01 ボンボンの夢
シャーロットは貧乏貴族の次女として生を受けた。
髪は口に含めば甘くとろけそうなキャラメルブラウン。雨の日には広がってしまって手におえないロングパーマ。
目の色は春の空みたいに霞がかった淡いブルーだ。
七人兄弟の真ん中で、特に溺愛されたわけでも放任されたわけでもなく育った。
兄二人と姉が一人。それに少し意地悪なすぐ下の弟と、とても可愛がっている男の子と女の子の双子がいる。
上の三人は既に結婚してしまったので、次は私の番だわと胸をときめかせたりしている十五歳。
社交界デビューはお金がなくてできなかった。
そして決まった結婚相手は、十歳年上の商家の息子。
城下では飛ぶ鳥を落とす勢いの、アニス商会の一人息子だ。
ほんのわずかな持参金と一緒に嫁いだシャーロットは、婚家であんまりいい扱いをしてもらえなかった。
いや、本当のことを言えば、かなりひどい扱いをされた。
なんたって旦那様のヒューバート・アニスは、外に妾を囲っておいでで殆ど家に帰ってこない。
夫不在で義理の両親と同居しなければならなかったシャーロットの苦労というのは、推して知るべし。
それでも基本的に楽天家で、天然なところがあるシャーロットはあまり事態を悲観していなかった。
元々、貴族の結婚というのは好き嫌いでするものではない。
自分が結婚したことで実家は援助を受けられたし、これで弟もいい所からお嫁さんを貰うことが出来るだろう。
そう思えば、義母に怒鳴られ使用人のように扱われることも、たいして苦ではなかった。
けれど、彼女の不幸はそこで終わったりはしなかった。
***
彼女はある日夢を見た。
ホットミルクみたいな濃い霧の中。ナッツ入りのチョコブラウニーのようにザクザクする地面を歩いて行くと、広い広い湖に辿りつく。
霧が滑る水面をじっと見ていたら、その中心に波紋が生まれ、そして見たこともない生き物が顔を出した。
二本の角と、鋭い牙。狼のように大きな口と、四枚の羽根を持つ生き物だ。
その表面はオパールのように角度によって色の変わる鱗で覆われ、目はブルーサファイアのように深い知性に満ちていた。
それが冒険者の間でドラゴンと呼ばれる生き物であることを、シャーロットは知らなかった。
(なんて綺麗な生き物かしら)
世間知らずのシャーロットは、ただそうしてほうっと溜息をついた。
不思議と、恐ろしいとは思わなかった。
あまりにも現実感がなかったからかもしれない。
彼女はそうして、じっとそのドラゴンに見惚れていた。
どれくらいそうしていただろう。
突然、羽根を羽ばたかせたドラゴンは、辺りを覆う霧をたった一度の羽ばたきで払ってしまった。
そしてその巨体を軽々と湖から浮かびあがらせ、一瞬にしてシャーロットとの距離を詰めた。
ドラゴンはその大きな体に反して、とても俊敏な生き物だ。
それは羽根の力でなく、鱗に宿る魔力を使って飛ぶからだとも言われている。
事実その鱗には魔力が宿っていて、一枚あれば人間でも数時間は飛行が可能なのだ。
だからドラゴンの鱗が一枚でもあれば、一生遊んで暮らせるほどの金になる。
けれど、シャーロットは当然そんなこと知らなかった。
ただただ目の前の信じられない出来事よりも、目の前の生き物の美しさに見とれていた。
“お前だ”
突然、シャーロットの頭に声が響いた。
それは不思議な声だった。まるで沢山の人間の言葉が重なったような、これ以上ないほど低い声だ。
(大叔父様がお風邪を召した時でさえ、こんなお声にはならなかったわ)
シャーロットはなんとなく、そんなことを考えた。
ドラゴンはおもむろに、己の首元にある鱗を一枚引き剥がした。
赤い血が迸る。
人の物とは違う、もっとドロドロとした血だ。
驚いたシャーロットは、思わず口を覆った。
そして恐る恐る手を伸ばす。
ドラゴンを刺激しないように、そっとその傷口に手を添えた。
なんとなく、その生き物が傷つくのが嫌だったからだ。
しかし両手で傷を覆っても、傷が治るわけではない。
血はどくどくと流れ続けた。
悲しくなって、シャーロットは一粒の涙を零した。
“人間。気にするな。それよりもこれを受け取れ”
そうしてドラゴンは、口にくわえた鱗を差し出した。
平たく削ったオパールに、クジャクの羽根のような模様が浮かび上がる。
淡く発光するそれを、シャーロットは恐る恐る受け取った。
「これを、どうすればいいのですか?」
尋ねると、ドラゴンは四枚あるうちの小さな二枚の羽根を少しだけ動かした。
今度は小さな風がシャーロットの頬を撫でる。
“それを食べて、体の一部とするのだ”
ドラゴンの指示は、思いもよらないものだった。
シャーロットは思わず、手の中の鱗を眺める。
それはいくら薄くてもシャーロットの掌ほどは大きくて、食べるのには難儀しそうだった。
それにさっきまで傷口を押さえていた手で受け取ったので、血で汚れてしまっている。
「どうしても、食べなくちゃだめですか?」
一応、シャーロットは聞いてみた。
手の中の鱗は確かにきれいだけれど、あまり美味しそうには見えなかったからだ。
“そうだ”
彼女はごくりと唾を飲んだ。
“彼”がそう言うのなら、そうしなければいけない気がする。
不思議と、シャーロットはドラゴンのことをオスだと分かっていた。
そして恐ろしいからではなく、彼の願いを叶えたくて鱗を口に入れた。
(不思議……この血も鱗も、全然生臭くない。むしろお砂糖みたいに甘いわ)
シャーロットの口の中で、鱗はボンボンのように甘く解けた。
血は聖夜祭で飲むとっておきのワインよりも濃厚で薫り高い。
そうしてシャーロットは、目の前のドラゴンからずっと目を離さなかった。
いや、離せなかったのだ。
そして酩酊したように体がふわふわして、とても気持ちが良かった。
(ああ私、ずっとこの生き物と一緒にいたい)
そう思ったのに、いつの間にかシャーロットは夢から覚めていた。
しかし驚くことに、夢から覚めたシャーロットは子供を身ごもっていたのだ。