「嫌なら見るな」と言うべきではない
初めに、これは知識のない素人がただ疑問に思ったことを書いた文だ。間違いやおかしいところは多々あるだろうが、どうせこれをクリックしたのであれば、最後まで読んでいただきたいと思う。これをきっかけに一つ問題提起をできたのならば幸いである
嫌なら見るな。
このフレーズを聞いたことはないだろうか。この一言に批判に対する作者の叫びが詰まっているようだ。ブリ○チの原作者、久保帯人先生もかつてこのような内容のツイートをしていたと記憶している。展開を批判、キャラを批判、世界観を批判、およそすべての批判に対する万能の回答と言ってもいいだろう。だが、果たして本当にそれでいいのだろうか。
創作というのは、作者の頭の中に渦巻く混沌を、ゲロを吐くかのような思いで出力したものである。作品とは、作者の子供であり分身なのだ。それが厳しい批判に曝されれば誰だって頭にくるだろう。誰だって叫びたくなる。嫌なら見るなと。だがそれをしてしまってはそこでお終いなのである。
なぜならば、そこで作者自らが、内だけで回るループを作ってしまうからである。自己だけで完結してしまうのだ。よく内輪のノリは寒いとは聞くが、まさにそれと同じ、作品すべてが内輪のノリになってしまうのである。それを好む人がいれば数多くいればいいが、残念ながらこの世の大多数の作品にそういった人は少ないだろう。
加えて、そう言ってしまうということは、自身の作品が理解させる気もないのと同義である。そもそも自身の妄想を他者に伝えるために出力しているのに理解させる努力をやめてしまえば、世に出す意味がない。理解されない変態オナニーなど誰が見たいのだ。
創作に限らずなのだが、他者を拒絶し理解しようとせず、内輪のみの価値観で凝り固まっている様はキモイのだ。筆者も若干その気があるので壮大なブーメランなのだが、あえて書かせてもらう。
さて、こうは言ったものの批判をすべて受け入れろ、というつもりは毛頭ない。例えば「なろう」では、よく主人公が苦戦すると批判される、と言われている。ではこれを受け入れて主人公を無双させればいいのか。もちろんそれが前提の作品ならそうすればいい。だが、そうでないなら、受け入れる必要はないと考える。
作品というのは、繰り返しになるが、自身の妄想を分かりやすく出力したものである。出力方法ならいざ知らず、元データそのものをいじらなければならないとなれば、もはや作品が変わってしまう。ガンダムにロボットが出てきて批判されるか。ワンピースの悪魔の実が批判されるか。NARUTOでチャクラが批判されるか。
作品の根幹に対する批判というのは難癖に近いものである。そんなものを受け入れていたら、それはもう自分の作品とは呼べないだろう。先の「なろう」の例でも、「主人公が最強無敵」でもない限り、強敵に対して苦戦する描写は批判されるものではない。そこに至るまでの構成や展開、描写に対する批判は受け入れても、苦戦させるなという批判は受け入れるべきではない。むしろ構成を唐突に変えて無双し始めたら、変態オナニーですらない何かになってしまう。
先の内輪ループの話と矛盾を感じる人もいるかもしれないが、最初から興味がない人間をスルーするのと、多少なりとも興味を持ってくれた人間をも切り捨てる、と言えばはっきり違いが分かるだろうか。
ジャンルや好みがある以上、一定の足切りがあるのはしょうがないことだ。だが、もしふと興味がわいて別ジャンルの作品を読んだときに、読みにくくごちゃごちゃした小説と、明朗で読みやすい小説だったら、どちらを読むかは明白だろう。
しかし、あまりに批判ばかりだとモチベーションが下がってくるのもまた事実である。作品を世に出す、というのは多少なりとも承認欲求があるからこそである。そこへ受け入れるべきと言っても批判が入れば、やる気などでないだろう。読者からすれば善意の言葉でも、受け取る側としては厳しい批判である。
日本人は減点方式だとよく言うが、減点する前に加点をしてほしいのだ。批評というのは何もダメところだけを指摘するのではない、良いところも指摘してこそだと考える。それによって作者は自身の文章を省みることができるし、文章力、表現力の向上にもつながるかもしれない。なによりも作者自身が救われるだろう。
なろうの流行りを否定する気は全くない。転スラなどの転生チートものは好みであるし、追放系や悪役令嬢ものなんかも楽しく読んでいる。こうした流れがある以上、読んでもらうための方法としてこうしたテンプレに乗るのも当然だ。読んでもらわないと、そもそも批評すらされないのだから。
ただ、批評されて「嫌なら見るな」と思った時に考えてほしい。果たしてそれは適切な出力だったのか、分かりやすく描写されていたのか、本当にそのテンプレが自分の書きたかったことにマッチしているのか。そうして冷静に批評された内容を考えてみてほしい。それは必ず力になるはずである。
読者も、口を酸っぱくして言うが批評するのであれば加点もしていただきたい。それがなければ作者はよいところなど一つもなかったと錯覚しかねない。作品がよりよくなるためにもお願いしたい。
長々と、なんだか説教臭くなってしまってどうにも恥ずかしいので、ここで本文を終わろうと思う。
途中辺りブレが見えるし、そもそも出力云々書くのなら、もっと軽く明朗に書くべきだったかなぁ。この手の文章は難しい。
極論気味ではあるけども、一つの問題提起になればと
ここまで読んでいただきありがとうございました