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初投稿のため、不手際は優しく指摘していただけると幸いです。
作者にはバッドエンドかの判断がつきかねたため、タグは外しております。
月が出ていた。その黄金にも似た柔らかな黄色に誘われるように、家の前、坂を下って三十秒もかからないほどの砂浜に降り立つ。
鼻を擽る塩の匂い。青のワンピースを撫でてゆく風。砂を浚う波の音。まるで世界に私しかいないような感覚。自分が消え世界と混ざりあってしまったかのような錯覚。
まさしくそれは、至福だった。
呆けたように立ち尽くし、一体どれほど時間が過ぎただろうか。
突如、静寂が破られた。
背後から足音と人の声。
「あ、いた!まったく、置き手紙ぐらいはしろよ、心配するだろう……!」
怒ったような、心配そうな顔で、彼は半ば独り言のようにそんな台詞を吐いた。
彼はこの春からの同居人である。祖父の勧めで家に下宿することとなったのだ。彼の人柄を知っているにしても、年頃の男女を一つ屋根の下に住まわせるとは、祖父も大概、破天荒な人だ。
そうか、もう二ヶ月を共に過ごしたことになるのか、などと思いつつ、私は気分を害したように眉を寄せた。
「なんだよその顔。人が心配してるっていうのに」
ごめん、と顎を引くように頭を下げる。
「やっぱりおれ、いないほうがいいか?引っ越しの準備も結構、大変なんだ。もうちょっとだけ我慢してくれよ」
首を横に振る。
ここ最近の挙動不審は、原因は君にあると言い切れるが、しかし、いないほうがいいなんてことはない。
「じゃあなんだよ!口で言ってくれ」
半ば拗ねたようにそんなことを言う彼。そんな少し子供っぽいところを、私は存外、気に入っている。いつもなら、ここらへんで苦笑の一つもしながら言い訳なり弁解なりするところだが。
沈黙で返した。
「……どうしたんだ?」
彼の声は不快ではなかった。もう少しこの音を聴いていてもいいけれど、これ以上は本気で心配されてしまうだろう。
名残惜しいが、この辺が引き際か。
彼の手を引き、家へと帰る。
「おい。おいって、なんなんだよ、もう」
ここまで無言を貫いているのに怒り狂わない彼の忍耐力には目を見張るものがあるな。いや、ただ私の行動に困惑しているのか。心配もしてくれていそうだが。
そんなことをつらつら考えているうちに、我が家へ着いてしまった。家が近いと帰り道の、あの無声の空間がないのが心底、惜しいと思う。
ドアからリビングへ向かい、テーブルを挟んで椅子に座る。彼の座る方は、彼が来る直前にこの町唯一の家具屋で買い求めたものだ。辛うじてデザインの系統は揃えたが、じっくり見なくても違いがわかる程度には似ていない。これでいいか。どうせ気にする奴などいない。そんなふうに適当に決めたな。なんてどうでもいいことを思い出した。
「じゃ、ちゃんと話そうぜ。もうこんなことも出来なくなるわけだし、な」
月明かりに照らされながら、彼は口火を切った。
そうだ、彼は一週間後、ここを出てゆく。もともと、大学近辺に新居が見つかるまでの仮宿だったのだ、当たり前か。しかしそれは、ひっそりとした寂寥感を伴って、私に沁みていった。
そうだ、彼はいなくなる。
彼の後ろに見えるダイニングキッチンで料理してくれることも、その度に味付けについて言い合うことも、雨の日にとりとめもなく話すことも、晴れの日に海への散歩に付き合ってくれることも、こうして夜に家を出ると追いかけて来てくれることも、朝起きたら挨拶が聞こえることも。もう、なくなってしまうのか。
自覚してしまうと、もう抑え切れなかった。
「君のせいだ」
「はあ?」
怪訝な顔をされた。それはそうだろう。
「君のせいだ。君が来てから応答が返ること前提で話すようになった。君が来てから一人が寂しい。君が来てから……。全部、君のせいだ」
君のことで一喜一憂する羽目になった、という言葉は辛うじて飲み込んだ。
「……」
彼は少し、笑った。とてもとても、優しい顔だった。
「……まあ、うん。おれのせいか。けどな、おれは君の変化を嬉しいと思う。初対面のときの、どこか超然としてすました君より、今の駄々を捏ねる子供みたいな、人間らしい君が好ましいと思う」
なんだそれ。そんなことを言われたらもう、認めてしまうしかないじゃないか。恋愛、家族愛、友愛、愛着。どれかは分からないし、知らないし、どれでもないかもしれないが。ああ、もう本当に____彼が好きだ。
彼は依然として、微笑を湛えている。
ふう、と息を吐いた。肩の力が抜けた。いつの間にか、緊張していたらしい。
「……君の新居はどこだったか」
「君、散々言ったのに忘れたのか!?結局、大学の山の麓のアパートにしたんだよ。近いしな」
「君の大学には、寮があったはずだが」
「……言ったろ、近いって」
それは、この町に近い、即ち、この家にも近いということで。私のために、わざわざ中腹の大学までのバス通学を選んだ、と自惚れてもいいのだろうか。
なんだか顔が熱くなって、だらしなく口角が上がってしまう。恥ずかしくて両手で顔を覆った。
「……耳、赤いぞ」
「うるさい」
あーあ。ばれてる。それでも嬉しいのだから、まったく毒されているなぁ。
「時間が空いたら、連絡してくれ」
「おう」
「たまには家にも来てくれ」
「おう」
「そしてご飯を作ってくれ」
「……ま、たまにならな」
くそ、甘やかされている。
ああ、けど、これで、彼が出て行っても、彼との縁は途切れない。
なら、いいか。
そっと両手を外し、彼をひたと見つめる。微笑んで言えた。
「新生活、頑張れよ」
「おうよ。待ってろ、すぐ卒業して、ここに引っ越して来てやる」
「……それは……嬉しいな」
「そんなとこだけ素直だな、君は」
「君のせいだ」
「それは嬉しいな」
ちぇ、と口を尖らせる。全敗した気分だ。
彼はカレンダーをちらりと見た。
「……そろそろ寝ようぜ。もう真夜中だ」
「……一緒に寝てくれるか?」
「人寂しいのか?」
「……仕方ない。君は行ってしまうんだ。それくらい、いいだろう」
「ガキかよ」
「うるさい」
こうして、私たちの夜は更けてゆく。
彼が居を移す日。彼は朝から忙しそうにしていた。それでも私たちの朝食を作ってくれるあたり、優しいと思う。
私はリビングで、彼と引っ越し業者の上を下への大騒ぎを、小説片手に椅子の上から優雅に見物していた。
「大変そうだな」
「そう思うなら荷物運び手伝え!」
「嫌だね。私は『女郎花の理』を読むので忙しい」
「分厚っ!何頁あるんだそれ!?」
「千四百八頁」
「よく読む気になったな……」
「シリーズ物だからな。面白いぞ。というかこんなところで油を売っていていいのか?」
「悪いわ!」
そう言い捨て、彼は足早にダンボール二つを抱えて玄関に向かった。業者のトラックに積み込むのだろう。本気で気分を害した訳でもなさそうなので、悠々と読書に専念することにした。
彼は玄関先で私の祖父の車に荷物を積み込んでいた。当分の衣類等が入っているそうだ。
「じゃあな。二ヶ月強、お世話になりました」
「いいよ。おじいちゃんのせいとはいえ、なかなかに楽しかった」
「二人とも、仲良くなったようじゃあないか。いや、良かった良かった」
車の陰からひょっこりと顔を出した、白髪で背の高い初老のこの人物は、私の祖父である。
そう、言葉巧みに彼をこの家へ誘導し、さらに二ヶ月もの間、新居を決めさせなかった不動産屋。我が祖父ながら、なかなかに食えない奴だ。
「自分で仕組んだくせに」
「いやいや、孫を思うおじいちゃんの老婆心さ」
「爺なのに」
「爺だからさ」
嫌な爺だ。これだから好きなんだけれど。
「……おれ、この人と会えて良かったと思ってるんです。だから、その、ありがとうございました。いろいろ」
彼は照れ臭そうにしていた。
「いやいや、こちらこそ。あの子は少し……そう、変人だからね。君のような友人は得難いのさ」
「……ええ、良く、わかります」
「そこ二人、聞こえているぞ」
まったく、端から見れば、彼らの方がよほど祖父と孫らしい。
「おっと。ああ、すまない。時間だね」
「ええ。また、お会いしましょう」
彼はこちらに向き直った。
「じゃ、またな」
「うん、じゃ」
彼は車に乗って行ってしまった。
こうして、彼と私の同居生活はあっさりと終焉を迎えたのだった。
さて、コーヒーでも淹れて、『女郎花の理』を読破しようか。
リビングに入った途端、目に写ったカレンダーに口元が緩んだ。九日後につけられた丸と少し乱雑な字で〝A.M.9:00 最寄駅〟と書かれている。
引っ越し祝いは何がいいだろうか。彼のためなら頭を捻るのも、まあ、悪くないな。
口元が綻んでいることを自覚しながら、私はマグを手に取った。