、次に繁栄する種がどれなのか、そうした研究の資料にもなります」
そうだった。これを取り仕切る相手は異星の生物学者だ。それを忘れてはいけない……
「なるほど、地球で人に感付かれることなく活動するには、人を使うのが一番。地球に降りて、生体の情報を掻き集める、それを私にやれと言っているのか」
「はい。多くの人と入り混じり目的を持って活動するには、その場の雰囲気に馴染み、柔軟な対応力が必要となるでしょう。ここで産まれ育ったクローンには難しいと考えます」
それは確かだ。無菌培養された実直なクローンには勤まらない。幾つかの事例を教え知識を得ても、その場になると適切に動けないだろう。あの場所で産まれ育ち、馴染んでいないと上手く対処できない。思わぬトラブルを招いてしまう。
「しかし、その肉体には本来の持ち主がいる。それを乗っ取るのは気の重い話だ」
「あなたの生体情報から生まれたクローンは、あなたの身の一部と考えることができます。そういう割り切り方はできませんか」
リューベックはその体をビクリと震わせた。冷酷、身勝手だ。異星の学者からすれば、簡単に割り切れることなのだろう。それよりも学術的な資料を集めることのほうが大切なのだ。
「免疫の無いクローンの体で地球に降りると、瞬時に無数の病原菌の餌食となるだろう。病気をもらいに行くようなものだ」
「それも貴重な資料です。病原菌の特性を解明すれば、対処は可能です」
異星の医療技術は地球の比ではない。恐れるものなどないのだ。
「協力していただけますか」
地球に降りる、という言葉を耳にした時から強い関心があった。魅力ある話だ。
惑星探査計画で無事に地球へ帰還できても、無重力に馴染んだ体では地表に降りることは難しい。リハビリを重ねても月面の定住者施設で暮らすのが精一杯だろう。地球に降りることなど、とっくに諦めていた。
ところが、地球重力に馴染んだクローンの体で降りることができる。軽快に動き回ることもできるだろう。その誘いを断ることなどできるはずもない。
「もちろん、協力しますよ。いや、是非、その計画に加えて欲しい……」
リューベックはそれを口にしたところで表情を強ばらせた。安らかな眠りを邪魔しないでくれと言いながら、なんと刹那的なのだろう。恥ずかしくなる。
六
「あなた、何をしてるの?」
ランス・リューベックが振り向いた。二十代半ばの女性が恐い顔をしている。
「さっきからずっと写真を撮ってるけど、魚には関心がないようね。変だわ」
リューベックは苦笑いをして頭を掻いた。
事実だ。魚には特に興味はないが、水族館で一心不乱にその写真を撮っている。変に思われても仕方ない。
「学生なの? 何かの課題?」
「まあ、そんなところです」
と曖昧に答える。今の見た目は、彼女の幾つか年下になるのだろう。時折、それに戸惑う。
「変だわ。関心がないのに片っ端から写真を撮るなんて。何なの?」
「別に構わないでしょう、フラッシュは使っていないし。問題ないと思うけど……」
そう言ってから隣の水槽に移り、写真を撮り始める。何種類かの小さな魚が泳ぎ回っていた。
チラリと振り返ると、さっきの女性がこちらを見ている。自分の行動も変だけど、彼女も変だ。魚の写真撮影に熱中している男に、わざわざ声を掛けることはない。無視すれば、それでいい。
リューベックが手にしているのは、どこにでもあるような小型のカメラだ。写真を撮れる。もっとも異星の進んだ科学で造られた物だ。同時に、被写体の生体情報も写し取ることができた。
どうやって?
どういう技術を使えば、そうしたことができるのかは全くわからなかった。それが異星人との科学の差になるのだろう。
ともかく、リューベックは懐かしの故郷の星へ百年ぶりに降り立ち、小型カメラの形状をしたサンプラーを片手に各地の動物園、植物園、水族館などの施設を巡って、様々な動植物の生体情報を掻き集めていた。
これを続ければ、地球の代表的な種の生体情報を集めることができるだろう。しかし、この星に棲む生物の数は多い。希少種の生体情報を得て、惑星全体の生物を網羅するのは手間の掛かる大きな事業といえた。
リューベックは展示施設を抜け、広間に出た。休息スペースだ。壁際に清涼飲料水の自動販売機がある。懐かしい飲み物だ。一つ買って喉を潤したいところだが、お金がない。
そこに先程の女性が来た。
リューベックの脇を擦り抜け、見詰めていた販売機を操作し一本購入する。
「どうぞ、あげるわ。お詫びの印よ」と強引に手渡す。
「お詫び……」
リューベックが戸惑っている間に、彼女はもう一本購入し、呆然と立つ男を見る。
「今日、デートだったの……」
「デート?」しかし、連れの男が見当たらない。
「ここへ来る予定をしてたのよ。でも、ダメになったの。些細なことでケンカになって……」
そこで蓋を開け一口飲み、炭酸の刺激に顔を顰めた。
「最近、ちょっとしたことでケンカをするのよ。私たち、もうダメかもしれないわね……」
また顔を顰める。今度は炭酸が理由ではない。
「イライラして、それで一人でここに来たの。ゆったり泳ぐ魚を見れば心が安らぐでしょ。でも、そこにカメラを構えて人込みを掻き分けウロウロする男がいたの。目障りで、腹が立って、つい、あんなこと言っちゃった。ごめんなさい。八つ当たりだったわ」
リューベックは彼女からもらった炭酸水に視線を移した。
「ありがとう。遠慮なく、頂くよ」
そう言って蓋を開け、ゴクゴクと飲んだ。炭酸の刺激が心地よい。久しぶりの味だ。
「レイチェルよ」
「ランス・リューベック」と名乗る。
「座りましょ……」
彼女は手近なベンチに歩き、腰を下ろした。リューベックも、その横に座る。
「やっぱり、変だわ。片っ端から魚の写真を撮ったら、今度は物欲しそうな目で販売機を見詰めてる。そんなに悩むような物じゃないわ。買えばいいのに……」
リューベックは笑顔を返した。お金がない、とは言えない……
「なんで興味のない魚の写真を一杯撮るの?」
「頼まれたんだよ……」
「誰に?」
「生物学の先生だよ」まあ、それはウソではない。
「魚の写真を……。おかしいわ、だって専門家の先生なら、もっと掘り下げて調査するでしょ。バチバチ撮った写真だなんて、やっぱり変よ」
リューベックは笑う。笑って誤魔化そうとするが、レイチェルは容赦のない目をしている。
「学者先生の考えていることなんて、私には理解できませんよ。言われたことをやるだけ、ですから……」
その答えに、彼女は頷いた。何か似た経験があるのかもしれない。
「そうなの、大変ね……」
その言葉を聞いてリューベックはホッと息を吐き、炭酸飲料を口にした。
「ねえ、食事はしたの?」
「いえ、してませんが……」それ程減ってはいなかった。
「一緒に食事しない? さっき見たときレストランは満席だったけど、少しは空いたと思うの。一人で食べるのも寂しいし……」
「いや、でも……」
「私のような失礼な女と食事をするのは、嫌なのね」
「いえ、そうじゃないですよ。……実は、お金がないんです」
「えっ、生物学の先生からもらえないの?」
リューベックは頷き、その問い掛けの答えにした。レイチェルはまた、変ねという顔をする。
「これを買うお金もありません」と手にしている炭酸飲料を見せる。
レイチェルはしばらくの間、貧しい境遇にある幾つか年下の男を見詰めた。そして頷く。
「いいわ。おごってあげる。一緒に食べましょ」
「いえ、そんなのダメですよ。帰れば食べる物もありますし……」
「あら、遠慮しないで。私だってお昼ぐらい、おごれるのよ」
リューベックは悩んだ。地球の女性と食事をするなんて……心が引かれ揺らいだ。別に食事をするくらい問題はないだろう。干渉・介入には値しない……
「すみません、嬉しいです」
と控えめながら正直な気持ちを伝えるとレイチェルが笑顔を弾かせた。二人は炭酸飲料を飲み干してから施設内のレストランへ向う。
リューベックが地球を発ってから百年が経過し、幾つか便利になった物もあったが、人間の本質に変わりはなかった。人々はお金儲けに勤しみ、対人関係に頭を悩ませ、どこかで戦争を続けている。
人類滅亡がそこまで迫っているのかもしれないが、今、この場は平穏で、ここに集った人たちは長閑な一時を過ごしていた。
出てきたのはワンプレートのランチメニューで、パスタ、炒め物、サラダがあり、カップに入ったスープとロールパンも付いている。
「美味しそうに食べるわね」
「こういう食事は久しぶりなんですよ。それこそ百年ぶりだね」
それは本当のことだが、レイチェルは楽しそうに笑った。
これまでは異星人が用意する必要な栄養素をコンパクトに詰め込んだ固形物を口に放り込んでいた。薄味で、食べ応えもない。初めて地球の料理を食べたクローンの舌や胃袋は、きっとビックリしているだろう。お腹を壊したりしなければいいが……
「ねえ、この辺りの学生なの?」
「旅行者です。各地を巡って動植物の展示施設に立ち寄っています」
「各地って、世界の?」
リューベックは料理を口に運びながら頷いた。
「凄いわ。何か知らないけど、本格的な研究なのね」
リューベックは口を動かしながら頷く。ゴクリと呑み込んだ。
「詳しい話は聞かないでください。理解していないから……」そう言ってから再び料理に挑む。
レイチェルは残念そうな表情をしたが小さく頷き、皿の上の料理に手を伸ばした。それを口に入れる寸前に動きを止める。
「どうして、そんな仕事をすることになったの?」
リューベックが低く唸る。
「目が覚めたら、そういうことになっていたんです。他に適当な人物がいなかったんだ。地球のあちこちへ行けるのは魅力的な話だからね。断ることなんてできないよ」
「そうね……」と彼女は頷き、食事を続ける。
リューベックは口の動きを止め、対面に座る女性の顔をじっと見た。
「何よ……」レイチェルがその視線に気付く。
「一つ聞いていいですか?」
「いいわよ、何?」
「人類は滅亡すると思う?」
レイチェルが唖然とする。想い描いた質問とは質が違っていた。
「突然、難しい話ね」
「その生物学の先生が人類滅亡を口にするんだ。気になってね」
レイチェルは頷き、前向きに思案する。
「そうね……、始まりがあったのなら終わりが来るでしょうね」
彼女の脳裏には、彼氏との思い出が過っていた。
「その大先生は、どうして人類が滅亡すると言ってるの、戦争?」
「直接的には戦争かもしれないけど、滅亡への兆候があると言っています」
「兆候……、何なの?」
「この何世紀の間に沢山の生物、幾つもの種が滅んでいます。大半は、人類の営みがその原因です。人類の愚かな行いによって多くの種を滅ぼし、それだけでは収まらず自身をも追い込んでいく……」
思案顔のレイチェルが頷く。
「それで、どうすればいいの?」
「どうするって、どうしようもない。さっき、始めがあれば終わりがあるって言ったじゃないか。絶滅は避けようがない」
「そうなの……、運命ね。でも、水族館で魚の写真を撮り捲るのは、何か回避の手段を見つけるためじゃないの?」
異星の生物学者は闇雲にサンプルを集めているように感じる。個々の生物にはあまり関心がなく、数量を増やすことに意欲を燃やしているのではないか、と思うこともあった。
「そうだといいけどね。それよりも、人類が滅んだ後にどの種が繁栄するのか、そっちのほうを気にしていると思うな」
「そうなの。そんな研究、無意味だわ。それに写真だけで、そんなことがわかるのかしら……」
リューベックは何度か頷きながら彼女の話を聞き流し、皿の上の残りを口へと運んだ。思案顔でそれを噛み砕き、喉へと送り、彼女に尋ねた。
「別の人生を生きてみたいと考えたことはある?」
レイチェルは再び唖然とする。そして笑い出した。
「やっぱり、あなた、変だわ」
笑いながら言う彼女を見て、真顔のリューベックは片方の眉をピクリと動かした。
その表情を見たレイチェルは呆れた顔を見せたが、それでもその問い掛けに答えた。
「そうね、全く違う人生なら、それもいいかもしれないわね」
リューベックは頷く。
「何となく、そう言うような気がしてたよ」
リューベックはポケットから薄く小さな箱を取り出し、レイチェルに見せた。
「何よ、それ?」
「額に、こんなふうに当ててくれないかな」
「それを、なぜ?」
「もしかすると、全く別な人生が歩めるかもしれない。保証はできないけどね」
レイチェルは笑った。バカなことを言う。……でも、真面目な顔、真っ直ぐな視線に引き付けられてしまう。
「痛くないの?」
「痛くはないよ。害などない。それは保証するよ」
「それを額に当てると何かわかるの?」
「いろんなことがわかるよ。これは一つのチャンスかもしれないし、単なるおふざけかもしれない……」
レイチェルは、対面に座る男性の視線を受け止め、それに負けない強さで見詰め返した。
「いいわ、貸して」
その小箱を受け取ると、躊躇することなく額に当てた。
「これでいいの……」
頭がフワリとした。
何か暖かいものに包まれたような心地よい感覚。
眠くないのにまぶたが重く、ゆっくりと目を閉じる。正面の男性の真剣な顔が、目の奥に焼き付く……
ガタン!
体が大きく揺れ、椅子から滑り落ちそうになった。慌てて座り直す。背後からクスクスとそれを笑う気配がした。
どうしたの? 何があったの?
対面にいた男性の姿がない。周囲を見回しても見当たらなかった。
トイレにでも行ったのかしら……
彼の皿は空っぽで、パンもスープもない。食べる物を食べたから逃げ出したのかもしれない。別にあなたをとって食おうなどと考えてはいなかったのに……
レイチェルはもう一度姿勢を整え、自分の皿の料理に手を伸ばした。空いた手で、無意識のうちに額を擦る。少し赤くなっていたが、彼女がそれに気付くことはなかった。
七
「私も、地球に降りてみたいと思っていたんです」
そのシオンという名の若者は、自身のクローンだった。今回、一緒に降りることになる。初めての試みだ。
ランス・リューベックは何人ものクローンの肉体を借りて、地球での活動を続けていた。自身のクローンだけでなく、バハ・シュヴェットとダルボ・エバースのクローンの体も借りるようになっていた。もちろん、シオンの体にも乗り移り、何度か地球に降りている。
「地球での活動は五年になります。各地を巡り代表的な生物の生体情報を一通り収集できたと思います」
リューベックはシオンの言葉に、とりあえず頷いた。代表的な生物という表現は曖昧だ。地球の全ての生物という目標には程遠い。
「五年か……」と呟く。
もっとも、五年間休みなく続けてきたわけではない。休止していた期間の方が圧倒的に長く、その間リューベックの精神は休眠状態だった。惑星探査の人工冬眠と同じだ。
「これからは時間と手間を掛けて記録していない生物を捜し出し、生体情報を集めることになります」
リューベックは、ある地域の昆虫館に出向いた時のことを思い出していた。一つの種の仲間とされる昆虫が幾つもの標本箱にずらりと並べられていた。それと同じことをやるのなら、気が遠くなる。
「現在、地球の放送・通信を傍受していますが、たとえば、どこかの動物園で希少種の飼育を始めたという話があったなら、そこに出向きその生体情報を収集することになります」
リューベックは無言のまま頷く。
「しかし、その度にあなたを覚醒させ、肉体を提供し地球へ降りるのは手間も掛かりますし、負担もあります。その程度の役目なら私にもできると思います」
「君が一人で降りて収集してくる、ということか」
「ええ」とシオンが頷く。
「私は、御役御免か……」
「いえ、そういうことではありません。細々とした仕事で、わざわざあなたを起こすことはないでしょう」
それは方便だろう。肉体の提供を嫌っているのだ。純粋、柔順に育ったクローンであっても、自身の肉体を誰かに貸すのは嫌だろう。それは当然のことだ。
「それに私も地球の植物の世話をするうちに本来の自然を見てみたい、体験したいと思っていました」
異星人の宇宙施設は、想像以上に大規模なものだった。ここには大宇宙を徘徊して獲得した生物学の成果が集められている。幾つもの星の環境を再現した施設が連なり、その星の植物を育てていた。ただ、基本的に動物はいない。植物に限定しているのは手間が少ないからだろう。地球人類のクローンがここで暮らしているのは例外のようだ。
ここに造られた地球環境の施設は、かなり広く充実したものだった。そこでは、リューベックの活動以前に探査機を使って収集した種子や苗木を育てている。地球の各所の植生を再現して数々の機械装置で管理していたが、クローンの誕生により彼らも植物育成の手伝いをしていた。その作業に関わり、シオンも地球の自然に興味を持ったのだろう。彼の肉体は何度も地球に降りているが、精神はまだ地球を知らない。
「地球の暮らしに憧れているのか」とリューベックが尋ねた。
大規模とはいえ閉鎖された施設、閉ざされた空間になる。故郷の星の解放的な場所で生活してみたいと思うだろう。クローンであっても彼らは歴とした地球人類なのだ。
「暮らしに憧れているわけではありませんが、自然には強い関心があります。直に見て、触れてみたいですね。各地に自然保護区がありますが、そういった場所を訪ねたいと思っています」
それが本心だと思う。やはり、異星の生物学者の影響に違いない。しかしシオンは幻想を見ているのではないか。そうした自然保護区には動物も沢山いる。顔に纏わり付くハエや無数の足で這いずる虫、強暴な肉食獣、猛毒を持つヘビもいるはずだ。その現実をわかっているのだろうか。考えが甘いのではないか……
クローンがどんな日々を送っているのか、リューベックは詳しく知らなかった。地球の環境施設にも行ったことがない。
動物園で飼育されているような生活なのか?
これといった目的もなく、緩慢な日常を過ごしているのか?
では、地球の人々はどうなのか?
自分は……
無謀にも地球を飛び出して木星、土星を目指し、敢え無く一生を終えた。満足できる人生だったのか? 意義はあったのか?
広さに違いがあっても閉鎖空間であることは地球も同じだ。限られた地域の中で一生を終える人もいる。
地球の重力を振り切り宇宙に出ても、活動の場は三八万キロメートルの距離がある荒れ果てた月に留まっている。極めて少数の人間が火星まで足を延ばし、リューベックを含む一握りが木星圏に辿り着いた。その先は未到のままだ。
幾らか活動範囲が広がっただけで、閉ざされた空間の中で短い一生を終えることに違いはない。
何のために人は生きるのか?
生物は子孫を残すことだけに、その命を捧げているような気がする。
しかし人は、それ以外の存在理由を求め、もがき苦しむ。だが、満足する結果を得られないまま命を終えてしまう。知性を得たことによる虚しいカルマだ。
自分は、生物としての究極の目的を達成することなく人生を終えたが、異星人の介入によって子孫を残すことができた。本来とは違う異質な状況ではあるが、感謝すべきことなのだろう。やはり、直系子孫の存続に助力を惜しんではいけない。
「地球に降りたいのなら、まず振る舞い方を身に付けるべきだな。こことは違い、数多くの人々がそれぞれの価値観を持って暮らしている。安易な行動はトラブルを招くことになる」
「振る舞い方ですか……」
「ああ、たとえばジロジロ見たりしない。正しいと思っても口出しや手出しをしない。だからといって無視してはいけない。手助けが必要な場合は速やかに動くべきだ」
シオンは困惑の表情になった。彼が育ったのは純粋、無垢な場所になる。地球の暮らしに馴染むのは大変だろう。
「まあ、慌てたりせず、私の傍から離れないことだ」
そう言いつつも、これは厄介だ、とリューベックは苦笑いをした。
八
地球の周囲には無数のデブリが取り巻いていた。
それは、これまでの宇宙開発で放棄されたもの。戦争で破壊された宇宙施設の残骸もある。そうした危険な障害物を一掃する必要があったが、一向に進まない。逆に増える傾向が続いていた。
そうしたデブリに紛れて、ランス・リューベックが取り組む隠密活動を支援するための異星の装置が地球を回っていた。
リューベックの頭の中で、聞き慣れたコンピューターボイスが響く。
『シオンにトラブルです』
また、何かのウイルスに感染したのか……
『いいえ、集団暴行を受けました。パニックを起こしています』
集団暴行? 直ぐに行ったほうがいい。人のいない所へ移動する。
事情を教えてくれないか……
『シオンは街の市場で野菜や新鮮な魚のサンプルを採取していましたが、突然、三人の男に取り囲まれ路地に連れ込まれて暴行を受けました。ケガを負いましたが、それよりも精神的ショックの方が大きいようです。動揺しています』
温室育ちのクローンだ。人を殴ったことも殴られたこともないのだろう。
『それと、サンプラーを奪われました』
舌打ちをする。金目の物は、それしかない。
リューベックは路地裏の物陰に身を潜めた。その瞬間、彼の姿が消失した。
どこかの建物、階段の裏側。そこにいた。
『建物を出て、広場の向かい側です』
通路を抜け外に出ると、広い場所に露店が並び人が溢れていた。衣類や食べ物、土産物など、あらゆる物が売られている。賑やかな雑然とした雰囲気。美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。
リューベックは人波を縫うように広場を横切った。
『左側の路地を入り、突き当たりを右に曲がった所です』
頭に響くコンピューターボイスに従って進む。角を曲がると数人の男女が集まっていた。その人たちは暴漢ではない。地面に座り込んでいる若い男を心配そうに見ていた。
「シオン、大丈夫か?」
リューベックは歩み寄り、身を屈めてシオンの顔を見た。
「リューベック……」
宙を泳いでいたシオンの視線がリューベックの顔で止まった。彼の顔には青アザがあり、身を震わせている。
「知り合いかい?」
傍に立つエプロン姿の年配の女性が尋ねた。リューベックが振り向き、頷いた。
「良かった。何を聞いても答えないから困っていたんだよ。観光に来たのでしょう? 悪い奴らに襲われて、財布やパスポートも奪われたようだよ……」
シオンは上着を羽織っていた。暴漢に剥ぎ取られポケットを探られたのだろう。それを誰かが拾い、彼に掛けたのだ。もっとも、財布やパスポートなどは最初から持っていなかった。
「市場に観光の人が来るようになって賑やかになったのはいいけど、それを狙って悪い連中が集まるようになったからね。私たちも困っているんだ。警察を呼んだから、直に来ると思うよ」
警察! 警察はヤバイ。あれこれ聞かれては面倒だ。リューベックは咄嗟に耳をシオンの口元に近付けた。何度か頷いて見せる。
「トイレに行きたいそうです。近くにありませんか」
と周囲に立つ人に尋ねた。
「路地を出た所に公衆トイレがあるが、警察が来るまで待ったほうがいいだろう」と年配の男が言う。
「しかし警察が来たら、いろいろ聞かれて時間がかかってしまう。早めに済ましたほうが無難だよ」
と別の男が言うと、最初に言った男も納得顔で頷いた。
「そうだな。彼は立てるのか」
リューベックともう一人が手助けしてシオンを立たせた。肩を貸し、ふらつきながらも前へ進む。二人は路地を歩き、何とか公衆トイレに入った。幸いなことに誰もいない。背後で扉が閉まると同時に二人の姿が掻き消えた……
広く清潔な部屋。
隠密活動の拠点となる宇宙船の内部は、地球の重力環境に調整されていた。その拠点が、土星の周回軌道に置かれたのは、リューベックにとって皮肉でもある。好意的に考えれば、異星人の心遣いなのだろう。ここから見る土星はキレイだった。角度と太陽の光りによって、その環が様々な表情を見せる。
人類の土星到達は、まだ達成されていなかった。もっとも、土星を掠めて飛んだ男たちを到達と呼ぶのなら、話は別だ……
市場の公衆トイレから転移し、壁際の医療設備のベッドにシオンを寝かせた。治療が始まる。
「ケガは、大したことありません」男のコンピューターボイスが即座に言う。
「彼の意欲を認めたことが間違いだった……」とリューベックが悔やんだ。
「地球での活動に多少馴れたのだろうが、手分けして作業を進めようという提案は却下すべきだった」
「私にも責任があります。あの場での適切な指示ができませんでした」とコンピューターボイスが反省する。
「いや、こうした犯罪は珍しくない。被害者側の油断も要因の一つだが、暴力のない世界で育った君たちには対処は難しいと思う。悪意があるのか、ないのか、見極められない」
「そうですね。地球で暮らす人々の生態は、理解できていません」
リューベックが頷く。不介入の不文律から人類の生態調査は行われていなかった。特に関心を持っていない。だから、その地で産まれ育ったリューベックが地球での活動を担ってきたのだ。
「治安の善し悪しに、もっと注意を払うべきだと思うが、犯罪のない場所はないからね。最終的には、こちらが気を配るしかない。異星の学者先生に言わせれば、戦争のみならず、まず犯罪や暴力から根絶しないといけないのだろう。今の地球にとって、それは大ごとだな」
診察台のシオンを見ると、顔の青アザが薄くなり目立たなくなっていた。完治は目前だ。
「奪われたサンプラーの位置は確認できるかな?」
「はい。現在、移動しています。おそらく、車でしょう。彼らは、サンプラーを奪ってどうするのでしょうか。人類の科学力では生体情報を扱うことはできませんが……」
「奪った物は売り飛ばすんだ。お金にするんだよ」
「お金にする……」
珍しくコンピューターボイスが小声になった。
「常習犯なら奪った物を溜めてから売り飛ばしに行くと思う。真夜中になったらそいつらのアジトに忍び込み、サンプラーを取り返すことにしよう。このまま地球に置いておくわけにもいかないからね」
「ええ、そうですね。でも、大丈夫ですか」
「観光客を狙うコソ泥だよ。何とかなるだろう……」
古く傷んだ床を踏み締める音に気付いた。眠りが浅いため、物音には敏感に反応する。
薄目を開ける。
若い男。見たこともない奴だ。
忍び足で薄暗い部屋を歩き、今日の分捕り品を置いた机に近付く。小型のカメラに手を伸ばした。
「誰だ!」と跳び起きる。
若い男はその大声に驚いたようだ。もう一人、古いソファーで寝ていた仲間が目を覚ました。
「てめぇ、何者だ」
と殴り掛かったが、寝起きのせいか動作が鈍い。若い男はヒョイと身を躱した。その手にカメラを持っている。
「この野郎、ふざけやがって」
体勢を立て直した時、若い男がニヤリと笑う。
次の瞬間、その姿が消えた。
片手を振り上げた男は唖然とする。何が、どうしたんだ???
「何を騒いでいるんだ?」
ソファーの男が上体を起こした。眠そうな顔をしている。
「今、ここに若い男がいた……」
と答え、振り上げていた手をゆっくりと下ろす。
「若い男? 何、寝ぼけたこと言っているんだ」
「いや、確かにいた。今日、奪ったカメラを持っていったんだ。机の上にないだろう」
「カメラ? あいつじゃないのか。妙に気に入っていたからな……」
指さす先に、太った男が横になっていた。この騒ぎでも目を覚まさない。
ソファーの男が立ち上がり、太った男の傍に行き足で小突いた。
「おい、カメラを持っていったのか」
何度か小突くが、唸り声をあげるだけで目を覚まさない。
「全く、食うか寝るかのどっちかだな……」
その様子を見ていた男は、首を傾げた。
「確かにいたんだ……」と小声で呟く。
九
個室仕様の部屋に入る。
中にいた若い女性が警戒感を露にした顔で、部屋に来た若い男を見た。今にも泣き出しそうな目をしている。
「誰?」
「ランス・リューベックだよ。レイチェル……」
「リューベック? 違うわ、あなたリューベックじゃないわ」と後退る。
「外見は別人だけど、中身はランス・リューベックだよ。今の君も、そうだろう」
そこで女性はビクリと体を震わせた。見た目の違いに戸惑い、恐怖を感じていたところだった。
「本当にリューベックなの?」
「ああ。もっとも、水族館で会った時の姿も私じゃない。あれもこれも借り物の体だよ」
「借り物……。私のこの体も借り物だと言うの?」
「そうだよ。持ち主は、ちゃんといる」
「なぜ? どうして? 何があったの?」
リューベックは降参したように両手を挙げた。
「順に説明するよ。その前に、まず座らないか。落ち着いて話そう」
と部屋に置かれたソファーセットを指さす。
レイチェルはしばらくしてから恐る恐る歩き、一人掛けのソファーに座った。
リューベックは壁に組み込まれた装置を操作し、二つのコップを手に持ってソファーに歩み寄った。
「水だよ」
そう言ってコップの一つをテーブルに置き、対面のソファーに座る。手に持ったもう一つを口へと運び、ゴクゴクと水を飲んだ。
レイチェルもテーブルのコップを両手で取り、一口飲む。
「何があったの?」
リューベックはコップをテーブルの上に置いた。
「水族館のレストランで、最後に話したことを覚えているかな?」
レイチェルはコップを持ったまま眉を顰め、記憶を探った。
「別の人生を生きてみたくはないか、そんな話しだったわ。これがそうなの? 誰かの体を借りて生きるということ」
彼女の顔が強ばった。
「そんなこと、できるわけがない……」
しかし、自身の体が全くの別人であることが、それが可能であることを裏付けていた。
「私は、そうして生きている」とリューベックが言う。
「既に何人もの体を借りて生き続けている。だから、水族館で会った時とは違う姿をしてるんだ」
「そんな、信じられない……」
不信感を口にする。手の中のコップに気付き、それをテーブルの上に置いた。
その時、大事なことに気付く。
「私の体はどうなったの?」
「どうにもなってないよ。君の体と心は一体で、その後の生活を続けているはずだ」
「続けているはずって、何なのよ」
「関知していないんだ。ケンカした彼氏との関係がどうなったのか気になるところだが、だからと言って後を追い回して調べたりしていない。どんな暮らしをしているのか知らないんだ」
「私は、ちゃんと生活していると言うの? じゃあ、ここにいる私は何なのよ」
「コピーだよ」
「コピー……」
「あのレストランで小さな箱を手渡したことを覚えているかな?」
「ええ、おでこに付けたわ」
「その小箱が、君の脳の組成を分子レベルで解析し記録したんだ。詳細で正確なデータだから、記憶や思念といった精神情報も含まれている。後は、それを上手いこと取り出して、その体に精神を移植したんだ」
レイチェルは、対面の男性をしばらく見詰める。その視線を受け止めたリューベックは、テーブルの上のコップを手に取り、喉を潤した。
「簡単に言うのね……」
「私が理解しているのは、表面的で簡単な話だけなんだ。だから、それ以上突っ込んだ質問はしないで欲しいね。答えられないから……」
「この体の持ち主は、どうなったの? 消えちゃったの?」
「いや、同じように脳情報を読み出し保存してある。君が役目を終えたら、元に戻すことになる」
「役目? 私の役目って何なの?」
その問い掛けにリューベックは唸った。
「順に話すよ。話を飛ばすと混乱するからね。ただでさえ、ややこしい話だから……」
レイチェルは、その言い分に頷く。これが、複雑で厄介な話であることは、十分理解できた。
「私が何かをやり終えたら、もう私は必要ないのね。消されるのは私ね」
「そうなるけど、その経験も含めて保存される」
「また、誰かの体に移されるということ?」
「そうだね。必要とされれば、また移植される。それを繰り返すことになる。私と同じように……」
レイチェルは深い溜め息をついた。
「何だか大変そうね……。でも、この体の持ち主は、よくそんなことを承知したわね。もしかして、無断でこんなことをしてるの?」
「いや、ちゃんと承知してるよ。極めて従順なんだ。断ることを知らない……」
「そんな人が何人もいるなんて、どういうことなの。ヤバイ人たちが関わっているのね。恐ろしいわ……」
レイチェルの顔に再び警戒心が表れた。
「そうした心配は無用だよ。でも、別の意味でヤバイと思うけどね」
「別の意味……。どういうこと?」
「話を聞いて気付いていると思うけど、これには非常に進んだ科学技術が使われている。人類が持つ科学の遥か上を行くものだよ」
「そうね……。もしかして、宇宙人が関わってるの?」
レイチェルの口元が緩む。奇妙な状況の中で飛び出た軽いジョークだったが、リューベックの表情を見て彼女の口元の緩みが消えた。
「まさか、本当に宇宙人がいるの?」
リューベックが無言で頷く。
「ウソでしょ。宇宙人だなんて、悪い冗談よね」
と引き攣った笑みを見せた。そしてレイチェルは表情を固めた。
「宇宙人の侵略ね……」
「いや、侵略の意思はないね。それどころか、地球や人類に介入することを避けている。それが彼らの信条だよ」
「介入しないって、現に私は、こんなことになってるわ」とその顔を突き出すようにして見せた。
「そうだね。でも、君のオリジナルは何も知らず、何も変わらず日々を過ごしている」
「……私にちょっと手を出してコピーをしたけど、地球の現状には何の影響もないわけね。ご立派だわ」と今度は腹を立てた。
「謝るよ。君に手を出したのは私だからね。妙なことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ない……」
「……今更謝っても遅いわ」
そう言ってコップを手に取り、ゴクリと水を飲んだ。
「いいわ。とりあえず話しを聞くわ。先を続けて」
リューベックは顔を顰め、身じろぎをした。鼻を鳴らしてから話しを続ける。
「ともかく、この一件を取り仕切っているのは進んだ科学技術を持つ異星の生物学者なんだ……」
そこで早くもレイチェルが口を挟んだ。
「レストランで話した生物学の先生ね」
リューベックがギュッと眉間に皺を寄せた。何の話かピンとこない。
「ほら、人類が滅亡するって言ってる大先生よ。宇宙人だったのね」
その話しをしたことを思い出す。あの時、何でそんなことを話したのだろうか……
「とにかく、生物学者だから地球の生き物に関心がある。でも、その星に介入しないという不文律があるから出掛けて行って間近で観察することができない。そんなことをすれば人類に見つかって大騒ぎになるからね」
無言で頷くレイチェルを見て、リューベックはホッとした。話しを前に進められる。
「そんな時、地球から一隻の宇宙船が外宇宙を目指して飛び出してきた。木星に立ち寄り、土星に向かう。百年前のことだ」
「知ってるわ。惑星探査計画ね。三人の隊員が木星の衛星に降り立ち、調査をした。人類の木星到達。その後、土星を目指したけど上手くいかなかった……。ちょっと待って。確か、その三人の中にリューベックという名前の人が……、まさか、あなたなの?」
リューベックは満面に笑みを浮かべた。
「嬉しいね。私も結構、有名なんだね」
「そうね。でも私は、十代の時の男友達が、俺は土星に行く、なんて叫んでいたから調べてみたの。だから他の人が、百年前の宇宙計画のことを知っているとは限らないわ」
「そうなのか。ちょっと寂しいな……」
「その男友達も土星になんか行けなかったわ。宇宙での活動は、どんどん縮小されているのよ。月面の定住施設も閉鎖されたわ」
リューベックが頷く。
「その話を知って、少なからずショックを受けたよ。惑星探査から無事に戻ったら月面に定住する予定だったからね。月の低重力に体が馴染んでいた人は、閉鎖になって地球に戻され、苦労したみたいだね……」
また、話しが横道へと逸れていく。リューベックは咳払いをした。
「惑星探査の船が土星を掠めて飛び、地球への帰還が絶望となった時、私たちは安らかな死を望み人工冬眠に入った。眠っている間に死ねるから、余計な葛藤をしなくて済む。しかし、そこへ異星の生物学者が忍び込み、眠っている私たちの生体情報や脳情報を写し取っていった。この体もその体も、三人の探査隊員の生体情報から生まれたクローンなんだ」
「クローン……」
「安全で安心な環境で、これといった刺激のない日々を過ごし育ったから、クローンは皆、穏やかで従順な性格をしている」
「だから文句を言わず、素直に体を提供したのね……。私が育った所は劣悪な環境なんだわ。文句ばかり言ってる」
その自己分析に、リューベックはニヤリと笑う。
「惑星探査隊員の他の二人も、ここにいるのね。昔の男友達が聞いたら喜ぶわ……違うの?」
「残念だけどね。あの船の人工冬眠装置は性能が悪かったようだ。二人は既に脳死状態、私だけ運良く脳が生きていた……」
「そうなの、残念ね……」
「クローンの話に戻すよ。私の役割は、クローンの体を借り、地球へ降りて様々な生物の生体情報を集めることなんだ」
「生体情報? バチバチと撮っていた写真がそうなの?」
「そうだよ。見た目は普通のカメラだけど異星の科学で作った物なんだ。写真だけでなく生体情報も一緒に撮れる」
「ふーん……。でも、写真を撮るだけならあなたが乗り移らなくても、クローン自身がその仕事をやればいいんじゃないの?」
「そうだね。でも、隔離された温室育ちのお坊ちゃん、お嬢ちゃんに、荒くれ者が住む地球での活動は無理がある。妙なトラブルに巻き込まれてしまうんだ」
レイチェルはその点を吟味し、頷いた。
「そうかもしれないわね」
「異星の生物学者は、地球人類が遠からず滅びてしまうと考えている。それに伴い、他の多くの生物も巻き込み、大絶滅が起きると推測しているからね。その前に地球に生息する生物の資料を整えたい……」
「既に多くの種が絶滅してるのは、その兆候だとレストランで言ってたわね」
「よく覚えてるね」
「ええ、ついさっきの話しよ。その仕事を私も手伝うのね」
リューベックはゆっくりと首を横に振った。
「違うの?」
「人類絶滅と言っても、今日、明日に起こることではないようだ。地球生物の情報収集は、もっと長いスパンで地道に取り組むことになる。そうなると問題になるのはクローンだ。何百年という期間を活動できるよう、クローンの体制も整えないといけない」
「安定供給の話みたいね。クローンを品物のように考えてるの?」
「そうだね。品物というか、一種の家畜になるのだろう。それに地球に住む人間も、彼らから見ると道具を使うちょっとだけ賢い動物なんだと思う。その道具の危険性を知らず、無闇に振り回して自らを傷つけている。絶滅の一つの根拠だよ」
レイチェルは、リューベックの話しに頷きながらも、思案を続けていた。
「ちょっと待って、私の役目って、クローンの安定供給に関係するの?」
リューベックが頷く。
「この一件の親玉は、異星の生物学者になる。学者先生は自然なかたちの繁殖を望むようだ。つまり、性交して子を授かる。地球で日常的に行われている行為だよ」
「それはわかるけど、どうしろと言うの?」
「クローン女性の体を借りて地球に降り、その……、地球で暮らす男と関係を持って、子を授かる。そういうことかな……」
レイチェルは口をあんぐりと開けていた。リューベックは、それをチラリと見てから話しを続けた。
「クローンは小ぢんまりとした集団だからね。新しい血を入れて遺伝的な安定を図らないといけない。私が地球に降りて人の生体情報を集めれば、遺伝的に異なるクローンを生み出すこともできるが、それより地球に降りて子を授かったほうが生物として自然だ。学者先生は、そっちを好む」
「クローンの体を借りて地球に降り、手当たり次第にセックスしろと言うの?」
レイチェルの表情は、呆れと怒りが入り混じっていた。
「手当たり次第、というのは正しくないよ。相手を見極めないといけないな……」
「その男と結婚するの? 妊娠して出産、子育てをするのね」
「いや、クローンは地球に存在しない人間だからね。結婚はできない。妊娠が確認できたら、こっちに戻り出産、子育てする。でもそれは、その体の本来の持ち主の役目になる」
「私は? また別の女性の体を乗っ取って地球へ降りるの?」
「そうなるね……」
レイチェルは、しばらく口を噤んでいた。
「そのために私に手を出して、こんなことをしたのね」
「すまない、謝るよ。どのような女性が、この計画を担うのに相応しいのか、私も判断できなくて困っていたんだ。そしたらあの時、私に文句を言う女性が現れた。見ず知らずの男に文句を言うのだから、少なくとも度胸はあるのだろうと思ってね」
「だから言ったでしょ。彼氏とケンカしてイライラしてたのよ」
リューベックは、わかっているよと頷いた。
「それに、全く別の人生を生きることにも、多少の関心があったようだからね……」
「バカ言わないで。普通、そんなことができるとは思わないでしょ。架空の話よ」
「そうだね……」
リューベックは困り顔を見せた。目を瞑り、思案する。
「こんなバカな話に関わる気はない、と言うなら仕方無い。君の脳情報を消去するよ。もう、目覚めることはない……」
「ちょっと待ってよ。脅された気分よ」
「脅してなんかいないよ。それに実質的な被害もない。君のオリジナルは何も知らず、平然と日々を過ごしているからね」
「それは、そうだけど……」
「それともう一つ。レストランで君と食事をしてから十年が経っているんだ。君にとっては、ついさっきの話になるけど、君のオリジナルはあれから十年の月日を過ごしている。思い通りにいかない事も多いけど、これは全く別の人生なんだ。どうするのか、少し考えて結論を出して欲しいね」
そう言われレイチェルは困惑した。
「……ずるいわ。そんなふうに言われると、それに従うしかないでしょ」
リューベックは頭の中で返す言葉を探す。
「申し訳ない……」と何度目かの謝罪を口にした。
十
中世の街並みが残る石畳の通りを歩く。
ランス・リューベックは、横を歩く若い女性をチラリと見た。彼女は一度来てみたかったの、と言う。最初の活動の場所をレイチェルは女性に人気の観光地に決めた。この奇妙な役目を前向きに取り組むのなら、それもいいかと思う。
レイチェルは通りに面したオープンカフェを気にしていた。この街に合う優雅な服装で、通りに面したテーブル席でお茶を飲む……ただ、その女性の姿はイメージの中だけの存在だった。今の容姿は全く違う。それが哀しかった。
「何か飲みたいのか?」
リューベックの問い掛けにレイチェルは首を横に振った。用意された在り来りの服で、オシャレな店に入るのは残念だ。それにお金もない。
しばらく歩くと緑の多い公園が見えてきた。中に入り、ベンチの一つに並んで座る。
「場所は決めたけど、どうすればいいの?」
レイチェルは戸惑いを素直に認めた。
「私に聞かれても困るね……」とリューベックは正直に言う。
「男女の出会いの場となると、夜の酒場ぐらいしか思いつかないな。でも、そんな場所は嫌なんだろ?」
「嫌というか、できれば避けたいわね。酔っ払いを相手にするのは気が滅入るわ。ロマンチックじゃない」
「ロマンチックねぇ……」リューベックは顔を顰めた。
「あら、ダメなの? 誰彼構わず相手にすればいいの?」
「いや、そんなことは言わないよ。ちゃんと相手を選べばいい。でもね、選ばれた男も可哀想だよ。身籠もった途端にいなくなってしまうのだから……」
「そうね、可哀想ね。難しいわ、どうすればいいのかしら?」
「まあ……、割り切るしかないね」
リューベックにそう言われ、レイチェルは眉を寄せた。
「困ったわ。割り切れるかしら」
惚れ易い女性なのか、とリューベックは思う。ただ、それを口にすることは避けた。
「この先は、私一人でやることになるのね」
リューベックが頷く。
「若い男が周辺をウロウロしてたら、折角のチャンスも逃げていってしまうだろう。一人で頑張ってもらうしかないね」
「一人で……。不安だわ」
「でも、瞬時に戻ることができるから、これはヤバイと思ったら、消えればいい」
「変な噂になりそうね。幽霊か魔女だわ」
「まあ、あながち外れてはいないな」と笑う。
レイチェルは薄い笑いを消して言う。
「でも、何から始めればいいのかしら。何かアイデアはある?」
リューベックは唸った。正直、わからないが、突っ撥ねるのも薄情だと思う。
「何か、趣味でも始めたら? 男女の交流がありそうなもので……」
「趣味? たとえば?」
リューベックがもう一度唸る。
「テニス…とか、ゴルフとか……」
レイチェルは顔を顰め首を傾げた。
「サークルみたいね。そんなので上手くいくの?」
リューベックは、また唸る。
「それじゃ、夏は海水浴、冬はスキー……」
レイチェルは目を細め、リューベックを見詰める。
「リゾートへ行って、片っ端から男を漁れと言うのね」
結局、リューベックは天を仰いだ。
「ねえ、もっと簡単に考えていたんじゃない。こんなことをして本当に意味があるの? 得意の科学技術でチョイチョイとやった方が手間がないわ」
「生物学者だから自然の成り行きを重視しているんだよ。クローンの子孫を安定的に育てていくという目的の達成も重要だが、そのための手段も生物学的に大切ということだろう。いろいろ試しながら時間を掛けて相手を探すしかないね」
「時間を掛けていいのね」
「焦ることはないからね。手法を確立しないといけない」
「手法だなんて……」
「私たちが研究用の飼育動物であることは確かだよ。彼らの第一の目的は、地球で生息している生物の研究資料を集めることだ。人間に気付かれないようにしてね。そのために手間暇を掛けている」
「面倒ね。付き合うのが大変そう……」
「そうだね。面倒な話だ」
「その異星の生物学者と会ったことはないのでしょ?」
「ないよ。実際に面倒な作業をしているのは、彼らの科学技術が生み出した機械装置になるからね。優秀なコンピューターが取り仕切っている。異星の生物学者は現場にはノータッチのようだ。データだけを欲しているのだろう。大昔に示された指針に従って、異星のコンピューターが律義に調査研究を続けているんだ」
「その調査研究に、どんな意味があるの?」
リューベックは口をパクパクと動かしたが言葉が出てこなかった。
「地球の生物を調べて何がわかるのかしら? 何が知りたいのかしら……」
レイチェルの素朴な疑問に、リューベックは答えることができない。
「賢過ぎる異星の生物学者が何を考えているのか、未熟な私たちには理解できないのね。都合のよい道具として、あくせく働くしかないわ」
彼女は思考を完結させ、自身に言い聞かせた。
人類も同じようなことをしている。人間のために様々な動物を使って研究を繰り返してきた。その立場が替わっただけのことだ。文句など言えない……
「開き直って、この状況を楽しむことにするわ」
とレイチェルが笑った。
「借り物の体だけど、悪くはない」
「おいおい、無茶しないでくれないか」
「あら、多少無茶しないとできないわよ。こんなこと」
「そうかもしれないけど……」
「それにケガをしても、進んだ科学でキレイに治してくれるでしょ。傷一つ残らないわ」
「そうだけど、何をするつもりなんだ?」
「別に、何かを考えているわけじゃないのよ」
「でも、命を落としたらそれでお仕舞いなのは同じだからね。身籠ったら、持ち主にちゃんと返さないといけない」
「そうね。それが役目だから、きちんと仕事をしないといけないわね……」
そう言ってからレイチェルは思案顔になった。
時代が進むにつれセックスはオープンになる。反面、出産・子育てを敬遠する女性が増えてきた。それより社会的な成功、地位の確立を望むようになった。仕事と子育てを両立しようとする試みは、結局上手くいかない。少子化は社会が抱える大きな問題だった。
様々な要因があるが、リューベックの時代に世界の人口増加が止まり、減少に転じた。以来、世界人口は減り続けている。人類の勢いのピークは自身が生きた時代だったのではないか、それから何もかも成長が鈍化しているようにリューベックは感じていた。これも絶滅の兆しなのだろうか。十億人にまで減れば自然との共生が可能だと急激な人口減少を容認する声もあった。
レイチェルの恋愛経験がどれ程なのか知らないが、人口減少世代の女性であることは確かだ。妊娠を目的とする活動に違和感を持っているのかもしれない。しかし何れにしても、彼女の器量に期待するしかない。
思案を続けていたレイチェルが、リューベックに顔を向けた。
「心と体は一体じゃないの?」と唐突な質問をする。
「こうして誰かの体を乗っ取ってしまうと、私って何者なの、と疑問になるわ。肉体って単なる入れ物なのかしら」
リューベックが顔を顰める。彼もそうした疑問を持っていたが、考えないようにしてきた。
「科学的には別物になるんだろうね。異星の施設を管理するコンピューターも、人の精神構造を真似て意識が組み込まれているようだ。だから異質な感じがしない。人間ぽいだろ」
「そうね。素直に納得できないけど、肉体がなくても私は私なの?」
「そうだね。きっと、人格形成に肉体は不可欠なんだろう……。幼い頃から経験を積み重ね、繰り返し考え、記憶として創り上げる。それには肉体と精神が一体になっている必要があると思うけど、成長してそれなりに人格形成されれば、精神は別の肉体でも問題なく活動できるんじゃないかな。そんなふうに思っているよ」
レイチェルが呆れた顔をする。
「あっさり言うのね。温か味がないわ。やっぱり、未到の星へ行こうと考える人は、頭の造りが違うのね……」
リューベックが肩を竦めた。
「ありがとう。褒め言葉として受け取るよ。ともかく、我々が普通の人間でないことは確かだ。割り切って働くしかないよ。嫌なら誰かの体に乗り移るのではなく、自身の記憶を消去するよう頼むことになる……」
レイチェルが真顔になる。
「そうね」と短く答えた。
十一
土星を周回する拠点の船。個室のベッドで眠っていた。
目を覚ますと、薄暗い部屋のソファーに人影があり、ランス・リューベックは驚いた。
「レイチェルなのか……」
その女性が頷く。
「ごめんなさい、勝手に部屋に入って……」
リューベックは体を起こした。
「いや、それは構わないが……。何かトラブルがあったのか」
レイチェルは首を左右に振った。
「そうじゃないわ。ただ、虚しくなって……」
リューベックは小さな溜め息をつき、ベッドを出た。部屋を明るくして、二つのコップに水を注ぐ。対面のソファーに座り、一つを彼女に勧めた。
「上手くいってないのか」
コップの水を一口飲んでから、リューベックが尋ねる。レイチェルは何人目かの体を借りて地球での役目を務めていた。
「そんなことはないわ。それなりに進んでいる……」
「そっちの問題じゃないのか」
「そうね。個別の問題じゃないわ。私自身の話ね」
それは厄介だ、とリューベックは思う。でも、顔には出さないようにグッと堪えた。
「どういうことなんだ?」
リューベックは、これまでにも何度かレイチェルの悩みを聞いてきた。何か具体的な手助けが出来るわけではないが、出生が同じリューベックに悩みを打ち明けることで幾らか気が休まるようだ。
「あなたとは、決定的な違いがあるわ」
「決定的な違い……」
男と女? 地球での役目? リューベックは頭の中であれこれ考えた。
「あなたはクローンの父親、祖先だわ」
レイチェルのその言葉にリューベックは眉を顰めた。だが、自身の生体サンプルからクローンが産まれたのは確かだ。祖先だと言える。
「この体の母親も、あなたの血筋だわ。二十年前、その母親の体を借りて地球に降り、この子を身籠もったの。成長した娘の体で、また同じことを繰り返すとは思わなかったわ……」
リューベックは溜め息を漏らし、それを誤魔化すように水を飲む。確かに複雑、異様な状況だ。
「この子もあなたの子孫だわ。遺伝的な関係がある。他人じゃないわ」
それも確かだ。血筋を遡れば、自身に辿り着く。
レイチェルはリューベックの顔を見て、話を続けた。
「でも、私の子ではない。この子の誕生に深く関わっているけど、私とは血縁はない。赤の他人よ」
彼女は目に涙を溜めている。
「ここに私の子孫はいないわ。この先、幾ら頑張っても……。それが、あなたとの決定的な違いだわ」
その頬に一筋の涙が伝わった。孤独に苛まれているのだ。
あの時、レイチェルから得たのは脳情報のみだった。写真も一枚、撮っておけばよかったのだ。それを責めているのだろうか。
「すまない……」
リューベックは諸々を詫びた。
「別に、あなたを責めているわけじゃないの。虚しいのよ」
リューベックは小さく頷く。
「どうすればいい?」
「どうする? 別に何かをどうしたいわけじゃないわ」
リューベックは何度か頷き、思案した。
「君のオリジナルを捜してみようか……」
「私を?」
「ああ、君を見つけて生体情報を得る。そこから君のクローンが産まれ、ここの社会に君の子孫ができる。私と同じだ」
「私の子孫……」
それでクローン社会との絆が深まるだろう。心も安定するはずだ。リューベックはそう思った。
「私の子ども……」
レイチェルはリューベックの顔を見詰め、もう一度呟いた。
十二
「お魚の絵が多いのね……」
と足を止めた老女が言う。
海の生物を題材にした幻想的な絵が並んでいた。路上に座った若い娘が頷き、老女をじっと見詰める。
「なぜ?」
「優雅にゆったりと泳ぐ魚は、大らかだわ。広い海の中を泳ぐ魚を想い描くと、心が落ち着くの」
「そうね。気が休まるわね。私も美大に通っていたのよ。よく魚の絵を描いてたわ。随分と昔の話ね。もう長いこと描いていないの。何だか、とても懐かしいわ」
「そうでしたか……」
その中でも一枚の絵を老女が気にしているのは、わかっている。それは魚の絵ではなかった。
「人物画は、これ一枚ね。モデルはどなたなの?」
「モデルはいません。心の中にいる女性です」
「心の中……。不思議ね。若い頃の私に、どことなく似てるわ」
「そうですか。よかったらお譲りしますよ」
「お幾らなの?」
「いえ、お金はいりません」
「そんな、ダメよ。絵描きさんなのに……」
「絵が好きで描いているんです。正直、お金になるようなものではないと思っています」
「そんなこと言わないで、いい絵よ」
娘が笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。どうでしょう、似ているという若い頃の写真があれば、見せて頂けませんか。本当に似ているのならプレゼントします」
「あら……。若い頃の写真はあるけど、お家に帰らないといけないわ。そうね、ここに戻って来るよりも私の家に寄っていきませんか。お茶を御馳走するわ。でも、絵を売らないといけないのかしら」
「いえ、滅多に売れるものじゃありませんから。店仕舞いをして、お茶を御馳走になりたいですね」と笑みを投げ掛けた。
「決まりね。嬉しいわ。ケーキでも買いましょうね」
「そんな、いいですよ。お気遣いなく」
「あら、ダメよ。楽しいお喋りには欠かせないでしょ」と笑う。
「そうですね。ちょっと待ってください。さっと仕舞いますから……」
立ち上がった娘は、路上に並べた絵を大きな布製の袋に入れ始める。手際よく仕舞い、それを肩から提げた。
「準備できました」と笑う。
「それじゃ、行きましょうか。こっちよ……。あなた、お名前は?」
「レイチェルです」
「あら、そうなの。私もレイチェルよ。偶然ね。だからかしら、他人のような気がしないわ」
微笑む老女に向かって若いレイチェルが頷く。ええ、他人じゃないわ……
老女の速さに合わせ楽しげに会話をしながら二人は歩いていった。
小ぢんまりとしたダイニングのテーブルに着き、紅茶とケーキを頂く。隣の部屋でゴソゴソしていた老女が大きなアルバムを持って戻ってきた。
「電気仕掛けのフォトスタンドが壊れた時、孫が新しいのを買ってくれたの。でも、あれは直ぐに写真が切り替わっちゃうでしょ。昔の思い出に浸るのなら、プリントした普通の写真のほうがいいのよ。そんな文句を言ったら、これも作ってくれたの」
「優しいお孫さんですね」
「ええ、そうね。あなたも、お年寄りに写真を贈ることがあったら、こっちにしたほうがいいわよ」
「はい。覚えておきます」と笑う。
紅茶とケーキを脇へ移し、老女が持ってきたアルバムを開く。そこには子供の頃の自分が写っていた。思い出が蘇り、懐かしさが心に広がる。目頭が熱くなった。
「ビデオもあるけれど、あれはダメね。面倒なの。やっぱりアルバムが一番よ」
老女は横からアルバムのページを捲り、二十歳の頃の写真を指さした。久しぶりに見る、自分の本当の顔……
レイチェルは震える手で自画像を取り出した。
「似てますね……」と老女に渡す。
その絵を手にした老女は感心したように唸った。
「よく似てるわ。私の若い頃を描いたみたい。これ本当にもらって…… ! どうしたの?」
写真を見て、レイチェルが涙を流していた。
「何だか、涙が溢れてきて……」
「大丈夫?」
老女がティッシュを渡してくれる。レイチェルは溢れる涙を拭いて、大きな息をした。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。不思議な感性をしてるのね。きっと、芸術家として大成するわ」
「そうでしょうか……」
そうでないことは、わかっていた。紅茶を飲み、少し落ち着く。
「他の写真も見ていいですか」
「ええ、どうぞ」
レイチェルはアルバムのページを捲った。自分が知らない自身の姿が写っている。彼女の孫が年齢の順に並べたのだろう。そこには自分が関われなかった自身の人生があった。
見知らぬ男性と結婚し、子を産み、育て、孫に囲まれている。女性として幸せな人生だ……
全く別な人生を歩んでいる自分はどうだろう?
ゲームのような恋愛を繰り返し、短い付き合いの後キッパリと別れる。望んだわけではないが、そんな特殊な人生を続けていた。
最低の女ね……
いつまで、これを続ければいいの……
終わりのない人生なんて、辛いだけ……
本来の自分は、暖かい家庭を築き、年を重ね、やがて命を終える。それが人間の幸せなのだろう。限りのある命だからこそ人生を謳歌できる。
しかし、全く別の人生を歩むと決めた。だから、この奇妙な役割を続けていく。人類が滅亡するその日まで……
アルバムの最後まで見て、レイチェルは頷いた。
「お幸せな人生ですね」
「ありがとう。そうね、幸せね」
「その絵、プレゼントします。どこかに飾ってください」
「お金はいいの?」
「ええ、頂けません。お金をもらったら価値がなくなってしまいます」
老女はその言葉の意味をしばらく考えていた。そして頷く。
「ありがとう、頂くわ。リビングのよく見える所に飾るわね」と微笑む。
それを聞き、レイチェルも笑みを浮かべた。
リューベックはサンプラーをテーブルの上に置き、収集してきた生体情報をコンピューターに送った。外壁の窓まで歩き、土星の姿を直に見る。太陽の光を反射し大きな環がくっきりと見えていた。
一人の女性が入ってきた。
「ありがとう。会って話しをすることができたわ」
リューベックはレイチェルの顔をじっと見た。しかし、胸の内を読み取ることはできない。
「どうだった?」
「幸せな人生を送っていたのよ。羨ましいわ」
「羨ましい、か……」
「でも、それは変ね。私自身の人生なのだから……」
リューベックは唇をギュッと閉じた。彼女に、こうした試練を与えたのは自分だ。
「会って話しができて良かったわ。踏ん切りがついたの」
「踏ん切り……」
「ええ、彼女は高齢よ。やがて寿命が尽きるわ。でも私は違う。もっと生き続けて、全く別な人生を歩んでいくわ」
リューベックは無言で頷いた。どう声を掛ければよいのか、わからない。
「ありがとう。私の我が儘を後押ししてくれて……」
「いや、踏ん切りがついたのなら、良かったと思うよ。写真は、撮ってきたのか?」
リューベックは彼女が持つサンプラーに目をやった。
レイチェルは頷き、年老いた女性の写真を見せた。優しく微笑んでいる。それには老女の生体情報も含まれていた。
「でも、クローンを作るのはやめにしたいわ」
「やめる。どうして?」
「私には、既に子も孫もいるのよ。みんな地球で暮らしているわ。ここで暮らすよりずっといいはずよ。そうでしょ?」と微笑む。
リューベックは頷いた。
「確かに、そうだね。君の子孫は地球で生きていく。私にはできなかったことだ……」
レイチェルはしばらくリューベックの顔を見詰めていたが、突然くるりと体を回し、壁に向かって歩きだした。
「何か飲む?」
「そうだな……、水をもらうよ。糖分をとり過ぎると、後で苦情がくるからね」
「そうね」
レイチェルはそれだけ言って壁のパネルを操作した。二つのコップを持ってソファーセットのテーブルまで運ぶ。
「人類滅亡って、いつなのかしら……」
と一つの疑問を口にしながらソファーに座る。自身の話題は終わりにしたようだ。
「時期については、学者先生もわからない。一年後かもしれないし、百年後、千年後かもしれない」
リューベックは彼女の対面に座り、コップの水をゴクリと飲んだ。
「千年も、これを続けるのかしら。それを想うと、気が遠くなるわ」
「そうだね。でも、彼らは完璧主義だ。それに大絶滅の経緯を直に観察する機会なんて滅多にないから、粘り強く続けると思うね」
「大先生はそっちが気になるのね。私は絶滅を回避する方法を見つけることのほうが大切だと思うけど……」
「そうだね。でも絶滅は必ずくる。回避はできない。始めがあれば終わりがくるって、君も言ってたじゃないか」
「そうね。でもそれが、そんな大原則だとは知らなかったわ」
レイチェルが思案顔をする。この奇妙な人生にも終わりがくる。どんな結末になるのだろう……
レイチェルはその思念を脇にやり、話の核心を口にした。
「でも、絶滅を回避する方法は本当にないのかしら?」
リューベックは眉間に皺を寄せた。
「直接の原因が戦争だとして、反戦・平和運動をすれば回避できるものでもないだろう」
「そういう運動は無駄だと言うの?」
「いや、無駄だと言っているわけじゃないよ。ただ、戦場に出向く兵士の多くが、戦争をしたいと思って進んで戦いに行っているわけではないと思う。取り巻く柵や逃れられない事情から争いの渦に巻き込まれている……。そうだとしたら闇雲に反戦を呼びかけても戦争はなくならない。きっと、人間の営みの根源的なことから変えていかないと戦争はなくならないような気がする」
「根源的なこと? それは、何なの?」
リューベックは首を横に振った。
「わからないよ。でも、多分、人としての生き方を変える、ということだと思う。具体的に何をどう変えるかは、皆目見当がつかないけどね……」
それを聞きレイチェルは眉を顰め、諦め顔を見せた。
……異星の学者先生の種族は、身に降りかかる絶滅の危機をどう回避したのだろう?
リューベックの心に、その疑問が再燃した。
彼らに会って、直接尋ねたい。もしかすると、人類存続のヒントを聞き出すことができるかもしれない。
しかし、人類に介入しないと決めている彼らが、この願いを聞き入れてくれるだろうか。姿を現すことのない彼らが、話しをしてくれるだろうか……
エピローグ
気密服を着用した男女が、その星に降り立った。
緑が広がる自然豊かな星……
しかし、故郷の環境とは違う。呼吸はできないし、人体に有害な物質も散乱している。
二人は生い茂る背の高い草地の中の、何度も踏み締めてできた幅の広い道を歩く。大きな動物が頻繁に歩いた獣道のようだ。
そのまま、深い森へと入る。
木々の枝葉によって日の光が届かず下草は疎らだ。露出した地面に巨大な足跡が大木を避け、うねるように続く。それを辿って森の中を歩く。
突然、視界が開けた。川だ。
流れは穏や、清らかな水……
広場のような河原に、その巨体があった。四本足、象より一回りほど大きい。日差しを全身に浴び、じっとしている。
臆した心を奮い立たせ、足を進めた。巨体の正面に回り、近付く。
異星の知性生物との初接触だ。
その巨体は彼らの真の姿ではない。言わば、生命維持システムだ。日の光を浴び、草や木の実を摂取し、水を飲む。自己修復機能を備えた生体組織でできている。その巨体の中でエネルギーを貰い受け、延命を続けるか弱い生物。これといった活動はない。個体数は僅か、絶滅寸前の種族……
高い科学技術を獲得した彼らが、なぜ、こうした状況に陥ったのか?
二人は幾つもの疑問をぶつけたが、答えは返ってこなかった。
やがて、未熟な生物を無視するように巨体が動き出す。森を抜け、好みの実がなる木々の場所へと移動するのだろう。二人は、巨体を揺らし森の中に消えるその姿を見詰めていた。
生き延びる術は、それぞれが探し求め、見つけなくてはならない。
大きな後ろ姿がそう言っているように思えた……