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血闘  作者: サトシ
9/12

第九話「死闘決着」


 指を折られた有岡は、激痛を押さえるために唇を噛み締める。それでも痛みを和らぐことができなかったのか、より一層、歯の力を強くした。

 唇の皮が破れ、血が滴る。そこでようやく、小指の痛みが上書きされる。

 一方、金田も背中全体に広がるキャプチュードの痛みを、必死に我慢していた。呼吸をしただけで、痛みが、布に垂らした液体の、「染み」のように広がる。

(骨が折れてやがるな)

 有岡に感付かれないように、ポーカーフェイスをするのに金田は精一杯だった。

 抜けかけた歯を無理やり抜歯したせいで、口内に血が溜まる。彼はそれを地面に向かって吐き出しながら、ファイティングポーズを取った。

「これが、お前の住む世界か」

「ああ、そうとも。楽しいだろう、有岡」

 金田はとびっきりの笑顔――まるで、自分の特技を自慢げに話す子供のような――を浮かべる。

「ああ、そうだな。楽しいよ、金田ァ」

 有岡は、吐き捨てるように返事を出す。そして彼は姿勢を低くし、両腕で顔面を防御しながら、真正面から金田に突っ込む。

 キャプチュードで金田が深刻なダメージを負っているのに、有岡は気づいていた。だからこそ、この数分間で全てを決めると覚悟した。

 金田は突っ込んでくる有岡の腹部へ、水月蹴りを繰り出す。振り子のように振り上げられる、金田の蹴りは吸い込まれるように有岡の腹部へ直撃。

 それでも、有岡は立ち止まらなかった。まるで猪のように、金田へ突進。

 先程の水月蹴りで、身体のバランスを片足で取っていた金田は有岡のタックルを止めることができず、そのまま背中から倒れてしまう。

 その際に、背中から激痛が走り、対応が遅れた。

「しまった――」

 金田が事を飲みこんだときには、既に彼はテイクダウン――背中が地面に付いた状態となった。そして彼の上に、馬乗り状態となった有岡。

 引退したとはいえ、体重は未だに百キロを維持している有岡の重量が金田に圧し掛かり、動きたくても動けない。更に圧力が背中に襲い掛かり、激痛が走る。

「終わりだな、金田」

 マウントポジションを取った有岡は、勝利宣言を述べる。金田はそれに鼻で笑おうとした瞬間、有岡の右拳が振り落された。

 生々しい音と同時に、金田の鼻がひしゃげた。同時に赤黒い血が鼻から止め処なく流れる。

 有岡の右拳に金田の血がこびり付く。次に左拳がひしゃげた金田の鼻に追い打ちをかけるかのように、振り落された。

 カエルが車輪で引き潰された、と表現しても過言ではないほど、金田の顔面は見るも無残な状態となった。

 たった二発の拳が、金田をここまで追い詰める。

「決まったな」

 空が切るかのような、か細い呼吸音しか出していない金田を見るなり、有岡は勝負がついたのを悟った。彼はゆっくりと金田から離れようと、腰を上げた。

「勝負はまだ終わってねぇぜ」

 息絶え絶えといった、金田の声が僅かに聞こえる。有岡はそれを聞いた瞬間、腰に力を上げようとした。だが、それよりも早く金田は、有岡の腰を両腕で抱きしめた。腰を浮かしていたせいで、金田にかかる圧力は軽減されている。

「うおりゃあああああああ」

 全身全霊の叫びを金田は挙げると、キャプチュードの痛みが背中に走る。だが、その激痛が逆に金田の力を後押しした。

 金田は腰を上げ、ブリッジをする。そうすることによって、彼の背中は地面へと浮く。有岡がそれが何を意味するのか分かり、金田の顔面へ向けてパンチを繰り出そうとした。

 だが金田はそれよりも早く、体重が百キロをキープしている有岡をマウントポジションされている状態で投げ飛ばした。

 ほぼスープレックスの要領で投げ飛ばされた有岡は、横へ転がるように飛ばされる。そして、急いで立ち上がろうとしたときだった。

「――」

 金田の右足の甲が、有岡の顔面を蹴り飛ばした。死角かつ油断をしていた有岡にとって、それは大きいダメージになるのは明白だった。

 しかし、有岡はそれを必死に堪えながら、目を閉じることなく、次なる攻撃を加える金田の姿を捉えた。

 こちらの正面に立った状態で、鼻血を垂れ流しながら、次は膝蹴りを打ち込もうとする寸前の体勢に入った金田。

 有岡はその巨体を如何なく使い、まるで身軽な動物のような動きをし、立ち上がる。それを見た金田は膝蹴りを止め、一旦、有岡との距離を置いた。

 並の人間なら、顔面に蹴りを食らった段階で激痛にのたうち回り、次の膝蹴りを食らっていただろう。

 無論、有岡の渾身のストレートパンチを食らってなお、闘志を失っていなかった金田のフィジカルと忍耐力も常人の粋を越えていた。

 有岡と金田は、お互いに血で汚れた口元を手の甲で拭く。一歩、二歩とお互いににじり寄る。

 有岡は、アップライトの構えを。

 金田は、古武術華剛流の構えを。

 そして、両者は己が肉体の限界を知っていた。

(小指、顔面、右脚にガタがきている。特に右脚――ローキックはもう貰えない)

 有岡は折れた小指が青紫色に変色しているのを確かめながら、特に古傷が疼く右脚の限界を悟っていた。

(さっきのブリッジで、完全に背中が折れちまった。鼻も同じく――。くそっ、呼吸するだけで痛ぇ)

 同じく金田もそうだった。キャプチュードによる背中の負傷は、マウントポジションから逃れるために酷使したことによって、痛みが膨張する。

 慎重に呼吸をするだけで、背中に激痛が走った。

(これで、決める)

 小手先での牽制は必要ない。

 出しきれるだけの力を振り絞り、相手を倒す。金田と有岡はまるで以心伝心のように、同じことを考える。

 眼前に立っている相手が、同じことを考えているのを無論、両者は知らない。

 金田と有岡は十秒ほど相手を睨む。

 先に動いたのは、金田だった。

 彼は、有岡の右足が限界にきていることを悟っていた。だからこそ、渾身のローキックを金田は放った。

 空を切り裂き、転がっていた砂利さえも切り裂いてしまいそうな、ローキック。喰らえば間違いなく、有岡の足は再起不能になる。

 しかし、有岡はそれを読み取った。

 金田の狙いは、右脚だということに彼は気づき、それを打ってくるのを有岡は待っていた。

 目にも留まらぬ速さで撃ち抜かれるローキックを、有岡は寸前の所で右足を上げた。

 金田のローキックは、空を切る。

 驚く金田の顔。それに対して、有岡は油断をせず、金田の下顎に向けて、渾身のアッパーカットを放った。

 ローキックに全身全霊を賭けた金田にとって、撃ち切った後のことなど考えてもいない。むしろ、その一撃が絶対に決まるという確信があったと有岡は感じていた。

 だが、有岡は一歩前を見据えている。

 彼の右拳は、金田の下顎を文字通り粉砕する自信があった。仮に金田が舌を出していれば、噛み切ってしまうことも可能なぐらい。

 そして、彼の脳裏にある光景が浮かんだ。

 数年前、金田と有岡がプロレスリングで闘った、最後の時のことを――。

 有岡は、雑念を払いのけ、右拳を振り上げた。

「なっ」

 その瞬間だった、彼は声を上げてしまう。

 有岡の右腕の手首が、金田の両手によって、右手首を掴んでいたからだ。

 悪寒。

 それは、これまでの金田との打ち合いの中で、「絶対に捕まれてはならない」という自覚があったほどの、悪寒。

「古武術華剛流が不受身技」

 がっしりと有岡の右手首を掴んだ金田は、怒りの形相で叫ぶ。だが、有岡は冷静だった。

 有岡の右足は、少しだけ開いた金田の股間――急所に向かった。勢い良く振り上げられたそれが、金田の急所に命中すれば、悶絶は必須。

 だが、金田は有岡の攻撃を読み切る。

 振り上げる速度よりも早く、金田は有岡の右手首を左手で掴み変え、身体を反転させる。関節技の類をかけられた有岡は、単純な動作に合わない激痛を感じ、右脚が止まった。

 反転した金田と有岡は、背中合わせをした体勢になる。有岡の両手は極められた状態となっており、身動きが取れない。

 合気道か、あるいはサンボか。

 プロレスラーである金田が会得するはずはない、テクニカルな技術に有岡は戸惑う。

「千鶴落とし」

 有岡にとって、聞いたことがない技の名前を金田は叫ぶ。そして、有岡は悟った。

 自分は、負けるのだと。

 刹那、彼の視界が半回転する。そのまま、頭上から砂利道へ落下する「感覚」が先に来た。

 その瞬間、有岡は諦めにも似た声色で、そっと呟いた。

「やはり俺には、合わないな」

「馬鹿野郎」

 有岡の呟きに、金田は返事をする。

 一瞬の痛みと同時に、有岡の意識は失った。




「馬鹿、野郎」

 千鶴落としによって、失神した有岡の背中を見るなり、金田は歯軋りをする。

 有岡は、今まで出会ってきたストリートファイターで強かった。いや、むしろあの「虎」と同等のレベルだろう。

 ブランクがあり、古傷を抱えていたハンディキャップがあったとしても――必ず負けていた。

 金田が放ったローキックは、間違いなく本命の一撃。それを有岡に悟られた時点で、金田の負けだった。

 そして、金田の顎へと向かって行ったアッパーカット。あれを喰らえば、いくら体を鍛え上げた金田とて、病院送りなのは喰らうはずだった自分自身でも理解していた。

 だが、有岡に迷いが生じていた。それは、顎へと向かう寸前の所で「戸惑い」に変わった。

 金田はそのおかげで、有岡の右拳を掴むことが出来た。

「馬鹿野郎だよ、お前」

 有岡はストリートファイターとしての、意識を持っていた。本気で人を殴打し、怪我を負わすのをいとわない「覚悟」を決めていた。

 だが最後の最後で、彼の心に戸惑いが生じる。

 金田を負かすということは、彼の肉体を破壊すること。有岡が放ったキャプチュードとは、比較にならないダメージを負わすことが出来たアッパーカット。

 金田を屠るのに、これしかないと思った一撃。

 しかし、それを喰らった金田がどうなるのか――その迷いが、勝敗を分けた。

「俺は、今までたくさんの連中を病院送りにしてきた。後悔なんてねぇし、連中もああなることを納得して、ストリートファイトをしてきた」

 金田は握り拳を作る。

 これまで、自分が壊してきたストリートファイターたちのことを思い出しながら、彼は語る。

「俺はお前と、そういう闘いがしたかったんだよ」

 叫び声が、河川敷に響き渡った。

 だが、金田の叫びは誰にも届かない。一番近くに居る有岡ですら、彼の言葉に返事をしなかったからだ。

 この闘いは、間違いなく金田の負けだった。

 アッパーカットによって顎が粉砕され、痛みの余りに意識が遮断――あるいは、舌ごと噛み切って、失神。

 そのどちらかだった。

 金田が有岡のアッパーカットを掴もうとした。だが、それは無理だった。掴めるはずもない速度と、ローキックが必ず決まると確信していたために意識が一点集中していたからだ。

 否、仮にローキックが牽制として繰り出していても、有岡は一歩先を見据えていた。

 闘いに、「もしも」は存在しない。あるのは、「必然」だ。

「俺は、俺はぁああああああああああああああああああ」

 闇を引き裂くような、金田の慟哭は虚しく響いた。




 有岡と金田の闘いから一週間後。

 大阪市淀川区郊外、「足立ボクシングジム」。

「ふぅん。となると、猪江さんの駒はことごとく負けたってわけか」

 明朝の、足立ボクシングジムのトレーニングルームに二人の男が居た。

 一人はトサカの彷彿させる髪型にジャージを羽織り、天井から吊り下げられたサンドバッグに向けて、蹴りを織り交ぜたコンビネーションを打っている男――早瀬辰見。

 そしてもう一人の男は、PWWの社長にしてメインイベンター、猪江信二。

「手痛いことを言うじゃないか、早瀬」

 猪江は軽く笑いながら、ボクシングのジムなのにミドルキックをサンドバッグに撃ち込む早瀬の背中を見ていた。

 無呼吸だと思ってしまうぐらいに、隙間が無いキックのコンビネーションを十秒間続け、最後にハイキックを早瀬は打ち込む。

 それが終了の合図となったのか、早瀬は肩で息をしながら、ずっと背後で立っている猪江の方へ身体を向けた。

「それで、俺に何の用ですか」

 やや面倒くさそうな口調で、早瀬は言いながら、床に置いていたタオルとペットボトルに彼は向かう。

「ああ、有岡俊平さんについては、俺も知ってますよ。FSWを担っていた、メインイベンター。そんな人が、二度も金田に敗れた。一回目は、FSW最後のドーム戦。二回目は、一週間前」

「金田、つくづく恐ろしい男だよ」

 猪江は直立不動のまま、早瀬の言葉の後に続く。

 有岡は、金田に敗れた。気を失った彼を、有岡はわざわざ数キロ離れたPWWの大阪支部道場へ運んであげたらしい。

 小指骨折、頭蓋骨陥没、右脚の靭帯損傷。

 有岡が負ったダメージは大きく、すぐに入院をした。彼は病院に運ばれてから、数時間後に意識を取り戻したものの、今はまだ入院中。

 そして医者からは、二度と格闘技が出来ない身体になったのを告げられた。

「猪江さん。あんた、後悔してないだろう」

 早瀬はペットボトルに入っていた水を一瞬にして飲み干し、空になったそれを適当な場所へと放り投げながら、言う。

 やや強く投げたせいか、ジムの中に少しだけ大きな音が反響した。

「有岡さんがああなったのも、元はといえばアンタのせいだ」

 語気を強めた口調で、早瀬はファイティングポーズ――両腕を前へと突き出した、柔術べースの構えをし、猪江と向かい合う。

「誰に向かって、そんな口を叩いているんだ」

 冷ややかな口調の猪江は苛立ったことを証明するかのように、右足を少しだけ上げ、床に向かって叩きつけた。

 まるで巨大な有機物を叩きつけたかのような、轟音がジム中に響き渡る。

 両者、一歩も動かず――手の内を探る――そのはずだった。

「はっはははは。本当に、猪江さんは酷い人だぜ」

 一触即発の空気をぶち壊しにするかのように、早瀬は大声で笑いながら、構えを解く。

「やっぱり、後悔なんてあるわけがないか」

 早瀬は、ようやく猪江の真意を悟った。

 有岡や他の格闘家崩れがストリートファイトで日常生活に支障が来すレベルの負傷を負っても、猪江はそれに対して後悔をしている素振りを見せなかったからだ。

 仮に言い訳の一つや二つを並べていたとすれば、それは後悔をしているから――自分の非を認めていることなる。

 だが、猪江は違った。彼は、ただ淡々と早瀬の言葉づかいを嗜めていただけだった。

「度が過ぎるぞ、早瀬」

 やれやれといった表情を浮かべ、猪江は肩を落とす。

「酷い人だ。何が目的でストリートファイト界隈に首を突っ込んだかは詮索しないが――あんたの口車に乗せられて、何人の連中が怪我をしたのやら」

 早瀬にとって、猪江の口車に乗せられた以上、彼が何を企んでいるのか、詮索はしない。詮索をしたところで、猪江が考えてることなど理解できないのだから。

「言うなよ。それで、どうだねストリートファイトは」

 猪江は笑いながら、金田に完敗してもなお、ストリートファイトを続けている早瀬に今後の動向を尋ねる。

「ええ、悪くはないですね。それにこんな俺にでも、目標が出来た。金田、あいつにはいつかリベンジをしたいんでね。後は、猪江さんが言っていた『飛びっきりのファイター』。そいつとも闘ってみたいです」

 早瀬の殺気立った言葉を聞き、猪江は笑みを浮かぶ。そんな彼の表情を見て、早瀬もまた笑おうとした矢先だった。

 二人は正面を向いており、その距離は一メートルにも満たない。

 至近距離の間合い。

 猪江は、履いていたスラックスのポケットに両手を忍ばせた状態で右中段蹴りを放った。

 腰を入れていないのにも関わらず、空気が切り裂かれる鈍い音。

 早瀬は、脇腹に一直線へと向かう猪江の中段蹴りを左腕を使って、防御。だが、余りにも重く、余りにもキレがある中段蹴りを完全には防げなかった。

 左腕の筋肉を最大限に使ってもなお、肉の隙間から貫いてくる痛みと重みを早瀬は感じ取る。思わず彼は姿勢を崩し、中腰となる。

 完全にとは言わないが、猪江の受け止めた右足を早瀬は掴もうとしたときだった。左腕に右足がめり込む感触。

 同時に猪江は、めり込ませた早瀬の左腕と自身の右足を軸にして、身体を捻るように跳躍していた。

「――」

 同時に、右目の視界の端から「何か」が飛来する「音」を早瀬は感じ取る。

「くっ」

 早瀬は急いで右腕を使い、飛来するソレから頭部――延髄――を守った。猛烈な打撃音と同時に、跳躍していた猪江は右手を床につく。そのまま、軽い身のこなしで早瀬から一旦、距離を置く。

 二人の距離、約一メートル。

「ほう、俺も少し身体が鈍ったか」

 自信があった、右中段蹴りからの「延髄斬り」。そのコンビネーションを防ぐことができた早瀬に、猪江は感服する。

 一方、そんな彼の心中など知る由もせず、早瀬はストリートファイターとしての表情――犬歯を剥き出しにして、柔術ベースの構えをしていた。

(おいおい。猪江さんって、もう五十路近いだろ)

 早瀬は憔悴していた。かの有名なプロレスラーである猪江の「最盛期」などとうに過ぎ、もはやプロレスという身心を痛める「エンターテイメイト」などできるはずがないと思っていたからである。

 早瀬は、まだ二十六歳。最盛期は確かに過ぎてしまった。それでも、肉体の老いを考えて、猪江よりフレッシュだと考えていた。

(右の中段蹴り、これは重い。今でも痛みが残っている。問題は、あの――延髄斬り)

 猪江が今でもフィニッシュムーブとして使っている、延髄斬り。跳躍し、相手の延髄に自身の足の甲をぶつけるという、一種の後頭部蹴り。

 たまにテレビや、あるいは会場で見ていた、ビッグダディ猪江の延髄切りとは比べ物にならない、まるで「本当に延髄を斬られる」感触が過ったほどだ。

 明らかに、別次元の存在へ変化した猪江。早瀬は、そんな「ビッグダディ」に舌なめずりをした。

「へっへ。面白くなってきたじゃねぇか、猪江さんよぉ」

「言っておけ、早瀬。スパーリング代わりだ、倒れるなよ」

 早瀬の挑発に乗る形で、猪江はゆっくりとスラックスのポケットに忍ばせていた両手を出し、ファイティングポーズを取る。

「おいおい、茶番はこのぐらいにしておけよ」

 その時だった。緊張感のある空気に水を差す、第三者の声が早瀬の背後から聞こえてきた。

 猪江はともかく、早瀬はその声の主に対して、間髪を入れずに後ろ回し蹴りを放った。

 確実に、相手の頭部に直撃し、脳震盪を引き起こす一撃。

 だがそれは空振りをした。

 直後、早瀬の顔面に誰とも知れない膝が目の前に迫っていた。

 衝撃。

 脳が揺さぶられる感覚と、鼻から広がる痛覚。後ろへのけぞるようにして、早瀬は倒れてしまいそうになるが、踏ん張る。

 そして、こちらに膝蹴りを放った相手を早瀬は捉えた。

 好青年、といって過言ではない青年だった。丸く刈り上げた坊主頭に、蛇のような鋭い目。その風格から、彼が格闘家であることを早瀬は瞬時に感じ取った。

 そして、その青年は駄目押しと言わんばかりの左ハイキックを放つ。

 早瀬はそれを、倒れながら、両手で受け止める。

 刹那、青年の表情が濁ったのを早瀬は見た。

 そこからは、まさに電光石火だった。早瀬は、受け止めた左足に向かって、飛びつく。大の大人の体重が圧し掛かると、青年は為す術もなくその場で尻餅を突くように倒れた。

 関節技。

 早瀬の狙いを青年は気づき、なんとかして逃れようとするが、早瀬はそれを許さない。

 まるで、蛇が獲物に絡みつくが如く、早瀬は自身の太腿を青年の少しだけ曲がった右膝へ挟むようにホールド。更に、青年の右の踵を肘の内側でフックし、両手を使ってクラッチ(捻る)した。

 そうすることによって、青年の右膝は完全に固定された状態に。そして、早瀬の両手によって、青年の膝はあらぬ方向へ圧力がかかる。

 人間の膝関節、そして鍛え上げた筋力でさえも無力と化す関節技――ヒールホールドが青年を襲った。

 一瞬の激痛。

「ぐっ」

 青年は痛みの余りに犬歯を剥き出しにし、堪える。早瀬はさほど力を入れていないが、反比例するほどの痛みが青年を襲う。

 激痛に表情を歪ませる青年。それと対照的に、鼻から垂れた血を拭うことなく、ヒールホールドを極める早瀬。

 そこから五秒後、早瀬は追い討ちをかけることなく、ヒールホールドを解いた。

「ったく、猪江さんですか。こんなボンクラを呼んだのは」

 鼻血を手の甲で拭いながら、早瀬はゆっくりと立ち上がり、青年の背後で事の流れを傍観していた猪江に問いただす。

「まぁそうなるな」

「冗談じゃないですよ――おい、ボンクラ。立ち技ばっかじゃ、この先苦労するぞ」

 自分が負けたことを信じられない、といった面持ちで未だに床へ倒れている青年に早瀬は嫌味を言った。

 それを聞いて、青年は急いで立ち上がり、早瀬に剥き出しの闘志をぶつけるかのようにファイティングポーズを取る。

 だがそれを、後ろに立っていた猪江が青年の左肩を軽く叩いて、制止した。

「それぐらいにしておけ、雨宮」

 そこで、猪江が早瀬と闘った青年の名を初めて言った。それを聞いて、雨宮は大人しく引き下がったのか、構えを解いた。

「雨宮――ああ、杉本キックボクシングの秘蔵っ子か」

 格闘技界隈に精通している早瀬は、雨宮という名前を聞き、いつぞやらのニュースを思い出す。関西圏のプロキックボクシングで破竹の勢いを見せている、若手――それが、眼前で立っている雨宮だということに。

「界隈から追放された俺ならともかく、なんでプロの雨宮がここに居るのですか」

 話が見えてこない早瀬は、猪江に問いかける。

 ストリートファイトは、日本では罪となる「決闘罪」に含まれている。どこぞのチンピラや、格闘技界隈から追放された早瀬や金田ならともかく、あくまで観客を沸かせることが目的の「プロ」がなぜ、ストリートファイト界隈の話をしに来た猪江と共に居るのが理解ができなかった。

「詳しい話は後だ」

 早瀬の問いかけに、猪江は答える素振りを見せない。

 ただ雨宮は「現状」を知っているのか、腕組みをして、猪江の次の言葉を待っていた。二人の様子を見て、早瀬はこれ以上の追及は無駄だと悟ったのか、黙る。

「二人に来てもらったのは、私からあるお願いがあるからだ」

 猪江は一呼吸置き、次の言葉を言った。

「この大阪に存在する、有象無象のストリートファイターたちを狩ってほしい」




 同時刻、藤田道場にて。

 雀のさえずりが聞こえてきながら、朝の眩しい太陽の光が道場の窓から差し込む。

 まだ朝の稽古まで時間がある中、道場の真ん中で胴着姿の二人の男が座禅を組み、正面を向かい合っていた。

 一人は、藤田。もう一人は、金田。

「医者には安静にしておけと。完治には、少し時間がかかるそうです」

 有岡との死闘から早一週間が経つ中、金田は容体を藤田に報告する。その言葉の節々に、背中が痛むのか、金田は時折、表情を引きつらせた。

「焦らなくても、時間はある。ゆっくり怪我を治しなさい――それよりも、何か私に相談をしたくて、ここに来たのでは」

「――」

 金田は何も言わず、顔を俯く。

「有岡くんとの闘いが、まだ心残りなのかね」

 言いたいことを言われたのか、金田は頷いた。

 そんな彼の姿を見て、藤田はやや不服そうに鼻を鳴らし、腕組みをする。

「まぁ無理もないでしょう。君と有岡くんに何の因果があったのかは詮索はしない。だが――」

 藤田はゆっくりと腰を上げると、そのまま金田の方を見ずに道場の出口へ向かう。

「君は、未だに格闘技を捨てきれずにこの界隈へ来たのでしょう」

 藤田の言葉が、金田の背中に突き刺さる。

「無論、私も一緒です。祖父が遺した古武術華剛流を、捨てきれなかった。更に言えば、私をこの世界へ引き込んだ『虎』に復讐をしたい。その一心のために、私と金田くんは手を組んだ」

「君の怪我があることですし、しばらくは休養を取りましょう」

 金田は藤田の言葉を黙って聞く。そして、藤田が道場から出て行ったのを感じつつ、金田はじっと座禅を組み続ける。

 有岡との一戦は、金田にとって筆舌しがたい気持ちを残した。

 ストリートファイトは、互いの全力をぶつけた勝負。あからさまな手加減をするものなど、居なかった。

 しかし、有岡は違った。

 彼は、純粋な格闘家だった。だからこそ、今までのストリートファイターたちとは違った。

 金田にとって、有岡は絶対に倒せない相手だった。だが、有岡の甘えによって勝ててしまったことに、彼は解せなかった。

 達成感の無いファイト。

 虚しさだけが、残る。

 金田は、板張りの床に向かって、右拳を叩きつけた。

 打撃音が、道場へと響く。

 過去の清算を賭けた有岡の勝負は、金田にとって何の意味を残さない、ただ後味が悪いものだけを残したのだった。

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