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血闘  作者: サトシ
8/12

第八話「粉骨砕身」

 目が覚めると、夜空がまず目に映った。次に、頭頂部から猛烈な痛みを感じて、頭が完全に覚醒する。その瞬間、早瀬は「完敗」したのだと痛感した。

 仰向けの状態で倒れていた早瀬はゆっくりと立ち上がった。漁港沿いに設けられた工場。まだ稼働しておらず、人気もしない。

 早瀬はジャージのポケットに仕舞っていた腕時計を取り出し、時刻を調べる。午前一時。二時間ほど、意識を失っていたらしい。

 約二時間前、早瀬はあるストリートファイターと闘い、負けた。こちらの攻撃を読んだ――否、完全に受け流しという名の「自動防御」といって過言ではない。

「くそったれ。手加減かよ」

 あの男から喰らった投げ技の痛みは既に消えている。本来なら、頭蓋骨が骨折してもおかしくない技だった。しかし、情けをかけられた――あるいは、男の気持ちが手加減を施したに違いない。

「ったく、猪江さんはとんでもねェ世界に引きずり込んでくれたよ」

 早瀬は独り言を呟きながら、ゆっくりと歩き出す。明日からまた、練習をしなければならないと決意したからだ。

 



 同時刻、PWWプロフェッショナル・レスリング・ワールド総本部、猪江ビル最上階。

「ああ、そうか」

 桜の木で作り上げた特注品の机に書類を広げながら、猪江は受話器を耳に当て、電話をしていた。そして彼の正面には、金田に匹敵するかのような肉体を持った男が突っ立っている。

 服装はスーツ姿。身長百九十センチ。体重百キロ。髪型はスキンヘッドで、縦にも、そして横にも長い大男はただ静かに猪江の電話が終わるのを待っている。

「負傷した連中には、きちんとした医療を行えるようにな。それでは、頼むぞ――いやぁすまないね、有岡くん」

 電話を終えた猪江はにこやかな笑顔を浮かべながら、眼前で立っている大男――FSWファイティング・シューター・ワールドの元レスラーだった有岡俊平ありおかしゅんぺいに詫びを入れる。

 しかし有岡は無表情を浮かべたまま、椅子に座っている猪江を見下ろしていた。

 その様子を見て、猪江はにやりと笑う。それは、決して場を和ませるものではなく、自分の企みがバレてしまったという、苦し紛れの表情。

「猪江さん、俺はもう格闘技から足を洗いました。面と向かって、貴方にそう告げたはずです」

 金田とのトラブルよって、青海プロレス、FSW両者は解散。その負い目を感じた有岡は格闘技から身を引き、今は普通の社会人として職を全うしていた。

「格闘技から足を洗っただと。ははっ、もしそうだとしたら、お前の身体は既に肉の塊だよ有岡くん」

 冷ややかな猪江の言葉。有岡は思わず眉をひそめた。

 格闘技から足を洗ったといえど、有岡は体を動かしていた。毎晩、仕事終わりにジムで汗を流す程度には。もちろん、格闘技のジムではなく、一般的なスポーツジムだ。

「君は闘いを望んでいる。そうじゃないのかね、有岡――いや、『デッドリー有岡』」

 有岡のリングネームを言いながら、本革で造られた椅子から腰を上げ、猪江は背後で敷き詰められたガラス窓へと向かう。十五階の高さから眺めることができる、大阪市内。

「見ろ、有岡。このネオンに輝く街並みを。道路に行き交う車両、その中で敷き詰められるように生活する人々。そして、この中で、密かに行われる『ストリートファイト』。お前も、感じ取っているはずだ」

 自らを「ロマンチスト」と称する猪江は、顎を擦りながら持論を述べる。それを聞いていた有岡は、握り拳を作り、より一層険悪な表情を作った。

「猪江さん、貴方はあのときの騒動に何ら負い目を感じなく、檄を飛ばそうとしているのなら――俺は貴方を見損ないました」

 青海プロレスと、有岡が所属していたFSWを共倒れにさせた原因の一つだった猪江。有岡にとって彼は、金田と同じく「格闘技」から離れる要因の一人だった。

 それを分かっているのに、猪江は有岡にこう告げた。「お前も、真剣勝負の道に歩め」と。

「話すことはないです。失礼します」

 有岡は猪江を見限った。彼はお辞儀をすると、そのまま踵を返し、部屋のドアへと向かった。

 そして、ドアノブを握り、部屋から出ようとする。

「金田が、ストリートファイターとしてこの大阪市内で活動しているそうだ」

 一瞬だけ、有岡の動きが止まったのを猪江は見逃さない。しかし、有岡は何も言わず、部屋から出て行った。

 それを見届けた猪江は、満足そうな顔を浮かべて、机に置いている電話機の短縮ダイヤルを押して、受話器に耳を傾ける。

「藤田先生、猪江です。明後日の夜、軽く一杯でも行きませんか」

 



「珍しいね、猪江くんからお誘いとは」

 藤田は陽気に笑いながら、左隣でウィスキーのロックを嗜む猪江の計らいに喜ぶ。しかし、藤田の右隣でビールを飲む金田の顔は、険しい。

 大阪市内難波――アーケード街の地下、会員制のバー。そのカウンター席に猪江、藤田、金田が順に椅子へ座って、酒を飲んでいた。

 店は静かな雰囲気で、数人の高級そうなスーツを着た大人たちがテーブル席で雑談を交わしながら酒を飲んでいる。

 一方、スーツ姿の猪江はともかく、ジーンズにポロシャツを着ている藤田と金田は不似合いな格好をしていた。

「金田の退院祝い――いや、宣戦布告を伝えに来た」

 ロックグラスを片手に、冷ややかな猪江の一言。

 金田は口に付けようとしたジョッキの手が止まる。一方の藤田はお猪口に入っている日本酒をぐいっと飲み、喉で味わいながら、一息をついた。

「俺があの界隈に送り込んだ刺客――小晴と早瀬がやられた。早瀬はともかく、小晴はしばらくの間、ベッドの上で生活するだろう。俺はいくらでも、刺客を送り続ける」

 藤田が諏訪田と会う手前に闘った、柔術家――小晴。彼は古武術華剛流の総師範である藤田によって、「潰された」。そして、早瀬も同様、金田によって倒されている。

「猪江くん、私たちは『虎狩り』を今まさに行っている。邪魔をするのであれば、言葉通り相手になるぞ」

 険悪な雰囲気が流れている。第三者から見れば、そう感じ取ってもおかしくない空気。

「三つ巴か。いいね、藤田先生。俺はそういう『台本』が好きだぜ」

「勘違いをしては困るな。我々は筋書きでは動かないぞ」

 藤田の言葉に、猪江は笑う。無論、藤田も笑っていた。しかし、蚊帳の外である金田は至極つまらなさそうな表情を浮かべ、ジョッキに入っていたビールを一気に飲み干した。

「金田、程々にしておけよ」

 もう一杯、とバーテンダーにビールをおかわりしようとしていた金田を、猪江は制止させる。金田は言うのをやめて、猪江の方へ顔を向ける。

「今日の夜、二十三時。あるストリートファイターが淀川区新北野の十三バイパス下に来ている。しかも金田、お前をご指名だ」

 金田は腕時計の針を確かめる。現時刻、二十一時半。今からでも十分に間に合う。金田は居てもたってもいられなくなり、立ち上がる。

 藤田も無言でそれを許可し、頷いた。

「あの時の清算をするんだな、ドラゴン金田」

 猪江の一言。金田はそれに返事をせず、バーから出て行った。




 数メートル上に建てられた阪神高速道路11号池田線の下を、金田は歩いていた。

 河川敷の、川沿いに向かって永遠と続く横に長い道。数メートル左には、ゆったりと流れる淀川が見える。

 かれこれ、三十分はずっと歩いている。指定された場所へは、タクシーや近くの駅前からでもすぐ行ける距離。しかし、金田は「荒ぶる心」を必死に押さえつけるために、やや離れたところから目的の場所へ向かっていた。

 鉄橋を潜ると、その先数十メートル先に二つの橋――その手前が、目的地となる十三バイパス。

 金田は、体中から発せられる闘気を十二分に発しながら、ゆっくりと歩く。

 十分もかけて、金田は十三バイパスの手前へたどり着くと、一人の男がこちらに背中を向けていた。その距離、約三メートル。

 わざとらしく金田は砂利を踏みつける。それに気付いた男は、ゆっくりとこちらを向いた。

 袖捲りをした白色のシャツからはっきりと浮かび上がっている筋肉の山々。

 スキンヘッドの髪型に、金田と負けず劣らず――否、金田よりも一回りほど横にも縦にも「長い」男。

「久しぶりだな」

 金田は数年ぶりに出会う男に、まるで知己の様に話しかける。

「ああ、そうだな」

 金田の正面に立つ男――有岡は構えた。

「多くは語らない。そうだろう、ドラゴン金田」

「もちろんだとも、デッドリー有岡」

 お互いのリングネームを呼び合った両者は、アップライトの構えを取る。足の向きは正面を向いており、それは両者がかつてプロレスで取っていた構えと一緒だった。

 じわじわと二人は近づき、その逞しい両腕がお互いの胸元へと届く範囲となった瞬間、金田は動く。

 貫手をベースにした、古武術華合流が打撃技――首狩り。

 ナイフのように鋭く、岩のように堅く折れ曲がった右人差し指の第二関節が、有岡の首へと向かった。

 それを、有岡は「受け止めた」。

 首の根を止めるかのごとく繰り出された打突技。金田にとって、それは牽制でも何でもなく、本命の一撃として放った。

 しかし、それは有岡の首は耐えた。ここで金田は、失念していた。

 デッドリー有岡は、自分と同じ「プロレスラー」ということに。

 がら空きとなった金田の右わき腹に向けて、有岡は左の膝蹴りを繰り出した。腹部にそれを喰らった金田は、有岡から離れようとバックステップをしようとする。

 後退する金田に対して、有岡はそれを許さない。彼は両手を使って、金田の両肩を押さえつけ、動きを抑制した。

 だが金田は後退を出来なかったことに対して、すぐに見切りをつける。彼は両手を「拘束」に使うために、防御を捨てた有岡の身体へ攻撃を開始。

 腹部に右拳によるパンチを二連撃。更に間髪を入れず、彼はその額を武器にして、有岡の鼻へ向けて叩きつけた。

 無論、腹部や鼻に攻撃を喰らった有岡はたまらず、距離を離す。

 膝蹴りを喰らったのにも関わらず、平静をアピールするかのように闘気を発する金田。

 ひしゃげた鼻から止め処なく流れる鼻血を手の甲で拭いながら、有岡は構え直した。

「有岡、これはプロレスじゃねぇんだぜ。筋書なし、手加減無用のストリートファイトだ」

 後退する自分を制止しようとし、防御を怠った有岡に金田は咎める。有岡はそれに対して、何のリアクションも取らずにじりじりと前へ詰める。

「感覚が染みついているのか、デッドリー有岡」

 軽くステップを踏みながら、金田は挑発を繰り返す。

 先程の、膝蹴り。あれは、手加減がされていた。もし本気を出せば――体重と速度が乗れば――金田がかつて闘った、雨宮と同等もしくはそれ以上の破壊力があったはずだ。

(駄目だ。本気を出そうとすると、身体が止まってしまう)

 もちろん、それを有岡自身が良く理解していた。これは、真剣勝負――ストリートファイト。今まで自分がやってきた、エンターテイメントとは違う。

 そして、自分が此処にやってきたのは――過去の清算。金田との決着を付けたいがために、来た。

(なのに――)

 両腕を顔のところまで上げながら、前頭姿勢で突っ込む金田。有岡は馬鹿正直に突っ込む金田に対し、右ストレートを打ち込む。

 しかし、勢いが乗っていないそれは金田にとって無きに等しい。彼は、正面から向かってくる右拳を右手で振り払った。そのまま、有岡の懐に潜り込む。

 腹部に向けての、強烈なボディブローが有岡に襲い掛かる。しかし、彼は腹筋に最大限の力を注力し、屈強な肉の壁によって弾いた。

 それでも、金田は連続して繰り出そうとした。だが有岡は、無防備な金田の横顔にエルボーを叩きつける。

 脳を揺さぶるその一撃に、思わず金田はよろめく。その隙を突いた有岡は、彼との距離を離した。

 仕切り直し。

 その様子を見て、金田は両肩を震わせた。さらに表情は怒気に満ちており、歯を食いしばっている。

「有岡ァ。おめぇ、何のために来たんだ」

 怒声。

 周囲に響くかのごとく、金田は有岡に向かって問いかける。

 消極的、否――ストリートファイトの本質を受け容れていない有岡の行動に、金田は感情を露わにした。

 己が肉体のリミッターを外して、どちらかが倒れるまで戦い続ける。それが、ストリートファイト。

 だが有岡は、リミッターを外そうとしない。

 受け手が、明らかな加減を感じる攻撃の数々。現に金田は、肉体にダメージが残っていない。

「俺との清算をするんじゃなかったのか」

 金田の一声と同時に、彼は十八番である十六文キックを繰り出した。一瞬のうちに有岡との距離を詰め、さらに彼の顔面に金田のシューズの底がめり込んだ。

 一瞬の出来事――かつて、リング上で喰らった十六文キックよりも洗練された――に、有岡はよろめく。体勢を立て直そうとする有岡だったが、彼の身体中に金田のラッシュが襲い掛かる。

 腹部、脚部、頭部、腕部――四肢の至る所に、打撃技が止め処なく叩きつけられた。

 終わることが無い、攻撃の数々。有岡は、防戦一方となっていた。




「猪江さん、どういうつもりなんですか」

 藤田との一杯が終わり、ほろよい気分で社長室の椅子に座っている猪江の前に、南方渓みなみかたけいが焦燥の表情を浮かべて、事の経緯を問い詰めていた。

 PWWの現場監督にして、猪江に次ぐ地位を持っている男、それが南方だった。

 坊主頭に、『鬼教官』という言葉が相応しい強面の男。年齢は猪江とはあまり変わらない。

 猪江は何も言わず、ウィスキーと氷が入っているグラスを片手で揺らしながら、やがて一口つける。

「俺は有岡と個人的な話をしたまでだ」

 グラスから口を離すと、しらばっくれる猪江に、南方は唇を噛み締める。

「冗談だ、南方。確かに、俺は有岡を『焚き付けた』。それに意味はあるのかね」

 大方、『古巣』の大先輩である南方を思ってのことだ。有岡は金田と一戦交える手前に連絡を入れたのだろうと、猪江は確信していた。

「有岡は、格闘技から足を洗いました。例え、金田との決着をつけるにしても――ジム通いでリバウンドを防止しているあいつが、金田と真剣勝負などと」

「俺に直談判する余裕があれば、今すぐにでも有岡を止めるために奔走しているはずだぞ、南方」

 確信を突く猪江の言葉に、南方は視線を床へ落とす。それを見て、猪江はグラスを片手に椅子から立ち上がると、ネオンに輝く大阪市内を見下ろした。

「お前も、気になるんだろう。だから、俺にわざわざ詰め寄る形で確認してきた」

 思惑を見抜いていた猪江に、観念した様子を南方は表情で浮かべた。

「猪江さん、私は貴方のやり方には賛同しません。ですが、こうなってしまった以上――野次馬と思ってくれて構いません、あの二人の対決が気になります」

 FSWファイティング・シューター・ワールド

 総合格闘技をベースにしつつ、プロレス特有の「エンターテイメント」を追求した、新興格闘技団体。有岡は、そこに所属していた。

 猪江や金田が所属していた青海プロレスと同じく、中部地方をベースとしており、昨今の総合格闘技ブームに上手く乗っかっただけあって、商業的には青海プロレスよりも成功していた。

 しかし、プロレス特有の「ブック」に馴染めない、生粋の「総合格闘技家」にしてみれば、FSWは酷く居心地が悪かった。例え給与や待遇が良くても、郷に入って郷に馴染めなければ意味が無い。

 中途で離脱する選手が多い中、有岡はFSWを文字通り引っ張っていた。

「南方よ。二人の勝負、どうなると思う」

「無論、有岡でしょう」

 きっぱりと、南方は断言する。それを聞いて、猪江はさも満足そうな表情を浮かべた。

「あいつは、総合格闘技の世界に飛び込めば、間違いなくトップクラスと称される逸材。もちろん、金田の実力も知っています。あいつは、生粋の『格闘家』。有岡よりも、ストリートファイト上のアドバンテージは言わずもがなです。だけど、有岡は引退するまでずっと『演じて』いたのですよ。あのリングの上で、何年も道化を」

 南方の持論を聞きながら、猪江はウィスキーを飲む。

「しかし、リングに何年も縛られていた彼が本来の『力』を発揮するには、随分な時間がかかります。何せ、本気で人を殴打するわけですから――それが出来るのは、理性のタガが外れたときぐらい、あるいは覚悟が出来た者のみ」

「それを、有岡ができるかどうかだな」

 南方の言葉に、猪江は付け加える。南方は黙ったまま、こくりと頷いた。




 金田の掛け声と同時に、強烈なローキックが有岡の右足を叩きつける。その一撃で、有岡は大きくよろついた。猛烈なラッシュの中で、明らかに狙っているとされる右足のローキックが、響く。

 あの時、金田に破壊された右足は未だに古傷が疼いている。金田はそれを知っていて、執拗に攻めていた。

 有岡はもはや我慢比べは無理と気づき、正面でもう一度ローキックを繰り出そうとする金田の腹部に左前蹴りを放った。

 だが、金田はそれを察していたのか、有岡の前蹴りを両腕で交差して受け止める。勢いを殺された左足を、金田は右脇にしっかりと締めて、キャプチャーする。

 有岡がこの状況を理解するよりも早く、金田は一直線に伸びきった彼の左足の膝に、肘鉄を振り落す。

 形容しがたい激痛。

 金田は肘鉄を何度も繰り返す。連続した痛みに、有岡は反撃を忘れてしまい、何もできずにいた。

 有岡は苦痛に顔を歪め、身体を支えている右足を折り曲げ、地面へ付こうとする。

 すると金田は左足を脇から解き、ゆっくりと片膝を付こうとする有岡の顔面に向けて、強烈なストレートパンチを放った。

 鼻を中心に、めり込む金田の裸拳。その一撃をまともに喰らった有岡は、そのまま前のめりに倒れる。

 それを見届けた金田は、ひどく冷めた視線を有岡に向けようとした。

 刹那、有岡は踏ん張ったのか、右手を地面に付き、支える。そのまま、ゆっくりと立ち上がると、ファイティングポーズを取った。

 止め処なく流れる鼻血を拭うことをせず、よろよろと左右に揺れながら構える有岡。そんな彼の姿を見て、金田は慢心をしない。

 一瞬の探り合い。先に仕掛けたのは、有岡。

 大きく横殴りに繰り出される右のフック。見え透いた攻撃に、金田はそれを左腕で受け流して、がら空きとなった顎へアッパーを叩き込もうと動く。

 風を切って、金田の左頬へ向かう有岡のフック。それを左腕で止めようとした。だが、予想以上に体重とスピードが乗ったそれに金田の左腕は負ける。

 勢いを殺せなかった、有岡の右フックは金田の頬へ直撃。口内に残った唾液が霧状に噴出しながら、金田の顔は横へ曲がる。

 金田は両足を四股を踏むようにしてずっしりと踏ん張る。一方、有岡は左フックによるコンビネーションで追撃。

 それに気づいた金田は、とっさに屈むように腰を低くした。直後、頭上を有岡のフックが空を切る。

 がら空きとなった有岡の腹部。金田はそこに狙いを定める。しかし、それを有岡は見抜いていた。

 有岡は、ちょうどいい「高さ」に顔を落としていた金田に向けて、左膝蹴りを打ち込んだ。まるで弾丸のように放たれたそれに、金田は攻撃を中断し、自身の顔を両手で防ぐ。

 金田は分かっていた。この防御は、焼け石に水だということに。

 生々しい音と同時に、膝で押し潰された両手ごと鼻がひしゃげる音。同時に、両手を使ってでも、有岡の膝蹴りを抑え込むことができなかったという「痛覚」が襲い掛かった。

 金田は、顔を中心に広がる衝撃に身体が吹っ飛ぶ。両足が地面から数センチほど離れ、自分が一瞬だけ宙に浮いているという感触。

 砂利道に背中を打ちつけた瞬間、金田は受け身を取り、すぐに立ち上がる。その際に有岡との距離を置き、追撃を免れた。

「いよいよってか」

 ひしゃげた鼻から爛れる血を右手で乱暴に擦る金田。

 一方、満身創痍の表情を浮かべながら、肩で息をする有岡。彼はようやく、金田に反撃を出来たことに確信を得る。

 狙っていたわけではない。ほぼ、反射的――身体が直感的にその行動を取れと命令された。フックをフェイントにした、コンビネーション。

 今の今まで、本気で人を殴ることに抵抗を持っていたために、不甲斐ない攻撃を繰り出すことしかできなかった。

 だがようやく、理性のタガが外れたと有岡は決心する。

「だったら、遠慮はいらねぇよな」

 垢抜けた表情――ストリートファイターとしての階段を昇った、有岡の殺気立った顔を見て、金田は笑みを浮かべる。

 金田は、アップライトの構えから古武術華剛流の構え――左手は腰に。右手は手刀のように伸ばしながら、肘を折り曲げつつ、刀を構えるように――を取った。

 その独特な構えに、有岡は警戒をしたのか慎重になる。しかし、やることは一つ。

 相手を叩き潰す。

 前へステップをしながら、有岡は接近。一方の金田はカウンターを狙っているのか、迎撃はしない。

 それを好機と捉えた有岡は、左腕で半身を防御に使いつつ、右腕に全身全霊をかける。

 そして、右のアッパーカットを目にも止まらぬ速さで繰り出した。その軌道は、まるで「ソフトボール」の投球フォームそのものだった。

 背中へ隠れた右腕が、一秒以下という速さでアッパーカットとして対戦相手に直撃する。

 現役時代、このアッパーカットは「インヴィジブル・アッパー」として、デッドリー有岡の代名詞となっていた。

 無論、試合ではある程度の加減はしている。だが、本気で打ち込めばどうなるのか、有岡は知る由もない。

 ただ一つ言えることは、相手を「下」から叩き潰す。

 有岡のアッパーは吸込まれるかのように、金田の顎へ。しかし、その寸前――僅か数センチのところまで拳が来た瞬間、有岡の右手首が金田の両手によって掴まれていた。

 ナメクジか何かが、這いまわるような「悪寒」が右手首を通じて身体全体に広がるのを有岡は感じる。

 だが有岡は、そのまま打ち切るかのように足首をスナップさせ、腰に力を注入し、右肩を振り上げた。体重と速度が更に乗った有岡のアッパーは、金田の両手を振りほどき、そのまま彼の顎へ直撃。

 歯と歯が強制的に接合される、堅い音。同時に、骨が砕ける歪な音と共に金田は後ろへよろめく。

 通常なら、この一撃で脳まで揺さぶって、脳震盪まで起こるほどだと思っていたが、さすがはプロレスラー。

 並半端なフィジカルとスタミナではないと有岡は感心しつつ、追撃。

 ふらつく金田の左足に、ローキック。蹴り技はあまり得意ではないが、それでも金田ほどのプロレスラーを痛めつける技量を有岡は持っている。

 が、既にあのアッパーカットでかなりのダメージを負っている金田にとって、今はどんな攻撃も致命傷に近い。

(あの掴み技。注意しなければ)

 金田の掴み技――得体のしれぬ違和感を覚えた有岡は、それを頭の中に留めつつ、キャプチャーされにくいローキックやジャブなどの小技を織り交ぜながら、ミドルキックやフックで確実に金田の身体にダメージを刻む。

 二度目のアッパーは掴まれる可能性が大いにあると見越し、一撃目のダメージを背負っている「今」に金田を倒さなければならない。

 だが、相手はドラゴン金田。そのスタミナ、フィジカル、パワー、どれをとっても超一流。まして、このストリートファイト界隈での実績も馬鹿にはできない。

 さらに気がかりなのが、対峙したときの構え。

 プロレスではない、全く見知らぬそれに有岡は警戒をより一層高める。

 そのときだった。

 金田は、たまらず前蹴りを繰り出し、反撃へ打って出る。見え透いた反撃。しかも、こちらを誘ってからのカウンターの匂いは全くしない。

 仮に、相手の攻撃を受け止めて、カウンターを狙うのが金田のスタイルであれば、自分から打って出ることはあまりない。

 確信は持てないが、有岡は二度目の好機を得る。

 繰り出された前蹴りを腰を捻りながら回避し、がら空きとなった金田の右股へ有岡は左腕を挟みこむ。更に間髪を入れず、首を受身が取れないようにホールド。

 何の技をかけられるか気づいた金田が抵抗する前よりも早く、有岡は自分が立っている砂利道に向けて、後ろへ叩きつけるように投げた。

 キャプチュード(捕獲投げ)。

 有岡自身の体重と、金田を持ち上げるだけのパワーと、叩きつける速度。その三拍子が完璧に揃った、キャプチュード。

 さらに言えば、ここはプロレスのリングではなくアスファルトで補強された砂利道。

 人と叩きつけるような音ではなく、固い何かがぶつかった鈍い音。

 すると、有岡はまるで脱兎のごとく金田から離れる。彼は、非常に荒々しい息遣いをしながら、両肩を前後させる。

 そして、完璧に折れ曲がった自身の右手の小指を舌打ち交じりに眺める。その間に、金田はよろよろと立ち上がる。

 かなり危険なキャプチュードを喰らったのにも関わらず、立ち上がった金田。無論、彼にも先程のアッパーカットとキャプチュードのダメージは負っている。

 彼は折れかけた歯を無理やり舌や残りの歯を使って抜くと、それを止め処なく流れる血と共に吐き出す。

 有岡は小指からの痛覚を必死に我慢しつつ、キャプチュードで叩きつける、一秒の間に首をホールドしていた右手の小指が、金田に折られたことを理解した。

 首をホールドしていても、残っている両手を使えば、地面に叩きつけられる際のクッションとなる。だが金田はそれを、有岡の叩きつける威力を半減させるために、小指を折るという博打に出た。

 一秒、否、コンマという単位で指を折らなければ、そのまま全身全霊のキャプチュードが金田の頭を叩き割っていた。

「これが、お前の住む世界か。金田」

 一筋の汗が額に流れるのを感じながら、有岡は呟いた。

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