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そんなことが数ヶ月続いたある日。私はまた彼の家を訪れていた。
「喜べ。今日はロールケーキを持ってきたぞ」
「君は本当に甘い物が好きだなぁ」
だから君も好きなのだ。
「いいじゃないか。読書というものは存外に疲れるのだよ」
「そうかぁ?」
「そうさ。さ、コーヒーを淹れてくれ。私はこれを切り分ける」
やれやれ、といった風に肩をすくめる彼。マグはペアで、コーヒーの銘柄はいつものもの。
「近況はどうだい?変わったことはないか?」
「トラブルを期待しているような口ぶりだな」
「仕方がないだろう。この町には娯楽が少ない」
「無いとは言わないんだ」
「書店があるからな」
「君らしいな。んー……ああ、おれ、恋人ができた」
心臓が跳ねた。恋人ができた?
腰が浮いた。
「ほっ本当か!?」
「嘘なんて吐かないさ、君に対してはな。珍しく動揺してるね。いや、言った甲斐があった」
座り直し、コーヒーを啜って落ち着く。
「その……おめでとう、と言うべきかね?」
「そうだな。なにか気がかりでも?」
「否、私としては……」
少し口ごもってしまう。
「その、恋人とは、時間を共有せねばなるまいだろう」
「逆だな。時間を共有したいと思うからこそ、恋人になるんだ。だから君の言い方には語弊があるな」
「順序は賛否両論あろうがこの際どうでもいいし、語弊については恋愛初心者のちょっとした間違いだ、捨て置いてくれ。言いたいのは……そう、一人きりの時間が減るだろう?」
「一人より恋しい人と居たいと思う。普通だろ?」
「……そうか。私は一人きりで読書をする時間を何より尊いと思うし、そして重んじている。だから、人と時間を共有することで、読書をする時間が削られてしまうことが我慢ならない。故に問うた。恋人といることで自身の時間、たった一人きりでいられる、宝石のように輝く時間を、手放すことを許容できるのか?」
「違うな。おれは優先順位の一番に自分を置いている。焦がれる人と居たい、とその自分が言うんだ。その時間は無為ではあるかもしれないが、心底、何より欲したものだ。許容できるできないじゃない。そうなるように望んだんだ」
それを聞いて、私は落胆を感じていた。彼にそんなことを言われるとは、想像だにしていなかった。とても衝撃的だ。そう感じることにも、驚きを覚える。
「それに、君の説でいくと、おれとの同居生活も相当のストレスになった筈だ」
「……君は講義やらイベントやらで顔を合わせるのは朝と夜、それから君の休日くらいだったからな。読書用の時間はたっぷりと確保できていた。それに、君は必要なことこそ盛んに話したが、私が少しでも本に気をとられていると見ると、課題なんかを言い訳にして部屋に引っ込んだじゃないか」
彼には、ずっとずっと、気を使われてきたのだ。それこそ、出会ったときから。
「そりゃ、同居人で、しかも女性だったからな。気も使うさ」
「……そうだな。君はそういう人間だ」
ふう、と溜息をつく。
「まったく、これだから人誑しは。その上無自覚だと?たちが悪いにもほどがあるだろうに……」
「人聞きが悪いな。おれはただ優しいだけだ。それかフェミニスト」
「それが悪質だと言っているのだ。ああ、月夜の晩には気をつけろよ」
「なんだそれ」
「いや、なんでも」
放置されていたロールケーキに手をつける。甘い筈のそれは、なぜか無味乾燥な塊と化していた。
なあ、君にはああ言ったが、私の一番はとうの昔に君になってしまっているんだ。私をここまでかき回して、一体君は何がしたいのだ。
そう詰ってしまいたい気持ちを抑えて、彼の家を辞した。彼も何かを察したのか、今日は見送りだけにとどめていた。
紅葉した樹々の葉が落ちるころ。私は<彼女>と出会った。
彼から電話がかかってきた。取ると、三日後に彼女を家に連れて来るから会ってみないか?と言うのだ。複雑な感情はあれど、好奇心につられてその誘いに乗った。
彼女は花の似合う女性だった。
彼の家に招待されて、まず強烈な違和感を抱いた。玄関に靴があった。オフホワイトのハイヒール。花を模した飾りがワンポイントになっていてとても可愛らしい。
「なあ、これ」
「おう、彼女のだよ」
「……そうか」
蹴散らしてしまいたくなった。
部屋の中には、白いフレアスカートと淡いピンクのシャツに身を包んだ女性がいた。頭にはこれまた白い花の髪飾りが付いている。
「……初めまして」
「初めまして!わあ、あなたが彼の言ってた人ですね!話を聞いてからずっと会ってみたかったんです!」
長い栗毛を揺らしてにっこりと笑いながら、手を差し出してきた。そっと握る。見た目に違わず、柔らかい。
「そうまくし立ててやるな。こいつ結構人見知りするんだ」
苦笑しながら彼は言う。
「でもすっごい楽しみにしてたから、つい」
えへへ、と笑う<彼女>。
「ほどほどにな」
見たこともない顔で微笑む彼。凄まじい疎外感を感じる。
「……そうだ、今日はチーズケーキを持ってきたんだ」
ひょい、と箱を掲げてみせた。
「いつもありがとな」
「気にするな」
「あ、それ、駅の向こうの町で売ってるやつですよね!私もここのケーキ大好きなんです」
「そうか」
どうしよう……言葉がでない……。こんなことは初めてだ。言葉を探して無言になることはあれど、本当に話すことが出てこないなどなかったのに。
奇妙に間が空いた。
「あ、飲み物、コーヒーでいいか?」
沈黙に堪え兼ねたように、彼がそんなことを聞いてきた。
「ああ、たのむ」
「私はカフェ・オ・レで。凄いなぁ、コーヒー飲めるんですね」
「別段褒められるようなことではない。ただの味覚の相違だろう」
「でも、私は飲めないので」
「な、言った通りの奴だろ?」
呆れたような口ぶりで、彼がコーヒーを運んできた。
「うん、そうだね。初対面の人にはそっけなくて、文語調みたいな口調で話す。本が大好きな、個性的な人だって言ってたね」
「個性的、は余計だ」
「事実だろ?」
ふん、と鼻を鳴らす彼。肩を竦めて答えた。
「仲、良いんですね……」
<彼女>は、少し羨ましそうに溢した。
「まあ、そこそこの付き合いだしな」
「そうか?まだ七ヶ月程度と記憶しているが」
「見解の相違だな。おれにとってはもう七ヶ月、だ」
「長いんですねぇ。私たちなんて、まだ三ヶ月ですよ」
感嘆した風に言われた。三ヶ月も彼の恋人でいられているというのに、なにが不満なのだろう。
「親睦を深めるなら充分だろう」
「親睦って!あんまり聞きませんよ、その言葉」
「そういう奴なんだ」
じゃれあう二人。その位置は、私のものだったのに。
ケーキをぺろりと平らげてから、言った。
「そろそろお暇させてもらおう」
「もう、か?早いな、今日は」
「目の前でこうもいちゃつかれてはな。それに書店から頼んでいた本が届いたと連絡もあったことだし」
嘘だった。本なんて頼んでいない。
「本が大好きなんですねぇ」
いちゃつくに関しては否定しないのだな、と思った。
「愛している」
真顔で言ったら、<彼女>が噴き出した
「本当、聞いてた通り!いえ、今日はありがとうございました。会えてよかった」
「そうか、それは僥倖だ。ではな、また」
最後の言葉は、彼に向かって言ったつもりだった。
「ええ、またお会いしましょう」
「おう、じゃ、また来いよ」
お前じゃない、という言葉は音にならなかった。
帰り道、足がとても重かった。
三ヶ月前まで、あの位置を占めていたのは私だったのに。あんな奴じゃなかったのに。私の一番は彼で、少なくとも私生活に於いては、という注釈はつくが、彼に一番近い場所に立っていたのは、私だったのに。確かに<彼女>は可愛いかった。気遣いもできて、社交的だ。惹かれるのも分かる。
けれど、それとこれとは話が別だ。私にこんな感情を植え付けておいて、こんな激情を教えておいて、他の女と付き合う。挙げ句の果てには添い遂げる?そんなの、そんなの——誰が許すか。たとえこの世全てのあらゆるものが許したとしても。私は、私だけは許さない。いつか彼が誰かのものになってしまうならばいっそのこと。
それは天啓の様だった。




