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九日後。私はトーストにコーヒー、サラダ、目玉焼きという比較的重めの朝食を詰め込み、八時半に家を出立した。駅までは二十分ほどかかるのだ、いい時間だろう。碧のワンピース、青いリボンのストローハット、菜の花色のショルダーバッグで身を固め、贈り物の紙袋携えている。化粧すら施した。彼に会うからではない。『ティファニーで朝食を』のホリーではないが、〝女たるもの、化粧もせずに外を出歩くわけにはいかない〟のだ。断じて、彼に会うためなどではない。
坂に沿って作られた商店街を上ってゆく。流石に個人商店は早いな、もう殆どの店が開いている。ああ、帰り道にでも久々に書店へ寄ってみようか。そんなことを考えながら、坂の上、突き当たりを左に曲がる。たしか右は隣県への幹線道路に続いていたはずだ。左は閑静な住宅街になっている。時折、人の話し声や笑い声が響く。朝の一時はゆったりと流れていた。
しばらくして、小さな煤けた箱のような建物が見えた。左右に線路が延びているのが確認できる。この町、唯一の駅である。無人駅だが。しかしおかげで煩くなくて良いと、近所からは好評を博しているそうだ。
散見できる人影のなか、駅正面の柱にもたれ、ちらちらと腕時計を気にする人物がいた。彼だ。紺の七分丈のカーゴパンツと白い長袖のVネックを纏い、モノクロのリュックサックを背負っている。赤い靴は差し色、というやつだろうか。
「やあ、久しいな」
彼はバッとこちらを向いた。
「そんなに経ってねえだろ、たった九日だ。というかその髪どうした、失恋でもしたか?」
「京極堂の雰囲気に感化されてね。しかし髪を切った程度で失恋とは、考えが古いのではないか?」
「そんな髪型してる奴に言われたくねえ」
そう、肩甲骨の下ほどまであった髪を、三日前、おかっぱにしてしまったのだ。頭が軽く快適である。
彼はそこで少し目を逸らしながら言った。
「まあ、その、なんだ。……似合ってる」
「……ありがとう。変わらないな、君は」
不意打ちだった。照れる。
「そりゃそうだろ。……そろそろ行こうぜ。すぐとはいえ、買い出し行かなきゃなんねえしな」
「ああ、行こう。ところで、買い出しとは?」
「昼飯。二人分の食料がない」
「なるほど」
駅を後にして左へ進む。曲がりくねった下り坂をじゃれあいながら行く。十分もしないうちに、いかにも下町といった風情の通りに出た。そこを通り、角を曲がり、裏道を抜け、着いたのは裏通りに面した小さなアパートだった。
二階建てで、各階に三つずつのドアが見える。傍には螺旋階段が付いていた。
「ここがおれの当分の住処だ。結構、いいところだぜ」
「それはそうだろう。住み心地が悪ければ、誰が契約したいと思うかね」
「……それに、生活必需品とか、表通りで殆ど手に入るしな」
「……近いな、思ったよりも」
「言ったろ」
彼は一階、階段から一番離れた扉を開けた。
「どうぞ、上がってくれ。」
「お邪魔します。……狭いな」
「開口一番にそれか。君の家と一緒にするな。気持ちは分かるが」
「開口一番は〝お邪魔します〟だ。そこは開口二番というべきではないかね?」
「そうじゃない」
六畳ほどのワンルーム。隅に未開封の段ボールとベッドが置かれ、中央にテーブルとカーペットがあった。モノトーン調で纏めてあり、落ち着いた印象を受ける。
「椅子ではないのか」
「そんなもん置いたら狭いだろ」
「そういうものか」
「そういうもんだ。待ってろ、お茶、入れるから」
「期待はしない」
「ひっで」
彼と軽口を叩くと、なんとなくほっとする。
ああ、そうだ。これが無くなって寂しかったんだ。
「どうぞ」
「へえ、緑茶か。珍しい」
「何言ってんだ、定番だろ」
君と緑茶という組み合わせが少しちぐはぐに思えただけなのだが。
「そうか。ああ、君に贈り物だ。引っ越し祝いというべきか」
「……まじか」
〝鳩が豆鉄砲を食ったような〟とは、こういうときに使うのだろう。
「失敬な。人をなんだと思っているのだ、君は」
「希代の変人」
即答だった。しかも真顔。
「……自覚はしている。そら、受け取れ。ありがたくな」
「どーも。……ん、二つ?」
紙袋から取り出された箱の中には、ペアのマグが入っていた。
「おいおい、入り浸る気か?」
「まさか。ここを占領する気はないぞ。ただ、自分のマグを置いておきたいだけだ」
「君、マグにだけは拘るよなぁ」
「読書の必需品だからな」
「……ま、いいか。置いとくだけは置いといてやるよ」
半ば呆れたように言われた。
口元が綻んだ。
「ありがとう」
それから、いろんな話をした。彼がいなくなってからの九日間のこと、彼と祖父の出会いのこと、彼の大学のこと、お勧めの本のこと。
濃密な時間だった。
「そろそろ買い出しいこうぜ」
彼はアナログの壁掛け時計を見て言った。個人的にはレトロなネジ巻き式が好みなのだが。
「メニューはどうする?」
「あー……。リクエスト、あるか?」
「ううん……。あ、そうだ、あれがいい。オムレツ」
「オッケー。じゃ、野菜と卵だな」
「ないのか?」
「足りないんだ」
「なるほど」
そう呟き、アパートを出た。
表通りに入り、道なりに歩く。スーパーマーケットが見えた。
彼はテキパキと品物を選んでゆく。少し見ない間に主夫が板についたようだ。
レジ待ちのとき、割り勘でいいと申し出たのだが、「客人はおとなしくもてなされてろ」と、一蹴されてしまった。レジのおばちゃんに温かな目で見られた。とても居心地が悪かったことはその後も鮮明に覚えていた。
彼のアパートに戻ると、早速エプロンを着用し料理を始めた。彼が私の家以外で厨房に立っていることに違和を感じる。きっといつか慣れるのだろう。感傷を振り切るように、『ティファニーで朝食を』を広げた。
「出来たぞ。手ぇ洗ってこいよ」
「ありがとう」
テーブルに手際よく並べられた料理には見覚えがあった。サラダ、オムレツ、ほんのり温めたパン、側に置かれたカトラリーと、グラスにはたっぷりのミネラルウォーター。
「ほら、冷めるぞ」
「ああ、うん。じゃ、いただきます」
「いただきます」
とりあえず、オムレツの中身を確かめてみる。切ると、ジャガイモ、タマネギ、アスパラガスが出てきた。ああ、もう、心憎いことを。
「なにニヤついてんだ」
「いや?よく覚えていたな、と思って」
「……なんのことだか」
「目が泳いでいるぞ」
彼は少し俯き黙々と食事を続けた。しかし赤くなった耳は誤魔化せていない。
私は揶揄うことをやめ、彼が初めて作ってくれたメニューをじっくりと味わうことにしたのだった。
「御馳走様でした」
「お粗末さまでした。食器はシンクに入れといてくれ、後で洗うから」
「ふむ、食器洗いくらいは吝かでないのだが」
「言ったろ、客人はおとなしくもてなされてろって」
「……ではお言葉に甘えよう」
「そうしとけ。食後のコーヒー、飲むか?」
「もらおう」
彼は、贈ったマグと私が好んで購入する銘柄のインスタントコーヒーを取り出した。
「君も大概、毒されているなぁ」
「うっせ。慣れだ、慣れ」
なんてことを言うのだろう。酷く嬉しい。
結局、彼の家をでたのは五時半を過ぎたころだった。
「あ、時間大丈夫か?」
少し焦ったように彼が訊いた。
「ふむ。問題はないが、これでは書店に寄れないな。夕飯が遅くなってしまう」
「……寄らなきゃ大丈夫だな?」
「まあそうだな」
彼はふう、と息を吐いた。
「忘れ物、すんなよ」
「忘れるほど物を持ってきていない」
「そうだな」
外に出る。彼が見送ってくれた。
「じゃあな」
「何言ってんだよ、送るっての」
見送りにしては荷物を持っていると思ったら、そんなことを言われた。
「いや、いいよ。そこまでしてもらわなくても」
「いや、君のおじいさんから頼まれていてな」
「……あの爺」
「孫が心配なんだろ。素直に送られとけ」
「……すまないな」
「いいさ」
なんでもないような顔で、彼は肩をすくめた。
とりとめのない話をしながらゆっくりと帰る。時間がゆるゆると過ぎるこの感覚は堪らなく好きだ。
駅に続く坂から、二人で夕陽を眺めた。
「美しいな。夕陽はやはり、綺麗よりも美しいと形容したくなる」
「そういうセンスはイマイチわからんが、そうだな、見事だ」
「いいな。見事はいい。意外とセンス、あるんじゃないか?」
「なんだそりゃ」
その後は会話もなく、最後の残光が消えるまで、じっと立ち尽くしていた。
「……帰るか。ありがとう、ここまででもう充分だ」
「……なあ、もう少し話さねえか?」
「でも遅いぞ」
「鈍いなぁ。家まで送るって言ってるんだ」
「……じゃあ、その……頼む」
「よしきた」
戯けたようにそう言って、彼は左折した。
「なあ、総菜屋に寄っていいか?今、冷蔵庫にあまり物が無いんだ」
「お前な、一食か二食分くらいはストックしておけよ……」
「仕方がない、気付いたら無かったんだ」
「気付け!」
町で唯一、八時まで閉店しない総菜屋でおかずを幾つか買い求めた。
それは流れるように彼が持った。
「自分で持つぞ」
「いいんだよ。こんな遅くなったの、おれのせいだしな」
「君のせいじゃなかろう」
こじつければそう言えなくもないが。
「ま、人に持たせておれだけ手ぶらってのもなんだしな」
「……そうか」
こういうところが、敵わないんだ。
「今日は本当にありがとう。世話になったな」
「いいさ」
「……なあ、また、連絡してくれ。とても、楽しかった」
「そか。……次から手ぶらでいいぞ。その代わり、おれも手ぶらで来るからな」
「ああ、歓迎する」
まったく、彼は人を喜ばせるのが上手い。
少し味気ない、一人きりの夕飯を終える。彼が居なくなってから、食卓が少し質素になった。そんなにべたべたと関わったつもりはないが、生活の端々に彼の残像がちらつく。それも悪くないと思えた。
シャワーを浴びてからベッドへ潜る。ぼんやりと、彼の部屋を私物でいっぱいにするという空想に耽りながら、いつしか眠りについていた。




