37 さみしい子供
アーサーと別れた後、ラクスの許へ戻ったシャーロットはその夜熱を出した。
病み上がりに無理をしたせいかもしれないし、再び家族と離れて暮らす決断をしたせいかもしれない。
彼女に付き添っていたメイドの報告でそのやり取りを知ったジェラルドは、複雑な気持ちになった。
彼女の決断は正しい。
ラクスも家族もその両方を守りたいのなら、離れて暮らすより他に方法はないのだ。
けれど、しっかりしているとはいえまだ十九歳。
離れた家族が恋しいだろうことは安易に想像がつく。
水を絞った手ぬぐいを小さな額に置いて、ジェラルドは窓の外を見つめた。
彼は今、熱に魘されるシャーロットの傍で寝ずの番をしている。
本来彼女の看病に当たるはずのメイドが、ラクスを恐がってこの部屋に近寄ろうとしなかったせいだ。
ラクスはといえば、まるで留守番をする犬のように床の上に大人しく伏せている。
時折心配そうに首を持ち上げては、シャーロットが起きるのを待っている。
そんな姿を見ていると、あの日の暴走など夢だったかのようだ。
母親の影響か、ラクスは記録にあるファーヴニルと違い、大人しくて人懐っこい性格をしている。
『生まれた竜は、産みの親以外の人間との接触を極端に嫌がった』
ジェラルドは手元の書物に目を落とした。
手元には小さな燭台。シャーロットを煩わせないよう極小さな炎だ。
時折ジジっと音がして、頼りない炎がゆらゆらと揺れる。
羊皮紙を綴ったそれは、王家に遺された歴代のファーヴニルの育成記録だった。
勿論機密文書で、王の図書室の奥深くに仕舞われているものを引っ張り出してきたのだ。
―――これがあれば、ラクスとの交流も少しは円滑になるだろう。
初めはそんな軽い気持ちだった。
それによると、ほとんどの竜は一年前後で巣立ちをし、人の庇護下から離れたという。
ラクスは産まれてから三年。
現時点ですら、その三倍も長くシャーロットの許に留まっていることになる。
多くの野生動物が生まれてすぐに親離れするように、ラクスも本当なら既に親離れしてしかるべきなのかもしれない。
記録は特に直近の―――つまりは百三年前に生まれた竜する記述が最も詳細だ。
それによれば、前回竜を産んだ女性は出産後すぐ、気が触れて日常生活が困難になったという。
彼女は経産婦だったが、だからこそ自分から出てきた竜という存在を受け入れられなかったのかもしれない。
その女性の娘、それが前ワラキア公爵のマーガレットだ。
王弟であるジェラルドも、生前の彼女を覚えている。
年齢を経ても矍鑠としており、そして特に竜を憎んでいた。
公爵家の血を途絶えさせる。彼女はそう言って憚らなかった。もう二度と、娘や孫たちに自分のような思いはさせたくないから―――と。
彼女がその憎しみを国に向けずにおいてくれたのは、ファーヴニル王国にとっては僥倖だった。
領地は森だけどいえども、彼女は有能な政治家だったからだ。
彼女が後見についてくれたおかげで、老いた王の寵姫の息子という非常に微妙な立場であったジェラルドは、なんとか生き延びることができた。
騎士団に入るよう助言してくれたのも彼女だ。
早い内から王の家臣に下って忠義を尽くそうとするジェラルドに、兄の支援者も警戒を緩めたのだろう。
(そうしなければ、おそらくは死んでいた)
王位を継がない王の子とは、本命が即位するまでのスペアに過ぎない。
むしろ、スペアでなければならないのだ。
僅かな野心も命取りになる。どこで足元をすくわれるか分からない。
だからジェラルドは、忘れられることに長けた子供になった。
気配を消し、感情を消した。
今のジェラルドが常に不愛想なのも、その名残だ。
既に騎士団長にまで上り詰めた彼にとやかくいう者はいないが、それでも子供の頃から続けてきたことというのはなかなか抜けない。
仄暗い闇の中、ジェラルドは再びシャーロットを見下ろす。
厳格だったマーガレットと、ほわほわとしていて家庭的なシャーロットが血縁というのは、どうしても違和感がある。
マーガレットが、極力関わりを避けて育てたせいかもしれない。
結局奇妙な運命に導かれ、数いる彼女の孫の中でも、シャーロットが竜を産むことになったわけだが。
(随分、怖い思いをさせただろうな)
それはつい先日の出来事についてでもあるし、急に共に暮らすことになったジェラルドのことでもある。
自分より年上の、それも常に堅苦しい顔をした男だ。
けれど彼女は最初から、心尽くしの料理で彼をもてなしてくれた。
殿下は止めろと何度言っても直らない。変なところで強情で、姿の変わった息子すら、両手を広げて抱きしめようとする無謀さと強さを持っている。
母の愛に恵まれずに育ったジェラルドにとって、シャーロットはその存在そのものが驚きに満ちていた。
だいたい貴族の娘なんて、子供は産んでもその世話は乳母に任せきりにするのが普通だ。
だからこそこんなにも、シャーロットの存在が殊更際立って変に思えるのかもしれない。
「う……ん……?」
シャーロットが身動ぎをした。
起こしてしまったのかと、ジェラルドは慌てて蝋燭を吹き消す。
一瞬目の前が真っ暗になり、しばらくして目が馴染むと青い目がこちらを見ていた。
「起こしてしまったか? すまない」
ジェラルドは迷った。
シャーロットが寝ぼけている間に部屋を出るべきか、それとも謝罪して事情を説明してから部屋を出るべきかをだ。
寝起きに男性が傍にいれば驚くだろう。
それも顔が恐いと評判の、騎士団長その人では。
シャーロットはしばらくじっとジェラルドを見つめた後、ふにゃりと表情を崩した。
そしてその小さな手を、そっと伸ばしてくる。
驚きのあまり、ジェラルドは身動きが出来なかった。
「ねむれないの?」
おそらくは誰かと勘違いしているのだろう。
熱い手が、ジェラルドの頬に触れる。
「お姉ちゃんが一緒に寝てあげるから、もう大丈夫よ」
そう言って、闇の中でシャーロットは微笑んだ。
(―――なんだ?)
その時産まれた感情を、ジェラルドはなんと呼んでいいか分からなかった。
ただぎゅっと掴まれたように胸が苦しくなり、鼻の奥がつんとした。
ジェラルドはそっとシャーロットの手を握って、それを顔から放そうとした。
「強がらないで。大丈夫。母様は怒ったりなんてしてないわ」
きっと寝ぼけているのだろう。
シャーロットには年の離れた双子の兄妹がいるそうだ。
彼女の態度からして、そのどちらかと勘違いしているに違いない。
なのにどうして―――彼女の言葉がこんなにも胸に響くのか。
「……そうだろうか?」
気づいた時には、そう問いかけていた。
何をしているのか、それはジェラルド自身にも分からなかったが。
「当たり前じゃない。ほらおいで、一緒に謝ってあげる」
「けれど、母は私を憎んでいる……」
「馬鹿ね」
ジェラルドの弱音を、シャーロットは一蹴した。
「子供を愛さない母親なんていないわ」
そう言って、シャーロットはジェラルドの耳をすりすりと擦った。
弟を泣き止ませるために、よくこうしていたのかもしれない。
「だからもう泣かないで。お姉ちゃんはずっとあなたの味方……よ……」
そう言って、シャーロットは再び寝入ってしまった。
ジェラルドはそっと、力を失った彼女の手を顔から離す。
彼女の手を少し濡らしてしまったので、ハンカチーフで軽く拭うことを忘れなかった。
ワラキア公爵家の血を受け継ぐ娘の中で、どうして彼女が竜の仮腹に選ばれたのか。
その訳が分かったような気がした。




